『D.C.P.S.〜ダ・カーポパラレルストーリー 音夢草子 春の章』
……気がつくといつもその場所にたどりついている。
そこで待っていれば必ず見つけてくれることを知っているから。
だから、わたしはこの満開の桜の木の下で今も兄さんが来てくれるのを待っている。
ズボラでめんどくさがりで、でも優しいわたしの兄さん。
わたしは本当の妹じゃないけれど、兄さんは本当の妹以上にわたしのことを大事にしてくれている。
だから、妹でもいいと思ってた。そんな関係がいつまでも続くはずないのに。
けど、わたしは妹で、兄さんは兄さんだから……。
そんなふうに考えたところで、この気持ちをどうにか出来るはずもなかった。
わたしは兄さんの気持ちも知ってしまったから、だから、わたしは……。
1
――こんなことって。
思わず取り落としそうになった紙を机の上に戻すと、純一は急いで家の外へと飛び出した。
――妹がいなくなった。
たった一枚の書置きを残して、彼女は純一の前からいなくなってしまったのだ。
純一にはわかっていた。
彼女がどんな想いでそれを残したのか。そして、今どんな想いでいるのかも。
だから、自分は答えなければならない。あの場所で彼女を見つけて、想いを伝えるのだ。
桜の舞う夜道を純一は走った。
やがて見えてくる桜の古木は二人の思い出の場所。
降り積もる花びらを踏みしめながら純一は桜の下に佇む人影へと近づく。
振り向いた少女は微かに唇を動かし、そして……。
「……ん……、わっ、ね、音夢!?」
薄っすらと目を開けた純一は思わず声を上げて飛び起きた。
すぐ目の前で見なれた妹の顔が笑っていた。
そこは自分の部屋のベッドの上で、純一は自分が夢を見ていたのだと悟った。
しかし、唇に残るこの柔らかく暖かい感触は……。
「うふふ、おはよう、兄さん。起きた?」
「ああ、おはよう音夢。って、今もしかして……」
「兄さん前に言ってたでしょ。こういう起こし方されてみたいって」
「そっか。でも、寝てるともったいないなぁ、これ」
「じゃあ、もう一回する?」
「あ、ああ……」
二人の距離が近づいて、その唇が優しく重ねられる。
それは心の底から望んでいた二人の新しい朝の始まりだった。
*
――兄妹から恋人へ。
二人の関係を変えたのはほんの小さな口付けだった。
同じ気持ちだったから、ただお互いに素直になるだけでよかった。
尤も、それが中々出来なかったから苦しんだのだけれど……。
朝食を済ませ、戸締りを確認して、家を出る。
純一たちの通う私立鳴神学園はこの街で唯一の中高一貫校である。
中等部から高等部への進学はエスカレーター式で、入学試験が行なわれることもない。
クラスのメンバーが変り、担任が変ったり変らなかったりはするが、それだけである。
春休みが終わり、入学式が済めば、後はまたそれまで通りの学園生活が始まる。
学生たちは実に気楽に、あるいは退屈に思いながらその現実の中に溶けていくのだった。
それは純一たちとて同じはずなのだが、不思議とつまらないとは思わなかった。
通い慣れた通学路を彩る満開の桜。そして、隣を歩く妹の顔には極上の笑顔がある。
父親の海外赴任の関係で両親がアメリカへ渡ってから一年。
二人きりの生活が始まった頃はまさかこんな日が来るなんて思いもしなかった。
「それじゃ日直、号令よろしく」
担任教師の声で日直が号令を掛け、始まったばかりのホームルームが終了する。
よほど特別な連絡事項でもない限り、純一たちのクラスは大抵そんなものである。
中学一年のときから変らない担任の朝倉のぞみは大雑把な性格の女性教師だった。
放任主義者と教師陣の間では不評だが、がみがみと口喧しくない分生徒たちには人気が高い。
この日も手早く出席簿をチェックすると、必要なことだけを簡潔に述べて去っていった。
ちなみに、今日の欠席は二名。そのうちの一人は音夢の親友である神崎知美だった。
「知美、今日もお休みなんだ」
空っぽの席の一つを見つめながら、浮かない顔で呟く音夢。
「そういや昨日の入学式でも見なかったな。どうしたんだ、あいつ」
「風邪をこじらせちゃったんだって。彼女、抵抗力弱いから心配だよ」
「そうなのか?」
意外そうに尋ねる純一。
「普段は元気でも一度病気になっちゃうと中々治らなくて。何日も寝込んだこともあるの」
「心配なら見舞いに行ってやればいいじゃないか。家の場所知ってるんだろ?」
「もう行ってきたよ。でも、うつすといけないからって会ってくれなかったの」
「なるほど。おまえも免疫は強いほうじゃないからな。気をつけろよ」
「うん……」
なぜか曖昧に頷く音夢。
「どうした。まさか、もうどこか具合悪いのか?」
「ううん。でも、兄さんが看病してくれるんなら、風邪引いてもいいかな」
「ったく、おまえってやつは」
微かに頬を赤らめながらそう言う音夢に、純一は思わず苦笑した。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り、今学期最初の授業が始まった。
壇上に教師が立ち、生徒達はもらったばかりの教科書を広げてノートを取る用意をする。
だが、講義というのはこちらが興味を持たない限り、そう面白いものではない。
真面目にノートを取っていても、やがては退屈が呼び寄せた睡魔と戦うことになるのだ。
純一もどちらかと言えばそのくちで、しかも大抵は早々に戦線を離脱してしまうのだった。
「……さん。兄さんってばぁ」
激しく体を揺すられ、純一は夢の彼方より帰還した。
「んー、音夢……」
「ほら、ちゃんとして。もうお昼だよ」
「何!?」
純一は思わずがばっと起き上がった。
「ちょっと兄さん、どこ行くの?」
「学食に決まってるだろ。おまえも急がないと食いそびれちまうぞ」
「それだったら、ご心配なく」
そう言って、音夢はにこにこしながら小さな包みを差し出した。
「お弁当作ってきたの。一緒に食べよ兄さん」
「ちょっと待ってくれ」
そう言うと純一はぐるりと教室の中を見渡した。
大方、学食か購買にでも行ったのだろう。教室内に人の姿はほとんどない。
弁当持参の数名が残っている外には日直が黒板を消しているくらいである。
「ノートならわたしが取ってるから後で写させてあげるよ?」
「いや、そのことじゃないんだ」
「じゃあ、何?」
言葉を濁す純一に、音夢はかわいらしく小首を傾げて聞いてくる。
「なぁ、音夢。今日は天気もいいし、せっかくだから外で食べないか」
「いいけど、どこにする?」
「そうだな……」
*
重い扉を押して屋上に出ると、思った通りそこには誰もいなかった。
比較的きれいな場所を選んで腰を下ろし、音夢は弁当の包みを解放する。
