――我が魔力は一陣の風と成りて薙ぎ払え。……ウィンドスラッシュ!
 呪文詠唱によって風の属性を付与されたわたしの魔力が、蒼色の真空の刃となって有象無象の影を薙ぎ倒していく。
 それは、いつかの戦争の記憶。
 大天使以下の兵士のみで構成された軍団の先頭に立ち、僅か数名の部下を率いて味方に数倍する敵陣を駆け抜けた。
 白銀の戦乙女の異名の元にもなった、今はもう、記憶の彼方に色褪せかけている暴挙を、何故わたしは今更夢に見ているのだろう。
 神剣の白が煌く毎に、津波の如く押し寄せていた影の一角が崩れ、暗雲立ち込める空さえも白く染める神聖魔法の光は確実にその圧力を押し返していった。
 そうして切り開いた戦場を突っ切って、わたしが辿り着いたのは小さな村の教会だった。
 そこにはかつて、地上を視察した折にお世話になった人間の少女が暮らしていて、激戦の末に精魂尽き果てたわたしを優しい笑顔で迎えてくれたのだった。
 そう、当時、天上議会最高幹部集団であるところの十二神将の半分を預かる立場だったわたしは、たった一人の人間の女の子を助けるために、自身を含む四人までもを一つの戦場に投入したのである。
 名目上は地上視察の最中に戦闘に遭遇し、現場の判断で民間人の保護を優先したということになっている。
 実際、わたしは戦場視察を予定していたし、同行してくれた部下のうち二人は休暇中だったので、かなり苦しかったけれど、これで押し通すことが出来たのだ。
 ちなみに、救出した娘は後日、わたしの権限で神格化した上で、秘書として迎えている。
 ――わたしが現在の世界の在り方に疑問を抱く遥か以前のことだった……。

