――ラダトーム王国・北西の森
  ミリィの家

  * * * side エリス * * *

 ――お姉様たちと冒険者協会の支部で出会ってから数日。今、わたしはミリィさんのお宅にご厄介になっています。
 お互いの命を預け合う関係になるのですから、少しでも多くの時間を共有して親睦を深めておくべきなのでしょう。
 それとは別に、宿代を浮かせて少しでも準備に当てられる金額を増やすという目的もあります。
 ミリィさんが仰るには、例年、実技試験では本格的なダンジョン探索をさせられることになるらしく、万全を期すのなら協会が用意する支度金だけではどうしても心許ないのだそうです。
 特に筆記試験だけのつもりだったわたしは最低限のお金しか持ち合わせていなかったこともあり、彼女からのその提案はとてもありがたいものでした。
 宿代を浮かすために、パーティーメンバーの誰かの家に泊まる、ということ自体はよくある話らしいので、わたしもそこは気にしないことにしました。
 もちろん、滞在中の家事等は分担制で、食費も割り勘。それでも宿に泊まるよりはずっと安く上げられるので、わたしに文句等あるはずもありません。
 実家では特別扱いが過ぎて家事等させてもらえませんでしたが、知識だけはあるので大丈夫なはず。……そう思っていた時期がわたしにもありました。
 包丁で指を切ること数回。煮物を任されれば鍋を焦がし、割ったお皿の枚数は十数枚に上ります。
 共同生活を始めてからまだ数日。ほんの数回、キッチンに立たせてもらっただけでこの有様です。
 他にも薪を割ろうと斧を振り上げてはその重さに振り回されて転んだり、
 ハーブに水をやるミリィさんを手伝おうとして、彼女をずぶ濡れにしてしまったりと数え上げればきりがありません。
 相変わらず魔物は怖いままですし、こんなことで本当に冒険者になれるんでしょうか……。

  * * * side out * * *

  堕天使ユリエルの異世界奮闘記
  第17章 鍛錬模様

 大国は一日にして成らず。日々の地道な積み重ねがあってこそ、彼の国は今日の繁栄を築けているのだという。つまり、成功したければ努力を怠るなということだ。
「というわけで、鍛錬するわよ」
 目の前で眠そうに目を擦るエリスとやけに肌艶の良いミリィに向けてわたしは言った。時刻は早朝五時。今の季節はまだ太陽も顔を出す前の時間だ。
「何がというわけでなのかは分からないけど、良いよ。ここ何日か動いてなかったし、偶にはちゃんとやっとかないと鈍っちゃうもんね」
 ミリィは乗り気のようだ。元気よくそう返事をすると、彼女は早速準備運動を始める。金属製の重たい装備一式を身に着けたままで行うストレッチはそれだけで身体が鍛えられそうだった。
「鍛錬って、具体的に何をするんですか?」
 対して、ミリィに習ってストレッチをしながらそう聞いてくるエリスの動きは何処か緩慢だ。神殿なんてところで修行していたのだから、早起きに慣れていないということはないだろうに。
「最初の三十分は基礎体力を向上させるための走り込みね。その後は仮想敵を使っての連携訓練をしようと考えているんだけど、大丈夫?」
「はい。昨夜は少し夜更かしをしてしまって、起きるのが辛かっただけですから」
「なら良いんだけど。あまり無理をしちゃダメよ」
 慣れない環境に体調を崩したかと心配になって尋ねるも、エリスは軽く頭を振ってそう答えると、気合を入れるように両手で自分の頬を叩いた。
 大陸北西部に位置するとはいえ、この辺りは平地に近く気候も比較的温暖だ。対して、彼女のいたダーマは高山地帯で南には砂漠もあるという。
 両者の気候の違いに慣れてもらうため、最初の模擬戦から今日まで数日、間を空けたのだけど、果たしてどれほど効果があったかは分からない。
 若い間は適応力も高く慣れるのも早いというけれど、それにだって個人差はある。何よりボディコンディションはメンタルの影響を受けるのだ。
 エリスを見ると、何故か両手を頬に当てたまま涙目になっていた。どうやら少し強く叩き過ぎたらしい。何というか、お約束に忠実な娘である。
「う、うう……、頑張ります」
 わたしの視線に気づいたエリスは顔を真っ赤にしてそう言うと、先にストレッチを終えて走り出したミリィを追って結界の外へと出て行った。