横から中身を覗き込んだ純一は思わず感嘆の声を上げた。
「へえ、うまそうじゃないか」
「でしょ。結構自信あるんだ」
そう言うと、音夢はおかずの一つを箸でつまんだ。
「食べさせてあげる」
「やっぱ、そうなるわけだ」
音夢がこういうシチュエーションを好むことはよく知っている。
所謂お約束というやつである。
純一もそういうのを嫌いではないのだが、さすがに人前というのは恥ずかしい。
だから、こうしてわざわざ人目につかない場所を選んで移動したのだ。
「はい、兄さん。あーん、して」
音夢は状況を楽しむかのように一つ一つ丁寧に純一の口に運んでは感想を聞いてくる。
逆に純一が音夢の口におかずを運ぶと、彼女は幸せそうにそれを咀嚼するのだった。
弁当箱はあっと言う間に空になり、二人の楽しいランチタイムも終了する。
――季節は春。
柔らかな陽光の中に咲き誇り、舞い散る桜は儚くも美しく風景を飾っている。
屋上の床にはどこから運ばれてきたのか、数枚の淡い花弁が落ちていた。
その一つを拾い上げると、純一は立ち上がってフェンスの側まで歩いた。
「兄さん?」
弁当箱を包み直していた音夢は、きょとんとした顔で兄の背中を見上げる。
「見てみろよ。あの桜、まだ満開だ」
「本当だ」
純一の隣に立って中庭を見下ろした音夢は思わず感嘆の声を漏らした。
通学路の桜並木も美しかったが、中庭のそれはより鮮やかに咲き誇っていた。
「あの桜、このままずっと枯れなかったりしないよね」
「まさか、魔法の桜じゃあるまいし」
そう言って純一は軽く笑い飛ばしたが、音夢の横顔から不安の色は消えなかった。
この春、偶然にも兄妹は同じタイトルの本を手に摂っていた。
それは年中枯れない桜の咲く島で起きたちょっと不思議な恋物語。
物語を織り成す二人は義理の兄妹という関係で、妹の本当の両親はもう死んでいた。
そして、その境遇はそのまま渡瀬兄妹のそれと一致する。
だからこそ、彼女は感情移入し過ぎてしまったのだろう。
「ずっと思ってた。わたしも兄さんとあの二人みたいになれたらいいのになって」
「なれたじゃないか」
「うん。……わたし、今すごく幸せだよ。怖いくらい幸せなんだから」
「音夢……」
純一にはわかっていた。ずっと一緒だったから。だから、音夢の気持ちはわかる。
音夢が何を考え、何に怯えているのか。彼にはわかってしまうのだ。
だから、純一は音夢を抱きしめて優しく言ってやる。
「大丈夫。ここには出来損ないの魔法使いも桜の魔女もいないんだ」
「うん……」
少しだけ涙の混じった声で頷く音夢を、純一はもう一度強く抱きしめてやった。
「さ、もう戻ろう。授業始まっちまうぞ」
そう言うと、純一は音夢の肩を抱いて屋上を後にする。
……大丈夫。そう、例え何かが起きたとしても、そのときは俺がこいつを守るんだ。
*
「兄さん。そこ、綴り間違ってるよ」
半分ミミズがひしめき合っているようなノートを音夢が横から覗き込んで指摘する。
ぼんやりしていた純一は慌ててその個所を訂正した。
多くの学生にとって、午後からの授業は本格的な睡魔との戦いとなる。
純一とてそれは例外ではない。
音夢の手作り弁当で満たされた腹は彼女の愛情を消化・吸収するため、現在フル稼働中だ。
おかげで脳は酸欠状態である。
不足を補う為のあくびも追いつかず、純一の意識は次第にまどろみの中へと沈んでいく。
「兄さん。寝ちゃダメだよ。まだ授業終わってないんだから、ちゃんとノート取らないと」
「わかってる。わかってるんだが……」
そう言いつつ、純一は既に閉じかけている瞼を手で擦ってみる。
無論、そんなことくらいで睡魔を退けられるはずもない。
これが本日最後の授業なのだが、どうやら起きたまま乗りきるのは無理そうである。
「悪い。音夢。後でノート写させてくれ」
いつもの敗北宣言を残して、純一は開いたばかりのノートの上に突っ伏した。
誰かが自分の名前を呼んでいたが、それが現実なのか夢なのかはもはや判然としない。
……不思議な感覚だった。
意識は確かに遠退いていくのに、五感はいつにも増して鋭く冴え渡っている。
壇上で英文の説明をする教師の声。
クラスメイト達がノートにシャーペンを走らせる音。
そして、隣にいる音夢の息遣い、鼓動……。
すべてはっきりと聞こえていて、純一は自分が眠ってしまっていることすら忘れていた。
おかげで放課後になってのぞみに叩き起こされたときには心臓が止まるかと思った。
出席簿で殴られた頭をさすりつつ、純一は適当に帰り支度を始める。
既にホームルームも終わり、クラスメイトの何人かは早々に教室から姿を消していた。
「春休み明けでぼーっとしてるのはわかるけど、もう少し気を引き締めなきゃダメだよ」
「すみません」
再度注意を促すのぞみに、純一は素直に謝った。
「わかればよろしい。……ところで渡瀬、おまえこれから何か予定あるのか?」
「いえ、特にはないですけど」
「じゃあ、悪いんだけど、これを図書館に返しといてくれないか」
言いながら彼女はどこからともなく一冊の本を取り出すと、それを純一の机の上に置いた。
「あたしはこれから会議なんだ。よろしくな」
「え、ちょっと、のぞみ先生!?」
言うだけ言うと、のぞみはさっさと教室を出ていってしまった。
本とともに後に残された純一は仕方なくそれを鞄と一緒に持って席を立つ。
「……かったるい」
「しょうがないよ。はっきり断らなかった兄さんも悪いんだから」
などと話しながら、二人は並んで教室を出た。
「じゃあわたし、先に校門のところで待ってるから」
「悪いな」
「ううん。わたし、兄さんと一緒に帰りたいから」
教室を出たところで一度音夢と別れ、純一は一人会談を上っていった。
図書館は校舎の四階にあり、たどりつくには六十六段も階段を登らなければならない。
普段ならそれだけでかったるくてとても行く気にはなれないが、今日の純一は違った。
……音夢のやつ、そんなに俺と一緒に帰りたいのか。
何だか嬉しくて顔がにやけてしまう。
足取りも軽く階段を上りきると、純一は景気よく図書館のドアを開けた。
図書館には二人の図書委員を含めて数人の学生の姿があった。
中には知っている顔もあり、純一の姿を見ると意外そうに隣と顔を見合わせていた。
特に気にすることもない。
さっさと用事を済ませて帰ろうとした純一は奥から出てきた誰かと鉢合わせになった。
「ほう、珍しいな。おまえがこんなところに来るなんて」
そう言いながら現れたのは本日もう一人の欠席者、杉並浩平だった。
あまり顔を合わせたくない相手の登場に、純一は思わず顔をしかめた。
杉並は成績優秀でスポーツも万能なのだが、如何せん素行に問題があり過ぎる。