  堕天使ユリエルの異世界奮闘記
  第4章 豊穣の戯れに

「……ユリエル。ねぇ、ユリエルってば。起きてよ。狩りの時間だよ」
 この世界で目覚めてから二度目の朝。ぼんやりとまどろみの中を漂っていたわたしは、そんなミリィの声で意識を浮上させた。
「狩りって、獲物はわたし? それとも、あなたが狩られる側かしら」
「あたしが狩る側に決まってるでしょ。……って、そうじゃなくて。もう、昨夜朝になったら森に食料の調達に行くって言ったの、忘れたの?」
 ベッドから起き上がって身体を伸ばすわたしに、ミリィが少し拗ねたようにそう聞いてくる。しかし、何気に自分の立場を主張しているあたり、昨日のことを根に持っているのだろうか。
「ちゃんと覚えてるわよ。待って、今支度するから」
 そう言って立ち上がると、わたしは寝間着として借りているワイシャツを脱いで全裸になった。
「ちょ、幾らあたししか見てないからって、いきなり脱ぐかな」
「急かしたのミリィでしょ。ほら、魔法使うから目を瞑ってなさい」
 慌てて目を逸らすミリィに、わたしは呆れたようにそう言うと、軽く目を閉じて魔法を発動させた。
 リフレシュアミストで身体を浄化し、その残滓である水滴をタオルで素早く拭き取ると、枕元に用意しておいた着替えに袖を通す。
 温泉大国日本で育った身としては、相当味気ないけれど、今からお湯を沸かして入っていたら本気でミリィに怒られそうなので、今回は自重することにした。
「へぇ、そんな魔法もあるんだ。水と、それにこれは光かな。なるほど、浄化の魔法で体を清めてるんだね」
 わたしの発動させた水の精霊魔法を見て、ミリィが感心したように声を弾ませる。初見で解析して見せるのはさすがというべきか。
「元々は毒や病気を治す魔法なんだけど、そこそこ熟練度を上げればこんな使い方も出来るのよ」
「ユリエル。ひょっとして、自慢してる?」
「まさか。それに、これくらい、ミリィなら簡単に出来るでしょ」
「そうかな」
「初見で大体見抜いてるんだから大丈夫よ。っていうか、こっちにはそういう魔法はないのかしら」
 少し照れたように頬を染めるミリィに、良い機会だからとわたしは気になっていたこの世界の魔法について尋ねてみることにした。
「あー、うん。こっちの世界じゃ、魔法って言えば実戦的なものがほとんどだね。元々が他種族との生存競争の中で発達してきた技術だから、どうしても戦闘向けのものが多くなっちゃうんだよ」
「そう。でも、オーブンや冷蔵庫は生活に密着したマジックアイテムよね。使うのに軽く解析を掛けたけれど、あれらに使われてる魔法技術の熟練度だって、一朝一夕のものじゃないでしょ」
「うん。技術自体は昔からある武器や防具に魔法の効果を付与するってものの応用だからね。おかげで信頼性は抜群だよ」
 流血によって培われた技術に思うところでもあるのか、生存競争と言ったあたりでミリィの声が暗くなる。
 学ぶものは少なからずその本質に触れ、理解することを求められるものだけど、それが必ずしも本人にとって幸福なこととは限らない。
 況してや魔法が闘争に勝ち抜くための手段であったのなら、その負の性質は心優しいものに毒となることは想像に難くないだろう。
 彼女が賢者を目指さなくなったのも、何かそのあたりに理由があるのかもしれなかった。
 そう思って、なるべく平和的な方向に話を持って行こうとしたのだけど、それに対するミリィの返事は案外明るいもので、フォローするつもりだったわたしは思わず拍子抜けしてしまった。
「どう取り繕ったって、あたしたちが恩恵を受けてることに変わりはないもん。なら、せめて、先人がその技術や力に託した想いを無駄にしないようにしなきゃって、考えるようにしてるんだ」
「先人が託した想い……」
「そ。例えば冷蔵庫なら、新鮮な食材を長く保存出来るようにすることで、少しでも食事を安定させようってところかな」
「確かに乾物や穀類だけじゃ限度があるものね」
「でしょ。人はいつだって、便利さを求めて新しいものを発展させるんだよ。なら、あたしたちがそれを使うことで、その人たちの努力がちゃんと報われてるって証明してあげないとね」
 前を向いたまま、おどけたような調子でミリィはそう話を締め括る。歩きながらの会話のため、わたしから彼女の表情を伺うことは出来なかった。
「さて、着いたよ」
 そう言ってミリィが足を止めたのは、天然の果樹園のような場所だった。
 辺りには甘い匂いが立ち込め、色取り取りの果実が目にも鮮やかに見るものの視界を楽しませる。
 家を出てから南に二キロばかり歩いただろうか。道中見かけた川には魚も多くいたし、これほど豊かな土地なら、少女一人が食に困ることなどありはしないだろう。
「これは、凄いわね……」
 森の恵みに感嘆の息を漏らすわたしに、ミリィが採取用の籠とはさみを取り出しながら頷いた。
「でしょ。このあたりに成ってるのは全部食べられるものばかりだから、好きなのを採って良いよ。ただし」
「あまり同じ場所からばかり採らないこと。若い実は避けて、実自体が少ない木からも採らないこと。採る時は素早く、かつ枝や蔓を傷つけないように、でしょ」
「後、お互いに視界から外れないこと。この森って結構広いから、一度逸れると見つけるのが大変なんだ」
 とりあえず、思いついた注意点を挙げてみたわたしに、ミリィが割りと真剣な顔でそう言って追加してくる。
 季節によっては、近道しようと街道から外れて入ってきた人が、そのまま帰って来なくなるなんてこともあるという。
 この世界に来たばかりで土地勘もないわたしは、黙ってそれに頷くしかなかった。