 ミリィの家の周りを結界の外周部に沿って走る。いつ魔物に襲われるか分からない緊張感に身を曝すため、内側ではなく外側を走るのがポイントだ。
 遭遇戦を想定するなら、もっと離れた森の中のほうが良いのだけど、それにはまずエリスが実際に魔物相手にどれだけ動けるか把握する必要がある。
 今日の訓練はそれが主目的であり、そのために適度な緊張感を保ちつつ身体を暖めてもらっている。まあ、普通に体力作りのためでもあるのだけど。
 知識を武器にする人種は持久力に乏しい傾向がある。エリスもマダンテを唱えたとはいえ、魔力が枯渇した程度で動けなくなるようでは問題だろう。
 まあ、あんなものを使うような事自体、そうあるとは思えないけど、何をするにも体力はあるにこしたことはないので、この機会に鍛えてもらおう。
 身体を慣らすように少しずつ走るペースを上げていく。わたし自身は体内に流れる気や魔力を意図的に阻害することで負荷を掛けてのランニングだ。
 エリスは結界の張られていない左側を気にしながらも、ちゃんと安定した正しいフォームで走っていた。普段のドジっぷりからは信じられない事だ。
 いや、最初の模擬戦じゃ短時間とはいえ、接近戦でわたしと互角に渡り合ったのだ。そんな彼女が今更ただのランニングで無様を曝す等あり得ない。
 きっと、あれだ。戦闘中の集中力が素晴らしい分、普段の生活では気が抜けてしまっているのだろう。それはそれで、問題ではあるのだけれど……。

   * * *

 静かな室内にカリカリとペンが紙に文字を刻む音。テーブルにはライトスタンドが置かれ、足りない分の照明を補っている。こうして机に向かうのも高校受験以来になるかしら。
 致命的なまでの一般知識の不足は、鈍器として使えそうな程の分厚い参考書を何冊も流し読みして、解析魔法で強制的に内容を記録領域に叩き込むことで何とかなりそうだった。
 魂に直接情報を書き込むのは、試験会場に大量のカンニングシートを持ち込むようなものかもしれないけれど、人間にだって完全記憶能力なんてものを持っている人はいるのだ。
 それに、過去の問題の傾向を見るに、知識を丸暗記しただけで解けるような問題は全体の四割にも満たない。求められるのは設問の意図を正しく読み取り、解を導き出す応用力。
 こればかりは数をこなさなければ磨かれることもなく、わたしは参考書をコピーする傍ら、ひたすら問題集を解き続けるということをかれこれ二時間以上も続けているのだった。
「ふぅ……、とりあえずはこんなものかしら」
 持てる処理能力を総動員して勉強し続けることおよそ三時間。合間に何度か小休止を挟んではいたものの、さすがに集中力が落ちてきた。
 解析の魔法を止めると、中のわたしからあからさまな安堵の気配が伝わってくる。記録の管理者たる彼女にも大分無理をさせてしまった。
 時計を見れば短針が示す数字は十一。長針は六を越えてもうすぐ七に差しかかろうとしているところだった。皆はもう寝ちゃったかしら。
 布団を敷くからテーブルを退かすと言われて、わたしがミリィの部屋を出てから一時間以上は経っているし、それでなくても良い時間だ。
 特にエリスは昼間の鍛錬の疲れもあることだし、明日も同じことをするつもりだから今夜は早めに休むように言っておいたのだけど……。
 初めての早朝鍛錬は最初のランニングの途中から襲ってきた魔物を相手に戦闘、そのまま三人でのパーティー戦に縺れ込むこととなった。
 なお、襲ってきたのは足に頭蓋骨を挟んだ巨大なカラスのモンスター、デスフラッターに、熊野ような巨体を持つアリクイのアントベア。
 赤い身体のスライムベスに、魔力を吸い取る能力を備えたワーム系モンスターのサンドマスター。そして、六本腕のガイコツ剣士の計五種。
 この内、結界に近づける程の力を持っているのはガイコツ剣士だけだったので、残りはこっそりミリィに口笛を吹いて呼び寄せてもらった。
 肝心のエリスだけど、予め奇襲の可能性を想定していたこともあってか、怯えながらもしっかりと対応して見せていた。
 まあ、スライムベスの群れが現れた時に森ごと纏めてベギラゴンで焼き払おうとしたのには肝が冷えたけれど、それ以外は概ね冷静に動けていたのではないだろうか。
 一方でパーティー戦の錬度を上げるというもう一つの目的はまるで果たすことが出来なかった。
 こちらのレベルが高いこともあり、わたしが何か指示を出すまでもなく、個々人がバラバラに戦っただけで戦闘が終わってしまうのだ。
 意識して合わせようにも、ミリィの早さにエリスが着いていけず、エリスに合わせれば、今度はミリィの持ち味が殺されてしまうのだ。
 ミリィが敵を霍乱・誘導したところに、エリスの大魔法で一気に吹き飛ばせれば理想的なのだけど、それも場合によっては効率が悪い。
 ちなみに、その場合のわたしの役目はエリスの護衛とミリィの援護。問題はそこまでしないとならない状況になることがあるかどうか。
 試験当日はわたしとエリスの二人だけなので、状況に応じて前衛後衛を入れ替えていけば良いだろう。いざとなれば、分霊たちもいる。
 朝の鍛錬は二時間ほどで切り上げ、その後は朝食と家事を挟んで昼まで勉強。
 午後からはこの間模擬戦をした場所まで行って、各自トレーニングを行った。
 途中、お花を摘みに行ったミリィが出くわしたグリズリーから蜂蜜をもらって帰ってきたりしたけれど、概ね問題なく終えることが出来た。
 総じて初日の結果としては上々。考えなければいけないことはあるものの、しばらくは様子を見ながら続けていけば良いだろう。