何かにつけてろくでもない企画を立てては実行し、その度に必ず問題を起こすのだ。
純一自身、去年の学園祭では奴の企みに巻き込まれてえらいめにあっている。
そんなわけで、彼としては特に必要でない限り極力関りたくないのである。
「おまえこそ初日から授業サボって何やってるんだ?」
「調べ物だ。尤も、あまり成果は上がらなかったがな」
そう言いつつ、征服についた埃を手で払う杉並。
よほど古い書物を触っていたのか、その手もまた白いものに塗れていた。
「そいつはご苦労だったな。じゃあ、俺は帰るから」
そう言ってくるりと踵を返した純一の肩を杉並の埃塗れの手が掴んだ。
「まあ待て。おまえに少し話があるんだ」
「妹を待たせてるんだ。また今度にしてくれないか」
「なら、俺の話を聞くまで夢見桜には近づくな。絶対にだ」
心成しか強い口調でそう言うと、杉並は肩に置いていた手を離して扉へと向かった。
どういうつもりなのだろうと思いつつ、純一はその意味を尋ねることが出来なかった。
タイミングを逃してしまったのである。
そのまま何となく一緒に図書館を出て階段を降りた。
――夢見桜。
確かに、そんなふうに呼ばれている桜の木がこの街にはある。
その木には不思議な力があって、妖精の巫女がそれを守っているのだという。
それは神話や伝承とは縁遠いこの街に唯一残っている言い伝えだった。
また、巫女は人間が邪念で聖域を汚せばその力を持って災禍を齎すとも言われていた。
現実主義者の杉並がまさかそんな伝承を信じているわけでもないだろう。
純一は特に気に留めることもなく、シューズボックスの前で靴を履き替えて外に出た。
「ところで。昼はなかなか楽しそうだったじゃないか」
「なっ!?」
純一は思わず立ち止まった。
「見てたのか!?」
「ずっと図書館にいたからな。丸見えだったぞ」
ニヤリと笑う杉並に、純一は思わず頭を押さえた。
あの屋上が隣の校舎より一階分低くなっていることを忘れていたわけではない。
予想外だったのは昼休みの図書館に人がいたこと。しかも、よりによって杉並である。
渡瀬純一、一生の不覚……。
「そう気にするな。誰もおまえたちの関係を悪いとは言ってない」
「俺と音夢は兄妹だぜ?」
「どうせ、義理の関係だろ。何を拘っているんだ、おまえは」
「別に拘ってるわけじゃない」
「だったら素直に幸せを満喫しろ。その方が俺も友として嬉しい」
「おまえ、本気で言ってないだろ」
「さて、どうだか」
そう言うと、杉並は止めていた足を校舎裏へと向ける。
「どこ、行くんだ?」
「俺の行くべき場所だ。おまえも早く行くことだ」
「自分で引き止めておいて、よく言うよ」
「いいからさっさと行け。姫君がお待ちかねだぞ」
冷やかすようにそう言うと、杉並は校舎の裏へと消えていった。
相変わらずよくわからん奴だと思いつつ、純一も音夢の待つ校門へと急ぐ。
杉並と話していたせいで若干遅くなってしまったが、音夢はまだ待っているだろうか。
心配しつつ校門まで行くと案の定、そこに音夢の姿はなかった。
まだそのへんにいるかもしれないと思って純一はきょろきょろとあたりを見まわす。
と、不意にその目が誰かの手に覆われた。
「だーれだ」
「音夢!?」
驚いて振り向くと、同時に純一の目を覆っていた手も解かれる。
「びっくりした?」
「心臓が止まるかと思った」
「嘘!?」
「嘘だ」
ニヤリと笑う純一。
「兄さん……」
「そう怒るなって。帰りに何かおごってやるから」
「本当?」
途端に顔を輝かせる音夢。
「わたし、クレープがいいな」
「公園の屋台のやつか?」
「そう。兄さんも知ってたんだ」
「学園でも評判だからな」
言いながら純一は公園へと足を向ける。
「兄さんはバニラクリームとチョコレート、どっちが好き?」
「そうだな……」
などと他愛のない会話をしつつ、二人は桜の舞う並木道をゆったりと歩いていった。
その背中を遠くに見つめる誰かがいたことには気づかないままに……。
*
その日の夜である。
いつものように音夢と夕食を取った純一はその後すぐに自分の部屋に戻ってきていた。
音夢から借りたノートで昼間取り損ねた個所を補足しておこうと思ったのだ。
しかし、六時間中まともに受けた授業が二時間しかないというのも情けない話しである。
いつものこととはいえ、さすがに音夢も呆れていた。
――兄さんの面倒を見るのはわたしの役目ですからね。
しょうがないなという顔をしつつ、そう言う彼女はちゃんとノートを貸してくれた。
休みに買い物に付き合わされることになったが、デートだと思えばそれも楽しみだ。
世話好きの妹に感謝しつつ、純一はシャーペンを握ってノートを開いた。
それから数刻……。
すべての作業を終え、純一は大きく一つ伸びをする。
時計を見るともう九時だった。
借りていたノートを持って階下に下りると、音夢がリビングでドラマを見ていた。
死に別れたはずの恋人が待ち続けていた少女のところに戻ってきて……という奴である。
……ご都合主義も甚だしい。一体、こんなののどこが面白いのやら。
そう思いつつ、何となく純一は音夢の隣に腰を下ろす。
ドラマはクライマックスらしく、夕日に染まった屋上で一組の男女が向かい合っていた。
ずっと待ち続けていたヒロインが初めて自分からその胸の内に秘めた思いを打ち明ける。
そして、主人公らしい少年もそれに答えようとして……。
「なんつーか、お約束だよなこの展開」
「まあ、これはそういうドラマだからね」
率直な感想を漏らす純一に、苦笑しながら音夢が言う。
やはり、これは作られた世界。人の願望が作り上げた自分勝手な物語だ。
――本当の女の子はそんなに長く待ったりはしない。
それはとても悲しいことだから。
そして、純一はそんな辛い思いを一番大切な女性にさせてしまっていたのだ。
その事に気づけなかった自身の不甲斐なさが同類への嫌悪となって彼を苛立たせていた。
「ねえ、兄さん」
不意にぽつりと音夢が言った。
「昨日のわたしたちもこんな感じだったのかな」
「どうだろうな」
画面を見ながら頷く純一はどこか上の空である。
何だかんだ言っても結局は架空世界の恋人たちの行く末が気になっているらしい。
そんな自分が少しおかしくもある。
あるいは音夢の言うように、そこに昨夜の自分たちを重ねているのかもしれなかった。
桜の木の下で月光に照らされて向かい合う姿は確かにドラマチックと言えなくもない。
そんな雰囲気に背中を押されたのか、初めてのキスは彼女の方からだった。
触れ合っていたのはほんの一瞬、しかし、二人にとっては永遠にも感じられる至福の時。
その幸せを求め合うように、二人はまたキスをして……。