 リンゴにぶどう、名前は分からないけれど、クルミに似た硬い実も栄養価が高くて健康に良さそうだ。
 それらの果実を枝や蔓を傷つけないよう、気をつけながら手早く採取して回っていると、足元に一羽のウサギが寄ってきた。
 ――ウサギ、よね……。
 わたしのいた世界のより大分大きいし、額に角が生えていたりもするけれど、こちらを見上げてくるその円らな瞳は、間違いなく寂しがり屋の彼らのものだった。
 好奇心に負けて寄ってきたのだろうか。
わたしは篭の中からリンゴを一つ取り出すとその子の前に置いた。
 ウサギはしばらくわたしとリンゴとを見比べていたけれど、やがて、リンゴを加えると何処かに走り去ってしまった。
 魔物が住んでいるとはいえ、辺りに満ちる空気は平穏そのものだった。
 しかし、ミリィはこれを狩りだと言っていたけれど、あの子みたいな小動物を食用として捕獲するつもりなのだろうか。
 だとすれば、今のは少し軽率だったかもしれない。あの子にも悪いことをしちゃったわね。
 食べ物をくれた相手が今度は捕食者として自分に牙を剥くとなれば、これほど酷い裏切りもないだろう。
 いえ、それとて人間側の勝手な感傷かしら。
 賢い生き物は人間の感情に訴え掛けることで糧を得る術を知っている。
 単純に襲い掛かるよりも安全に餓えを満たせるとなれば、積極的にそうした手段を選ぶのは寧ろ当然だろう。
「あれ、ユリエル。今そこにアルミラージがいなかった?」
 そんなことを考えながら採取を続けていると、ミリィが不思議そうにそう尋ねてきた。
「アルミラージって、あの紫色の一角ウサギのことかしら。それなら確かにいたけれど、リンゴをあげたら何処かへ行っちゃったわ」
 わたしが少し残念そうにそう答えると、ミリィは何故か驚いたように目を丸くした。
「はぁ、よく襲われなかったね。アルミラージって臆病だから、下手に近づくと危ないのに」
 ミリィが言うには、アルミラージというのはそれなりに危険な魔物らしい。動きが素早く、後ろ足の筋肉が発達しているので突進力もあるとのこと。
 知能も高く、一定範囲の対象を眠らせるラリホーという魔法まで使えるというのだから、確かに並の人間にとっては脅威となるだろう。
 だけど、それとて悪戯に相手を刺激すればこそ。接し方を間違えさえしなければ、先のウサギなどは可愛いものだった。
 わたしの世界の魔物たちは、人間が置き去りにした感情を起源として発生するため、帰巣本能に基づいて人間を襲うけれど、こちらの魔物たちは寧ろ野生動物と大差ないように見える。
 もちろん、殺戮本能の強いものは別だろうけれど、この森に生息している程度の魔物なら、無闇に刺激しない限り、こちらを襲ってくることもないだろう。
「魔物だからって、皆が皆恐ろしいわけじゃないわ。寧ろ悪戯に警戒して、相手の攻撃本能を刺激するほうが余程危険よ」
「それは、そうかもしれないけど。あんまり無防備に近づかないでよ。今は魔界からの影響も大分薄れてるけど、中には凶暴な魔物だっているんだからね」
「ありがとう、心配してくれて。今度からは気をつけるわ」
「本当だよ」
「ええ。ところで、もう篭も一杯でしょ。そろそろ一度戻らない?」
 見ればミリィの籠も果物で一杯になっている。途中の川で魚釣りをするにしても、嵩張るからと置いてきた道具一式を取りに一度戻らなければならなかった。
「そだね。じゃあ、帰ろうか」
 わたしの言葉にミリィも頷いて籠を背負い直すと、二人は来た道を戻り始めた。
 しかし、自分の肩幅よりも大きな籠にあふれる程の果実は、下手をすれば二十キロ近い重さになっているのではないだろうか。
 ミリィは小柄な身体で上手くバランスを取っているようだけど、傍から見ているとどうにも危なっかしくてしょうがなかった。
「少し引き受けましょうか?」
「平気。それよりも、一応気をつけておいて。そろそろ朝の遅い魔物たちも起き出してくる頃だから」
「分かったわ」
 ミリィに言われて自分の知覚領域を確認する。つい数日前まで戦争をしていただけに、無意識のうちに気を張っていたらしいけれど、時にはそれだけでは拾いきれないものもあるのだ。