 参考書に栞を挿んで閉じ、テーブルの上に広げていた物を手早く片付ける。長時間集中し続けていたせいか、気がつけば酷く喉が渇いていた。逡巡。寝る前に何か飲もうかしら。
 冷蔵庫の中身を思い出しながら、わたしが席を立った時だった。がちゃり、ドアノブを回す音がして、リビングに誰かが入ってきた。エリスだった。
 薄いクリーム色の寝間着の上にカーディガンを羽織った彼女は、今の今まで勉強をしていた様子のわたしに気づいて驚いたように目を瞬かせている。
「ずっと勉強してらしたんですか?」
「ええ、切りの良いところまで終わらせておきたかったから。あなたこそ、こんな時間にどうしたの」
「皆さんとお喋りしていたら喉が渇いてしまって。何か冷たい物はありますか?」
 軽く伸びをしながら聞き返したわたしに、エリスは少し申し訳なさそうにそう答える。自分たちだけ遊んでしまったことを気にしてでもいるのだろうか。
「アイスティーで良いかしら」
「あ、いえ、自分でしますから」
「良いから座ってなさい。ちょうど、わたしも飲もうとしていたところなの」
 慌ててこちらに来ようとするエリスを声で制し、わたしは冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
 プラスティックに似た何かで出来ているらしいそれは、内容物の組成を長期に渡って保つことの出来る優れものだ。
 わたしの解析魔法でも完全には正体を把握出来ないところに釈然としないものを感じないでもないけれど、一々気にしてはいけないのだろう。
 おかげであちらにいた頃とそう変わらない生活を送れているわけだし。
 お盆に二人分のグラス。放り込んだ氷がからんと涼やかな音を立てる。手ずから注いだ琥珀色を見ていると、ミリィに振舞われたハーブティーのことを思い出して思わず苦笑した。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
 わたしからグラスを受け取ると、エリスはそっとストローに口を付けた。良家のお嬢さんらしくそんな些細な仕草にも何処か上品さを感じさせる。
 仕事上の付き合いで覚えたわたしのような外面を取り繕った似非淑女には真似出来ない、自然な優雅さが彼女にはあった。さすが本物、一味違う。
 そんなエリスの様子を眺めつつ、わたしも彼女の対面に腰を下ろしてアイスティーを飲む。そういえば、二人きりになるのはこれが初めてだった。
「どうかされましたか?」
 こちらの視線に気づいてか、エリスはストローから口を離して小首を傾げる。そんな仕草も可愛らしくて、わたしは思わず頬を緩めた。
「何でもないわ。ねぇ、エリス。皆とはどんなことを話していたのかしら」
「あ、はい。主にミリィさんの冒険での体験談についてでしょうか。後はそれぞれの普段の生活のこととかですね」
「へぇ、どっちも気になるわね。具体的にどんなだったか聞いても良いかしら」
「はい。あ、でも、わたしからお話出来ることはあまりないかと」
「あら、どうして?」
 少し困ったようにそう言うエリスに、わたしは表情に疑問符を浮かべて首を傾げる。
「ミリィさん、お姉様がいらっしゃらないからって、肝心なところは少しも話してくださらないんですよ」
「もう、仕方ないわね。ミリィもそんなにもったいぶらなくても良いのに」
「構いませんよ。その代わり、お二人の馴れ初めについて聞かせていただきましたから。その、随分と衝撃的だったと……」
「あの娘は何てことを話しているのよ」
 照れ隠しに少々の呆れを含んだ調子でそう言って、再びストローに口を付けたわたしは、続いてエリスから投下された爆弾に思わず咽そうになった。
 エリスを見ると、彼女は素知らぬ顔でアイスティーを飲んでいる。しかし、その頬が赤くなっている辺り、ミリィが何を話したかは一目瞭然だった。