「……再現してみるか?」
「えっ」
何気なくを装った声で尋ねる純一に、音夢は思わず顔を上げた。
「いや、か」
「……いいよ。でも、今度はちゃんと、最後まで……」
赤い顔でそう言う音夢の瞳はドラマへの感動とは別の理由で潤んでいた。
二人は互いにキスにその先があることを知っていて、彼女は今それを臨んでいる。
だから、最後の確認のつもりで純一は聞いた。
「本当に俺でいいんだな?」
「わたしは兄さんがいい。……兄さんじゃなきゃダメなの」
音夢は小さく、だがはっきりと頷いた。
見詰め合う二人。その唇が再び重なる。
純一は音夢の体を強く抱きしめ、そして……。
*
「……じゃあ、兄さん。おやすみ」
おやすみのキスを交わして音夢は自分の部屋へと戻っていった。
少し足元がふらついているようだったが、あんなことをした後ではそれも仕方ない。
リビングでのことを思い出し、純一は慌てて自分の部屋へと駆け込んだ。
そのままベランダに出て夜気で火照った体を冷やす。
四月といえども夜は寒く、長くあたっていれば風邪をひきそうだった。
適当に涼んで部屋に戻ると、純一は明りを消してベッドにもぐり込んだ。
いつもの習慣で目覚ましをセットしてから、その必要がないことに気づいて苦笑する。
……あいつは明日もあんな起こし方をしてくれるのだろうか。
今朝の出来事を思い出し、思わずにやけてしまう。
さすがに人には言えないよな、などと思いつつ、純一は目を閉じる。
耳を澄ませば、薄壁一枚隔てた向こうに彼女の小さな寝息が聞こえそうだった。
「……おやすみ、音夢」
聞こえるはずもない呟きを漏らしつつ、彼の意識は眠りの園へと旅立っていった。
2
……笛の音が聞こえる。
遠く、けれどはっきりと聞こえてくる……。
その美しくもせつないメロディーに誘われるように、俺は桜の森の中を進んでいた。
やがてたどりついたその場所は一人の少女と思い出の時を過ごしたあの桜の木だった。
齢を数えるのもバカらしくなる程の時を重ねた大きな桜の古木。その下に、いた。
満開の花から零れるように舞い降る花弁を全身に浴びながら、一人笛を吹いている。
その幻想的な美しさに、俺は思わず見惚れてしまった。
やがて、演奏は終わり、閉じられていた少女の瞳が開かれる。
少女はその真紅の瞳に俺を認めて微笑むと、不意に薄れて見えなくなった。
*
早朝の冷たい空気が目覚めたばかりの純一をベッドの中に拘束していた。
日中はだいぶ暖かくなってきたものの、朝のうちはまだまだ肌寒い日もある。
尤も、そういう日は大抵一日晴天で、快適に過ごせることが多いのだが。
いつもの習慣で目覚まし時計へと手を伸ばして見れば、まだ起きる時間にはだいぶ早い。
休日であるにも関らず、こんなに早く起きてしまったのはやはりあの夢のせいだろうか。
今も耳の奥に残っているその旋律に純一は不思議な懐かしさのようなものを感じていた。
……きれいな曲だったな。
率直かつ単純な感想を漏らしつつ、とにかくもう少し寝ていようと布団を被り直す純一。
願わくば、夢の続きが見られますように……。
*
純一が二度目の眠りについた頃、隣室の音夢もまた目を覚ましていた。
こちらは普段よりも幾分か遅い起床である。
そのことを時計で確認した彼女はそれでもすぐには起きられなかった。
ダメだな、わたし。ちゃんと起きないと兄さんに心配かけちゃうって、わかってるのに。
小さい頃から病気がちなわたしのことを兄さんはいつも気にかけてくれている。
口では知らないなんて言ってるけど、わたしが熱を出して寝込んじゃうと、決まってかったるいとか言いながら元気になるまで傍についていてくれる。
そんな兄さんの優しさが嬉しくて、つい甘えちゃうんだよね。
そうかと思うと、わがままを言って困らせてみたり……。
そんなわたしのことを兄さんは好きだって言ってくれる。
わたしも兄さんが大好き。だからこそ、余計な心配なんてさせたくなかった。
音夢は急いでベッドから降りると、身支度を整えて部屋を出た。
向かう先はもちろん隣の兄の部屋。今日は休日だからきっとまだ眠っているはずだ。
軽くノックして中に入ると案の定、純一はまだベッドの中だった。
「兄さん、起きて。もう朝だよ」
優しく声を掛けながら体を揺すると、珍しく純一はすぐに目を覚ました。
このまま起きてくれればいいのだが、あいにく兄の方にその気はないらしい。
ぼんやりと開かれたその瞳は音夢の姿を映す間もなく、再び閉じられてしまった。
「兄さん……」
「……まだ起きるには早い時間じゃないか。休みの日くらいゆっくり寝かせろよ」
「兄さん、休日じゃなくたってゆっくり寝てるじゃない。授業中とかに」
「今朝は特別なんだよ。おまえだってそれで寝坊したんじゃないのか?」
「そ、それは……」
思わぬ指摘に顔を真っ赤にする音夢。
「で、でも、せっかくのお休みなんだし、そうだ。散歩しようよ、散歩」
「散歩?」
「それと、買い物。兄さん、昨日付き合ってくれるって言ったでしょ」
「そういや、そうだったな……」
などとぼんやり思い出しつつ、純一はようやくベッドの上に上体を起こす。
「あ、待って」
そう言うと音夢はまだ寝ぼけている兄の顔に自分の顔を近づけた。
恋人同士のお約束。考えていたのとは少し違うけれど、これはこれで悪くない。
「……おはよう、兄さん」
重ねた唇をそっと離し、幸せそうに微笑む音夢。
二人の朝は今日も当たり前のようにそんなこそばゆいシチュエーションから始まる。
*
「それじゃ、わたし朝ご飯の支度するから。ちゃんと起きてきてよね」
そう言って部屋を出ていく音夢に、純一は軽く笑って答える。
彼が身支度を整えて階下に降りると、音夢はもう朝食の用意を始めていた。
「意外に早かったね。もう出来るから座って待ってて」
そう言いながら、ベーコンエッグの載った皿をテーブルに運ぶ音夢。
純一はその姿をぼんやりと眺めていた。
今まではあまり意識しなかったが、これはなかなかかわいらしい。
「兄さん?」
「……ん、ああ、何だ」
「どうしたの、ぼーっとしちゃって」
「いや、エプロン姿もかわいいなって」
「もう、兄さんからかわないでよ……」
言いながら頬を赤く染める音夢。
そんなまんまラブコメなやりとりを交わしつつ、二人は向かい合って席に着いた。
焼けたばかりのベーコンエッグの芳ばしい匂いが食欲をそそる。
バターをたっぷり塗ったトーストも新鮮なフルーツのサラダも美味かった。
朝食を済ませた後、食器と調理器具を洗うのは音夢の役目。
その間に純一がゴミを出し、部屋という部屋に掃除機を掛けて回る。
両親のアメリカ行きが決まったとき、二人で話し合って決めた分担である。