 まあ、動物の気配は結構雑だし、敵意や殺気などの強力なものなら、僅かでも見逃さない自信があるので大丈夫だろう。
 寧ろ気になるのは、先程から付かず離れずの距離でわたしたちを追ってきている気配があることだった。
 立ち止まって振り返ると、慌てて隠れたような茂みを揺らす音が聞こえる。
 視界の隅に映った見覚えのアル毛色に、わたしは思わず苦笑した。
 野良猫にエサをやったら懐かれてしまったという経験は何度かあったけれど、これもそういう類のものなのだろうか。
「出ておいで」
 昨日のスライム君にしたようになるべく優しい声色を作って呼び掛けると、茂みを揺らして先程のウサギが姿を現す。
「本当に大丈夫みたいだね」
 ミリィは一瞬腰の短剣に手を伸ばしかけたけれど、わたしの足元に擦り寄ってくるアルミラージを見て、肩の力を抜いた。
 元来、生き物は無用な殺生はしないものだ。それが自然界の掟でもあり、従わないものは遠からず破滅する。
 人間のそれが緩やかなのは、あくまで生産が死滅を上回っていたからで、その関係も逆転したわたしの世界では未来に滅亡が確定したと言えるだろう。
「いや、そんな可愛い生き物を抱き抱えながら、人類滅亡とか考えられてもコメントし辛いんだけど」
「ミリィ、ずっと疑問に思っていたんだけど、あなた、どうしてわたしの考えてることが分かるの?」
「ん、秘密」
 まるで心を読まれてでもいるかのようだった。いや、ある程度許しているのは確かだけど、それにしたって、わたしに気づかれずにそういうことを出来るのは余程の熟練者でもなければ不可能なはずだ。
「良い女には秘密がたくさんあるんだよ」
 部屋の隅に籠を下ろしながらそう言ったミリィは、何か意味深そうな笑みを浮かべている。雰囲気を演出しようとしているみたいだけど、正直、あまり似合ってはいなかった。
「小娘が生意気言わないの」
 きっと、背伸びしたい年頃なのだろう。そんなミリィを微笑ましく思ったわたしは、自分も抱えていたアルミラージと背中の籠を下ろして彼女に近づくと、その額を軽く指先で突付いた。
「むっ、これでも今年で十五歳。立派な大人なんだよ」
 わたしに子供扱いされたミリィは不服そうに頬を膨らませるけれど、そんな仕草も可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱みというやつだろうか。
「大体、ユリエルだって、あたしと一つしか違わないじゃないの。それなのに、おっぱいはこーんなに立派に実っちゃってさ」
「あ、こら、真昼間から何処触ってるのよ!?」
「うふふ、ちょうど良いからこれも収穫しちゃおっか」
 いつの間に回り込んだのか。ミリィは楽しそうにそう言って、背後からわたしを羽交い絞めにしながら胸へと手を伸ばす。
 くっ、何て早業。このわたしが反応すら出来ないだなんて……。
 これが本能の力か。
 なんて、バカなことを考えながら身を捩って逃げようとしていると、不意にミリィの手が止まる。
 これ幸いとばかりに彼女の腕から抜け出したわたしも遅ればせながらそれに気づいた。
 本能が警鐘を鳴らしているのだろう。わたしの足元でアルミラージがそわそわとしながら玄関のほうを見ていた。
 ――森の、精霊たちのざわめきが聞こえる……。
 殺気が渦巻き、波紋のように濃密な魔性が広がる感覚。
「……世界が、食われる」

   * * * 続く * * *



 今回、調子に乗って書いていたら、いつの間にか丸々一週間費やしてしまってました。
 作者です。
 心理描写ばかりが一人称で続くのは口説くなるという指摘をいただいたので、ミリィとのやり取りを増やしてみたのですが、いかがでしょうか。



途中までは平穏ぽかったんだけれど。
美姫 「最後の最後で何やら不穏な空気が出てきたわね」
この事がどんな影響を与えるのか。
美姫 「次回も待っていますね」
待ってます。



▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る