*

 ――夜の学校に現れる姿の見えない魔物たち。

 その正体は、たった一人の少女の力が生み出した想いの形だった。

「魔物なんて何処にもいない。魔物は舞が生み出していたんだ」

 掛けられた言葉に戸惑う少女。しかし、彼女は知っていたのだ。

「春の日も、夏の日も、秋の日も、冬の日も、わたしの思い出が祐一と共にありますように……」

 だから、少女は終わらせることを選んだ。共に戦った想い人へと最後にその気持ちを伝えて。

 彼には分からなかった。

 春の、夏の、秋の、冬の、……これから一緒に過ごすはずだった時間の幻が見える。

 そして、気がつけば彼は彼女と出会ったあの場所に立っていた。

 ――黄金色の麦畑。

 目の前には、少女の力の象徴たる10年前の彼女の姿があった。

 すべてはここから始まり、そして、今、終わってしまった。

 だが、少女は言う。

 ――でも、ここからまた、始めることは出来るから。だから、後は任せても良いかな。

 それは希望。

 この世界の中で、支えてくれる人がいるという希望。

 少年はそれに頷き……。

 ――そして、彼は旅立った。

 遥かな時間、もう一度、ここから始めるために……。

   *

  Maika Kanonical 〜奇跡の翼〜

  プロローグ

  〜消えるもの 生まれるもの〜

   *

 ――一面の白い世界……。

 気がつくと、わたしは雪の中に立っていた。

 足元の寒さに視線を落とすと何と素足だった。寒いはずである。

 改めて自分の格好を見渡してみて、思わず溜息が出た。

 この冬の寒空の下をワンピース一枚で出歩くなんて、一体どういう神経をしているのだろう。

 意外に寒さを感じないのも既に感覚が麻痺してしまっているからに違いない。

 そもそも、わたしはこんなところで何をしているんだ。

 そこまで考えて、ふとそれまで自分が何をしていたのか思い出す。

 ――そうだ、舞!

 慌ててあたりを見回すが、見える範囲にあいつの姿はなかった。

 そんな、大怪我してるんだぞ。早く見つけて手当てしないと本当に手遅れになっちまう。

 顔から血の気が引いていくのを感じながら、俺は慌てて駆け出そうとした。

 そして、何かに躓いてこけそうになる。

「おわっ!?

 よろめきながらも何とか体勢を立て直すと、俺は振り返って足元を見た。

 それは剣だった。

 ……舞の剣だ。

 その刀身を染める鮮烈な赤に、俺の脳裏に一つの光景が蘇る。

 気がつくと、わたしは誰かの背中に揺られていた。

 知り合いの誰か、北川あたりが見つけて運んでくれてるんだろうか。

 だとしたら、有難いな。あのまま雪の中にいたら、間違いなく凍死してただろうから。

 ……舞は、死んだんだろうか。

 血の赤は生命を象徴するものだけど、それとて生き物の身体の中にあってこそだ。

 わたしも、死ぬのかな……。

 いろんなものが遠くなってく感じがする。

 ……眠い。

 従姉妹には散々呆れたようなことを言っていたけど、こんな眠気だったら逆らえんわな。

 どうせ着いたら起こしてくれるだろうし、今はこの睡魔に征服されてしまおう。

 だって、逆らい続けるには重過ぎるんだよ。この瞼は。

 ――というわけで、お休み……。

 気がつくと、わたしは水の中にいた。

 いや、全身に染み渡るこの熱はお湯のものだ。

 っていうか、熱い!

 俺は慌てて湯を掻き分けて水面に顔を出すと、咳き込みながらあたりを見回した。

「……けほっ、けほっ、……な、何だ。何が起きたんだ!?

 お湯が目に入って痛いなんて、ガキの頃のシャンプー以来じゃなかろうか。

 おかげで視界が悪くてほとんど何も見えない。まあ、立ち昇る湯気のせいでもあるんだが。

 とりあえず、これがお湯であることから、ここが何処かの風呂であることだけは分かった。

「おっ、起きたか」

 掛けられた声にそちらを向くと何と、全裸の少女がバスタオルを肩に引っ掛けて立っていた。

 知らない顔だった。

 年は俺や名雪と同じくらいだろうか。気の強そうな目つきをした女だ。

「身体冷えきっちまってたし、幾ら揺すっても起きないから、凍死しちまってるかと思ったぞ」

「だ、だからって、いきなりお湯の中に放り込むことないだろ。溺れ死ぬかと思ったぞ」

 惜しげなく曝された胸に顔を赤くしつつ、俺は立ち上がってそいつを睨んだ。

「ほう、中々威勢が良いじゃねえか。お嬢ちゃん、名前はなんて言うんだ?」

 だが、彼女はそんな俺の態度に却って気を良くしたらしい。

 機嫌良さげにそんなことを聞いてくる。

 いや、機嫌が良いのはいいんだが、何か勘違いしてないか。

「なぁ、お嬢ちゃんって誰のことだよ」

「おまえだよ、おまえ。他に誰がいる」

「俺は男だ!」

「はぁ?おまえこそ何言ってんだ。寒さで気でも狂ったか」

「酷い言われようだな」

 呆れたようにそう言う彼女に、俺は思わず顔を顰めた。

「そりゃ、時々間違えられることもあるけど、っていうか、俺の裸見たんなら分かるだろうが」

「ああ、ガキのくせにえらくきれいな肌してやがるからな。将来は間違いなく良い女になるぜ」

「だから、俺は男だって!」

「うっせえな。そんなに言うなら、てめぇで触って確かめてみやがれ」

「な、何っ!?