細かなことはその場その場で臨機応変にやるとして、それで概ね問題なくやれている。
唯一、料理だけは自分がやると言い張った音夢の気持ちも今の純一にはわかる気がした。
俺って幸せ者だよな。好きな女の子の手料理を毎日三食腹一杯食べられるんだから。
音夢と並んで洗濯物を干しながらふとそんなことを思う純一だった。
*
――休日の昼下がり。
公園にはそれなりに人がいる。
陽気に誘われて散歩をする者。評判のクレープを食べようと屋台に並ぶ者。
今は花見の季節でもある為、シートを広げて昼間から宴席を囲んでいる姿も珍しくない。
そんな中、純一は人込みを避けるように人気のない一角を選んで歩いていた。
やたらとざわついた空気の中にいるのはかったるくてたまらない。
そんなものに気力や体力を奪われてはせっかくのいい気分が台無しになってしまう。
それに……。
純一は気づかれないようにサッと周囲に視線を走らせた。
何人かの通行人がうらやましそうにこちらを見ているのがわかった。
彼らの目に自分たちはどう映っているのだろう。
――仲のいい兄妹か、それとも……。
ふと隣に目をやれば、自分と同じことを考えている妹がいる。
純一にぴったり寄り添うように歩く彼女はそのことを少し不安に思っているようだった。
「ねえ、兄さん。わたしたち、ちゃんと恋人同士に見えてるのかな……」
「さぁ、どうだろうな」
不安そうに尋ねる音夢に、純一はあえてとぼけた調子でそう答えた。
ここで一緒になって深刻ぶっても始まらない。
そんなことをしても徒に不安を煽るだけだと、そう判断したのである。
しかし、このままというのもあれなので、純一は軽く音夢に手を差し出した。
「手でも繋いでみるか?」
「ううん。それよりも……」
言いながら音夢は純一の肩にそっと手を添えた。
彼女は兄と向かい合うようにして爪先立ちになり、そして……。
「なにやってんの、あんたたち」
突然掛けられた声に、兄妹は慌てて互いの体から離れた。
声の主は春らしいカラーの洋服の上にカーディガンを羽織った細身の少女。
活発な印象を受けるその顔に、呆れたような表情を浮かべて立っているのは……。
「知美!?」
驚きとともに音夢の口から親友の名が零れ出る。
そう、そこにいたのは風邪で学校を休んでいた純一達のクラスメイト、神崎知美だった。
彼女はここ数日、療養のためにずっと家で寝ていたのだという。
そして、容態が回復した今日は鈍った体をならすために散歩をしていた。
「そっか、あんたたち結ばれたんだ」
純一からことの経緯を聞かされ、知美は何やら感慨深げに呟いた。
彼女には音夢のことで何かと相談に乗ってもらっていたからきちんと話しておくべきだろう。
そう思った純一はかいつまんで事情を説明したのだった。
「驚かないんだな」
「傍で見てていつかそうなるだろうなって思ってたから。噂とかも流れてたしね」
そう言って微笑む知美の顔にはもう呆れやからかいといった類の色はなかった。
ただ、純粋に喜んでくれている。純一はそれが嬉しかった。
気になる噂の方は杉並あたりが流しているのだろう。まったく余計なことをしてくれる。
奴のことだから、休み明けにはすべてが学園中に知れ渡っていることだろう。
また多くの人間の注目を集めてしまうのかと思うと頭が痛くなってくる。
「お待たせ!」
純一が頭を抱えていると、逃げるようにクレープを買いに行っていた音夢が戻ってきた。
その手にはバニラアイスのクレープが二つ。どうやら本当に買ってきたらしい。
「おまえ、昨日食べたばかりだってのによく飽きないな」
「昨日はバナナクレープだったでしょ。だから、今日はアイスにしたの」
「俺はいらないぞ」
「そう言うと思って二つしか買わなかった。でも、わたしも一個は食べきれないから」
そう言って音夢は少し恥ずかしそうに純一を見上げた。
「クレープを半分するのは無理な気がするんだけどな」
「大丈夫。こうすれば……」
音夢は一つを知美に渡すと、残った一つに口をつけた。
そうして大体半分くらいまで食べたところで残りを純一に差し出す。
「お、おい、これって……」
「早く。溶けちゃう」
自分のしていることを理解しているのか、そう言う音夢の頬は赤い。
純一は少し戸惑いながらそれを受け取った。周囲を気にしつつ、口へと運ぶ。
「……あんたたち、よくそんな恥ずかしいこと出来るわね」
「ぬわっ!?」
知美にじっとりとした視線を向けられ、純一は慌ててクレープを口の中に押し込んだ。
甘くて冷たいクリームが無理矢理咽の奥に通されたが、そんなことはどうでもいい。
そもそもこんな状況では味なんてわかったものではない。
しかも誤って少し気管の方に入ってしまったらしく、純一は激しく咳込んだ。
「兄さん!?」
「ちょっと、大丈夫!?」
慌てて純一の背中を叩く音夢。
知美は目を丸くしてその様子を見ている。
「ごめん、ほんの冗談のつもりだったんだけど……」
純一が落ち着くのを待って知美は軽く顔の前で手を合わせた。
「わかってる。けど、そういうのは今度から何も食ってないときにしてくれよな」
軽く笑って許す純一。友達の悪ふざけに本気で腹を立てる程、彼も子供ではない。
「じゃあ、あたしこっちだから」
「ああ。また学園でな」
「音夢、クレープごちそうさま」
「どういたしまして」
公園を出たところで知美と別れ、二人は商店街の方へと向かった。
日が落ちるまでにはまだ時間がある。そして、音夢の買い物はまだこれからだった。
*
一方、純一たちと別れた知美はまっすぐ帰路についていた。
聴けば二人は今日が初デートだという。これ以上邪魔するのはヤボというものだ。
それに調子がいいとはいえ、まだ病み上がりの体に無理をさせるわけにはいかない。
ちょっと気を抜くとすぐに不調が現れる。まったく我が体ながら困ったものである。
……しかし、まあ、この調子なら月曜日からは普通に登校出来そうだ。
春休みの後半を遊べなかったのは残念だが、授業に支障が出なかっただけよしとしよう。
そんなことを考えながら歩いていると、不意に背後に視線を感じた。
気になって振り返ってみるが、それらしい視線はどこにもない。
視界の端で何かが動いたような気がしたが、それもすぐに消えてしまった。
「何なのよ、一体」
気味悪げに呟く知美の前を一陣の風が音を残して通り過ぎていった。
*
――夕刻。
陽光が西の空へと引いていく様を純一は自宅のリビングからぼんやりと見送っていた。
キッチンからは野菜を刻む軽快なリズムに混じって音夢の鼻歌が聞こえてくる。
炒め物にはバターを使うのが彼女の拘りらしく、今も独特のよい匂いが漂ってきていた。
何となくつけたテレビでは今日一日を振り返るように様々なニュースが報じられていた。