「あ、あの、それで、そのうちわたしもお姉様の毒牙に掛けられてしまうんでしょうか……」
 内心で羞恥に頭を抱えて悶絶するわたしに追い討ちを掛けるように、エリスが顔を真っ赤にしながらそう尋ねる。いやいや、潤んだ瞳で上目遣いとか破壊力ありすぎるから。
 まあ、本人に面と向かって聞いてくる辺り、からかいの類なのは明らかなのだけど、こうもそそられる表情を見せられては何というか、思わずその気になってしまいそうだ。
 とはいえ、冗談と分かっていて襲い掛かる程、わたしもおろかではないわ。こういう時は年上らしく余裕を持って合わせてあげるのが正解。レディはエレガントに、である。
「お望みとあらば、今夜これからでもお相手してあげるけれど」
「い、いいえっ、え、遠慮させていただきます!」
「あら、残念」
 妖艶な笑みを意識しながら返したわたしに、エリスは慌てたようにそう言って首を横に振った。
「あ、あまりからかわないで下さい。わたし、そういうのに免疫がなくて、困ります」
「そっちから話を振ってきたんじゃないの。まさか、こういう流れになるって予想出来なかったとでも言うつもりなのかしら」
「い、いえ、ただ、ミリィさんにしてもお姉様にしても、想像していたのよりも聊か刺激的過ぎたと申しますか……」
「まあ、あなたも軽い気持ちで聞いたんでしょうし、今回はいきなりそんなところまで話したミリィが悪いわね」
「あ、あの、否定なさらないってことは、本当にお二人はそういう関係で……はぅぅ」
 羞恥が限界に達したらしく、言葉の途中で可愛らしく呻いて目を回し出すエリス。苦手と言う割には、人並みに興味もあるのだろう。
 彼女の場合は、下手に思考の展開が速いせいで良からぬ考えまで加速して、あっと言う間に危険域に達してしまうと言ったところか。
 幾ら賢者として悟りを開きかけていると言っても所詮人は人。殊にこの年頃のお嬢さんとしては、こちらのほうが余程健全と言えた。
「ほら、しっかりなさい。あなた賢者になるんでしょ。なら、これくらいの思考の一つも御せなくてどうするの」
「は、はい、済みません……」
「良いわ。あなたの精神修養はその妄想を制御するところから始めましょう」
 赤い顔のまま項垂れるエリスに、わたしは名案を思いついたとばかりに手を打った。方向性こそ違うが、羞恥体験がトラウマになることだって十分にあり得るのだ。
 それ程の感情なら、理性を以って激情をコントロールする術を身に付けるための訓練相手としても適切。それに、これなら彼女のトラウマを直接刺激せずにも済む。
「もうそうをせいぎょ……って、ええっ!?」
 その言葉から何を連想したのか、エリスは素っ頓狂な声を上げた。どうも言っている側から早速思考を暴走させているようだ。
 鍛錬中の冷静さは何処へ行ったのか。そんなエリスの様子に一つ嘆息すると、わたしは立ち上がって彼女の傍らへと移動する。
 それに気づいたエリスは慌てて席を立とうとするが、もう遅い。身体ごとすっぽりと腕の中に納め、彼女の耳元に唇を寄せる。
 そうして、二言、三言と囁いてあげるだけで、あたふたと逃げ出そうとしていたエリスは今度こそ完全に目を回してしまった。

  * * * 続く * * *



試験に向けて備えているって感じだな。
美姫 「そうよね。それにしても実体験に勝るものなしって感じよね」
特に料理なんかは知識も当然大事だけれど、経験は必要だからな。
美姫 「エリスがちょっと妄想キャラになりかけていたけれど」
まあ、免疫がない上にお年頃という所かな。中々、楽しい感じではあるけれど。
美姫 「これからどうなっていくのかしらね」
楽しみだな。
美姫 「次回も待ってますね」
ではでは。



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