それをまともに聞く純一でもない。
ただ少しの疲労感に引きずられてソファに身を鎮め、夕食が出来上がるのを待っている。
今夜はハンバーグ。着け合わせはにんじんのグラッセとインゲンとジャガイモのソテー。
新鮮な生野菜のサラダとレトルトだがコーンポタージュもある。
「結局、今日は丸一日付き合ってもらっちゃったね」
席について箸を取りながら、音夢は少々申し訳なさそうにそう言った。
「気にするな。こっちは元々そのつもりだったんだ。それに、結構楽しかった」
「本当!?」
「ああ。だから詫びも礼もいらない。その代わり、今度は俺に付き合ってくれよな」
「えっ」
切り分けたハンバーグの一切れを口へと運びつつ、純一は何気ない調子でそう言った。
ところが音夢はなぜか頬を赤くしてうつむいてしまう。
「……いいよ。兄さんがしたいのなら、わたし……」
「あ、バカ、そういう意味じゃない」
「そうなの?」
「いや、まあ、そっちはそっちでしたいけど……。と、とにかく話を聞けって」
きょとんとする音夢に思わず本音を漏らしてしまう純一。
それをごまかすように彼は聊か強引に話を進めることにする。
「おまえ、明日って何か予定あるか?」
「明日? 特に何もないけど」
「よかった。実はこんなものがあるんだが……」
そう言って純一が取り出したのは今話題のラブロマンス映画のチケットだった。
「兄さん、これって」
「ぎりぎりで手に入ったんだ。おまえ、前から見たがってただろ」
それを聞いて音夢は思わず純一に抱きついた。
「ありがとう、兄さん。大変だったでしょ」
「あ、ああ……」
やや困惑気味に頷く純一。
音夢はきょとんとした様子でその顔を覗き込む。
「兄さん、どうしたの? ひょっとして、やっぱりわたしとしたいとか」
「……おまえ、よくそんな恥ずかしいこと聞けるな」
「だって……、わたしもしたいもん……」
呆れたように言う純一に、音夢はまた恥ずかしそうに頬を染めた。
二人の夜は今日もまた長くなりそうだった。
3
……桜の花びらが舞っていた。
音もない青い闇の中、月光に照らされて佇む大きな桜の木。
その傍らにその少女は立っていた。
月明かりと舞い降る桜の花びらを浴びて微笑むその姿はあなりに儚く弱々しい。
少女は笑っていた。
その笑顔はわたしとわたしの隣にいるはずの兄さんへと向けられている。
わたしは何か言おうと必死に口を開くけれど、どうしても上手く言葉を紡げない。
紡ぐべき言葉も知らなかった。
不意に突風が巻き起こった。
わたしは必死に目を開けて手を伸ばしたけれど、その手が少女に触れることはなかった。
舞い上がる花びらに巻かれるように少女の姿は本当に消えてしまったのだ。
後に残されたのは少女の大切にしていた小さな横笛。
わたしはまだその音色にお礼もしていなかった……。
*
その日、音夢はいつもより少し早い時間に純一を起こしにきた。
何でも悲しい夢を見たとかで、心細くて一人でいられないのだという。
純一はしょうがないなと言いつつ、優しく彼女を抱きしめて髪を撫でてやった。
昔からどんなに泣いていてもこうするとすぐに泣き止んだ。
今でもそれは代わらないらしく、音夢は安心しきった表情ですべてを純一に委ねている。
しっかりしているようでこういうところはまだまだ子供だなと純一は思う。
別に悪いとは言わない。
頼ってくれているというのも嬉しくないといえば嘘になる。
それはそれとして、半ば強引に起こされた純一は眠くてたまらなかった。
「ふわぁっ……」
通学路を歩きながらのこのあくびはもう何度目かわからない。
そんな純一の様子に、音夢はくすりと小さく笑う。
「ったく、誰のせいで寝不足だと思ってるんだ」
「ごめん。でも、わたし……」
申し訳なさそうにうつむく音夢。
「いいけどな。……それで、どんな夢だったんだ?」
「人が消える夢。桜の木の下で桜吹雪に巻かれて女の子が一人消えちゃうの」
「神隠しって奴か」
「わからない。どうしてあんな夢を見たのかな……」
「昨日見た映画の影響じゃないか。結構せつない場面とかもあったからな」
「そうかもね」
軽い調子でそう言った純一に、とりあえず音夢も納得したようだった。
そのまま話題は映画のことに移り、途中から合流してきた知美も加わった。
知美はまるで何も知らないような顔をして、音夢から映画の感想を聞いている。
――自分がこれを渡したってことは音夢には内緒だからね。
そう言ってあのチケットを譲ってくれたのは他ならぬ知美自身なのだ。
気さくな女友達に感謝しつつ、純一は今もその約束を守っている。
空は青く、雲は白い。
降り注ぐ陽光も風の流れも穏やかで、とてもあんな話の似合うような天気ではなかった。
それなのに……。
*
――音夢の幽霊が出た。
始業時間ギリギリで入った教室で純一はそんな話を耳にした。
正確には音夢によく似た少女の幽霊だ。
週末、部活動で遅くまで残っていた生徒の一人が目撃したのだという。
純一の表情が俄かに険しいものになる。
先に話を聞いていた何人かが登校してきたばかりの音夢を捕まえて足を確認していた。
「足、ちゃんとあるね」
「じゃあ、やっぱりあれは音夢ちゃんじゃなかったんだ」
「でも、だったらあれは誰なのよ?」
「ドッペルゲンガーとか」
「それはあり得ない」
女子の一人が漏らした呟きを男の声が即座に否定した。
声の主は杉並だった。窓際の壁に背を預け、意味もなく不敵な笑みを浮かべている。
「ざっと霊視したところ、渡瀬妹の体から幽体が離脱した痕跡は認められない」
「杉並。あんた、いつ霊視なんて出来るようになったのよ?」
すかさず知美がツッコミを入れるが、杉並はまるで意に介さない。
「そんなことは些細な問題だ。それよりも……」
杉並がそう言いかけたところでチャイムが鳴り、担任の朝倉のぞみが入ってきた。
「はい、ホームルーム始めるよ」
のぞみの声で集まっていた生徒達がばらばらと散っていった。
「どうした渡瀬。早く席に着かないか」
「あ、すみません」
のぞみに促されて音夢は仕方なく席に着いた。
「兄さん……」
「大丈夫だ」
まだ少し不安なのか、小声で話し掛けてくる音夢に、純一はしっかりと頷いてみせた。
それにしても、まったくタチの悪い冗談だと純一は思う。
幽霊だのドッペルゲンガーだのそういうオカルトじみた話は物語の中だけで十分だ。
もし、本当にそんなのがいたとして、見つけたら絶対一言文句を言ってやる。
鞄から教科書やらノートやらを取り出しつつ、純一はおかしな決意を固めるのだった。
*
日直のやる気のない号令で始まったホームルームは珍しく時間ギリギリまで続いた。
幽霊の噂は教師陣の間にも広まっているようで、調べたりしないようにと釘を刺された。
のぞみは他にも二、三連絡をしたようだったが、音夢の耳にはまるで届いていなかった。
気になっているのはもちろん自分そっくりの幽霊のことだ。
後で友達から聞いたのだが、その少女は校庭の桜の木の傍に立っていたらしい。
気になって声を掛けようとしたら急に強い風が吹いて、気がつくといなくなっていた。
少女がいたその場所には異常なほど鮮やかな桜の花びらが何枚も落ちていたという。
まるで同じだった。
正夢という奴だろうか。それにしても気味が悪い。
他のクラスにも目撃者がいたらしく、噂は瞬く間に学園中に広まった。
純一は伝播の早さから杉並を追求したが、涼しい顔で受け流されただけだった。
――そして、昼休み。
教師が出ていったのを見計らって、純一と音夢は同時に席を立った。
「兄さん」
「音夢」
二人の声が被る。
「外で食べないか。弁当、今日もあるんだろ」
「う、うん……」
先にそう切り出した純一に、音夢は少々ぎこちなく頷いた。
図らずも二人は同じことを考えていた。
――幽霊の正体を突き止める。このすっきりしない気分を吹っ切るにはそれしかない。
向かった先は中庭だった。
ベンチに並んで腰掛けると、純一は人目を気にするふりをして周囲に視線を走らせた。
情報ではこの辺りのはずなのだが、ざっと見渡した限り、それらしい影は見当たらない。
そもそも真昼間から現れる幽霊などいるのだろうか。少なくとも二人は知らなかった。
そう考えると、今こうしていること事態が無意味に思えてくる。
「飯、食うか」
「……そうだね」
頷き合うと、音夢は膝の上に弁当の包みを広げた。
改めて見渡してみると、中庭で昼食を摂っている者はそれなりに多い。
例の幽霊騒ぎのせいで若干野次馬が増えている気はするが、外は概ね普段と変らない。
さすがに人目があるからか、音夢も今日は大人しく普通に弁当を食べていた。
そうして数分が過ぎた頃、不意に視線を感じて音夢は顔を上げた。
目に入ったのは美しく満開に花を咲かせる一本の桜の木。この前、屋上から見たものだ。
その傍らに……。
「どうした?」
「うん。ちょっと塩加減が足りなかったかなって」
「そうか。俺はこれくらいのほうが食べやすくていいと思うけどな」
適当にごまかされたことにも気づかないふりをして、純一は黙々と箸を進める。
赤い双眸が桜の木の向こうで揺れていた。
*
ふと背後に近づいてくる気配を感じて少女はゆっくりと振り返った。
思った通りの学ラン姿がそこにいた。
「奇遇だな。こんなところで出遭えるとは」
「やっぱりあなたにもわたしが見えるんですね」
「これでも霊能者だ。他人は誰も信じはしないがな」
「わたしに何かご用ですか?」
「忠告。いや、成仏勧告というべきか」
「成仏、ですか?」
「そうだ。君のような幽冥界の住人がこんなところを彷徨しているものではないだろう」
「わたし、幽霊じゃありません」
「だが、人間でもない」
「…………」
少女は沈黙した。
この男は何もかもわかっているのだ。その上でこうして自分と対峙している。
「君が何を考えているかは知らないが、あまり長居をすると戻れなくなるぞ」
「わたしの人としての生はとっくに終わっています。後は気が済むまでやらせて下さい」
「辛くはないか。愚人が幻想に溺れて滅びる様は決して美しいものではあるまい」
「それでも、わたしは見届けたいんです」
「…………」
今度は男が沈黙する番だった。何やら思案げな面持ちである。
「あの二人なら必要ないとは思うが」
「念の為です」
そう言って少女は微笑んだ。
男はそれ以上何も言わず、少女の前から立ち去った。
――杉並浩平。彼もまた、夢の世界に関りを持つものなのだろう。
少女は引き止めようともせず、ただ微笑みながらその背中を見送っていた。
*
夕暮れの並木道は散り始めたばかりの桜の花びらで、淡く幻想的に彩られていた。
季節の変わり目に見られるナチュラルマジックの一つ、桜の雨のはじまりである。
音夢と並んで歩きながら、純一はもう春も終わりなんだと感じていた。
「この桜が散っちまう前に花見でもするか?」
「え、あ、うん。いいね」
考え事をしていてぼんやりとしか聞いていなかった音夢は慌てて相槌を打った。
昼休みの中庭で一瞬だけ見えた人の影。
それは音夢の知っている人物だった。
なぜか鳴神学園の制服を着ていたけれど、あの特徴的な髪と瞳は間違えようがなかった。
ひょっとすると自分を探して会いに来てくれたのかもしれない。
だとしたら、悪いことしちゃったな。彼女の事情は知っていたはずなのに。
……今日のお詫びも兼ねて今度はわたしから会いに行こう。
彼女はきっとまだあそこにいるはずだから、それこそ一緒にお花見でもすればいい。
あそこは最適の場所だものね。
*
――というわけで、週末である。
純一は彼にしては珍しく、かったるい思いつきを実行に移していた。
話を聞きつけた杉並に煽られたのもあるが、やはり音夢の希望によるところが大きい。
結局、その杉並と奴のお目付け役的に知美も加わって、四人で行くことになった。
当日は女性二人が弁当作りを担当し、その間に男二人で場所を確保することとなった。
「で、なんで先生がいるんですか?」
純一は自分たちのシートで杯を呷っている担任教師を見た。
「教師をそんな目で見るもんじゃないぞ。もっと尊敬の念を込めないか」
「真昼間から酒飲んで酔っ払ってる教師をどうやったら尊敬出来るっていうんですか」
呆れたように溜息を漏らす純一。
「ごめんなさい。ご迷惑お掛けして。ほら、お姉ちゃん。いい加減にして」
「あ、こら、優子。まだ半分残ってるんだぞ」
十歳年下の妹に酒瓶を取り上げられて、のぞみはわざとらしく拳を振り上げた。
そうこうしているうちに、音夢と知美が弁当を持ってやってきた。
「お待たせ。って、あれ、のぞみ先生。それにえっと……」
「のぞみの妹の優子です。いつも姉がお世話になってます」
そう言って彼女はぺこりと頭を下げた。
姉がだらしない分、妹の方がしっかりしているのかもしれない。
それからたっぷり三時間、純一達は花見を楽しんだ。
初対面の優子ともすぐに打つ解け、弁当を食べながらのお喋りは大いに盛り上がった。
「あれ、酒が切れてるじゃないか。渡瀬。おまえ、ちょっとそこまで行って買ってこい」
「俺がですか?」
「いいから早く行ってこい。これで買えるだけな。残りは好きに使っていいから」
「……わかりました」
五千円札を握らされて純一は仕方なく重たそうに腰を上げた。
「あ、待って兄さん。わたしも行く」
そう言って、音夢もシートから立ち上がる。
二人並んで手を繋ぐのが今はもう当たり前のようになっていた。
適当に買い込んで戻ると、杉並がまたバカをやって知美に突っ込まれていた。
その隣ではすっかり出来上がったのぞみが強引に妹にビールを勧めている。
優子はまだ未成年だからと必死に抵抗しているが、落とされるのは時間の問題だろう。
「みんな楽しそう」
「そうだな。おまえはどうなんだ?」
「うん。みんなで騒ぐのは楽しいよ。でも……」
音夢はそこで一度言葉を切ると、皆に聞こえないように声をひそめて本音を続けた。
「やっぱり、わたしは兄さんと二人きりで来たかったな」
「そっか。じゃあ、今度は皆には内緒で行こうな」
純一は軽い調子でそう言ったが、それを約束だと直感して音夢は思わず頬を緩めた。
*
その夜。純一が風呂から上がると珍しくリビングが静かだった。
キッチンの明りは既に消され、いつもはついているはずのテレビも沈黙している。
先に風呂から上がっていた音夢はパジャマ姿でソファに突っ伏して眠っていた。
「ったく、寝るなら自分の部屋で寝ろよな」
しょうがないなという顔をしつつ、純一はそっと音夢の体を抱き上げた。
よほど疲れたのか、彼女は熟睡していていくら揺すっても起きなかった。
階段を上がり、彼女を部屋に運ぼうとして躊躇する。
こういう場合とはいえ、無断で女の子の部屋に入るのは気が引けたのだ。
仕方なく純一はそのまま自分の部屋へと入った。
音夢をベッドに横たえ、自分もその隣に並んで布団を被る。
改めて観察してみると、音夢の寝顔は思わず抱きしめたくなる程かわいかった。
考えてみれば、一緒に寝るのもずいぶんと久しぶりのような気がする。
あのときはまだお互いに子供だったからよかったが、今はそういうわけにもいかない。
純一は朝まで理性が持たなかった場合の言い訳を考えつつ、眠りの闇に落ちていった。
*
――桜の花びらが舞っていた。
鮮やか過ぎる緋色の花弁が青い空へと舞い上がり、昇っていく。
それはまるで使命を果たした天使の翼が空へと帰るように幻想の光を帯びていた。
「やっぱり、ここにいたんだ」
音夢が声を掛けると、その少女は少し驚いたようにこちらを見た。
「これからお花見なの。あなたも一緒にどう?」
「わたしを誘いにきてくれたの?」
「迷惑だったかな」
「ううん。ありがとう。でも、いいの。だって、わたしは……」
言いかけた少女の表情が不意に歪んだ。
輪郭がぼやけ、ぶれ、戻る。
「この木ももう寿命ね。あなたとこうして会えるのもこれが最後になるかしら」
花のほとんどが散ってしまった桜の木を見上げて少女は寂しそうにそう言った。
……同じだ。
そう思った瞬間、音夢は思わず少女を抱きしめていた。
「いや、いなくならないで。わたし、もうあんな思いはしたくないの……」
消え入りそうな声で縋る音夢の頭を少女は優しく撫でてくれた。
「大丈夫。春の夢は終わってしまうけれど、わたしはいなくなったりしないから」
「え?」
思いもよらない彼女の言葉に、音夢は思わず顔を上げた。
少女は安心させるように微笑むと、そっと音夢の手にそれを握らせた。
それは音夢が幼い頃、少女がよく吹いて聞かせてくれた妖精の笛だった。
「これはあなたが持っていて。次に会ったときに返してくれればいいから」
その言葉を最後に少女の輪郭は再びぼやけ、今度こそ完全に消えてしまった。
……さよならは、なかった。
*
翌日の朝はとにかく大変だった。
音夢は自分が純一の隣で寝ていたことに驚き、兄を疑い、事情を知って赤面した。
そんなこともあって、日曜の朝だというのに二人はすっかり早起きしてしまった。
――ここ、夢園市は四方を山と海に囲まれた緑豊かな街である。
春には桜が舞い、冬には雪の白さに覆われて一面の銀世界へと姿を変える。
そんな幻想的な姿を持つこの街に、人々は夢の園と名をつけた。
その名の由来となった幻想の1つ、桜の季節が今移ろい、過ぎようとしている。
純一は音夢と並んで公園を歩きながら、何となく昔のことを思い出していた。
ちょうどこんな季節。幼い二人はよくあの大きな桜の木の下で遊んでいた。
その頃から泣き虫だった彼女を励ますのは自分の役目だったような気がする。
音夢の両親が火事で亡くなり、彼女が渡瀬家に引き取られて、純一が兄になった。
それは決して形だけの関係ではなかったが、それでも二人は別の関係を築く事を望んだ。
……出会ってから六年目の春のことだった。
やがて、純一達は一本の桜の木の前で足を止めた。
樹齢千年とも言われる大きな桜の木。この木には不思議な妖精が住んでいたのだという。
妖精は桜色の髪と赤い瞳をした少女だった。
幻想の中にあって、その行く末を見届けてきた夢の番人だった。
人は夢に翻弄される生き物だ。夢に迷い、悩み、そして、やがては現実へと帰っていく。
そして、この日。彼女自身もまた夢の世界から姿を消した。
「もうここにはいないんだよね……」
今はもう枯れてしまった桜の木を見上げて音夢はぽつりとそう言った。
「ねえ、兄さん。知ってる。この木の下でした約束は絶対に叶うんだって」
「ありがちな話だな」
「信じないの?」
「いや」
「よかった。わたしね、ここで兄さんにしてほしい約束があるの」
「朝ちゃんと一人で起きろとか授業中に居眠りするなとかいうのは無理だぞ」
「そんなんじゃないよ。もっと大切なこと。わたしからの一生のお願いだよ」
「勿体つけないで早く言えよ。どうせ、ここですれば叶うんだからさ」
「うん。……じゃあ、言うね」
「あ、ああ」
「わたしのお願い。それは……。それはね……」
音夢の唇が小さく揺れる。
二人の間を吹き抜けた風はもう初夏の兆しを感じさせるものだった。
―― END ――
あとがき
祝・とらいあんぐるハート〜夢想剣客ロマン譚100話達成!
というわけで、安藤龍一です。
この物語はわたしが愛憎のファミリアシリーズを書き始める前、当時ハマっていたD.C.の世界観を借りて執筆したものに多少の加筆修正を加えたものです。
そのため、登場人物たちの名前や性格、関係などは原作と似ている部分もあればそうでない部分もあります。
璃斗さんのリクエストにあったベリースィートなお話というのとは少し違うかも知れませんが、こんなものでもよければどうぞ読んでやってください。
では、今回はこのあたりで失礼します。
これはこれで甘いお話ですよ。
美姫 「そうよね〜」
D.C.に似て非なる世界。
美姫 「うんうん。とっても面白かったわ」
幻想的だな〜。
美姫 「誰かさんにも見習って欲しいわね」
へいへい。とりあえず、投稿ありがと〜。
美姫 「ございます〜」
それでは、この辺で。
美姫 「それじゃ〜ね〜」