 言われて自分の股間に手を伸ばした俺は、思わず驚愕の声を上げた。

「これで分かったろ。っていうか、おまえ、どうして自分が男だなんて思ってたんだ」

 茫然自失状態の俺に、彼女はそう言って不思議そうな顔を向けてくる。

 しかし、ショックで頭の中が真っ白になっている俺は、その質問に答えることが出来ない。

 これはある意味、今までの自分のすべてを否定されたにも等しい。

 ただでさえ、舞のことでどうして良いか分からなくなっていたっていうのに……。

「で、おまえ、名前は何ていうんだ?」

 洗い場の椅子に座ったわたしの背中をスポンジで擦りながら、彼女が同じ質問をしてくる。

「………」

 わたしは答えない。いや、正確にはどう答えたら良いのか分からなかったのだ。

 洗い場の鏡に映ったわたしの姿は幼い頃の舞のそれによく似ていた。

 長く伸びた髪は腰まで届き、今は洗うのに邪魔だからと前に押しやられている。

 視線を下げれば、膨らみはじめたばかりの胸がこの身体が女性であることを主張していた。

 ――正直、信じられないけれど、これが今のわたしなんだ……。

 そう、わたしだ。悲しいけど俺っていうよりも、そっちのほうがずっとしっくりくるんだよ。

 別人、それも女になっちまったっていうのに、早くも順応しかけているというのだろうか。

 幾ら北の町で不思議な体験をしたからって、さすがにそれはまずいだろう。

「おーい、答えないんなら、こっちで勝手に名前付けちまうぞ」

 内心焦りまくるわたしの背後で、彼女が意地悪な声を出す。

「ちょ、待……って、うわっ!?

 慌てて振り返ったわたしは、そのせいでバランスを崩して椅子から滑り落ちそうになった。

「おっと」

 とっさに伸ばしたわたしの手を、彼女が掴んで引き寄せる。

 彼女の腕は意外と力強く、わたしは一息に胸元まで引き寄せられてしまった。

 そのまますっぽりと彼女の腕の中に納まってしまう。

 おかげで転ばずに済んだけど、これじゃ、うかつに身動きが取れない。

 彼女と抱き合った格好のまま、わたしは赤面して固まってしまった。

「……分からないんだ」

 再び浸かった浴槽の中、三度目の同じ質問に、わたしは正直にそう答えていた。

 分かるのは、あの雪の中で意識を取り戻すまで自分が相沢祐一だったということ。

 相沢祐一として生きた17年の記憶をほぼ完璧に覚えているということだった。

 逆に今の自分が誰なのか、どうしてこんな姿になっているのかということは全く分からない。

 一度死んで生まれ変わったということなのか。いや、それにしては記憶が鮮明すぎる。

 第一、舞の剣に付いていた血はまだ新しかったじゃないか。

「……記憶喪失って奴か」

 わたしの答えに眉を顰めると、彼女は顎に手を当てて考えるような素振りを見せる。

 記憶喪失ってのも何か違うような気もするけど、状況としてはそれが一番近いのだろう。

 わたしはわたしという存在について、ほとんど何も分からないのだから。

 そう思うと、途端に酷く不安になってきた。

 7年前のことを忘れたときにもそれなりに嫌な感じだったが、今回のこれはその比じゃない。

 思わず抱きしめた自分自身の身体は思った以上に小さくて、心細かった。

 自分が誰なのか分からないってことが、こんなにも怖いことだなんて思わなかった。

「心配すんな。あたしが何とかしてやるから」

「え、でも、会ったばかりで迷惑掛けるわけには」

「ガキが遠慮なんかしてんじゃねえよ。良いから任せときな」

 震えるわたしの頭に手を置きながら、彼女は優しい声でそう言ってくれた。

 人間、精神的に参っているときに優しくされると大抵涙腺が緩くなってしまうものだ。

 思えばこうして誰かに優しくされるのって、随分久しぶりな気がする。

 俺の周りにいた人たちは俺のことを頼りこそすれ、頼らせてくれることなんてなかったから。

 わたしは慌てて目を擦ると、気づかれないように顔を逸らした。

 彼女はニヤニヤと笑いながら、そんなわたしの頬を指で突っ突いてくる。

 何だか完全に子供扱いされてる気がするが、こんな外見じゃそれも仕方がないのだろう。

 身体をバスタオルで拭きながらチラリと彼女のほうを見る。

 ――何故かすごい敗北感を感じてしまった。

 特に胸。舞はかなり大きいほうだったけど、そこまで似る保障は何処にもないわけで。

 思わず零れた溜息に、わたしは慌てて首を横に振った。

 これがついさっきまで男だった奴の思考かよ。

 一人称が変わったことといい、早くもこの身体に侵蝕されつつあるのは明らかだった。

「ほれ、とりあえず、これ着とけ」

 彼女から渡された服に袖を通すと何故かぴったりだった。

「さすがにあの格好じゃ洒落になんねぇからな。妹のだけど、サイズそれで合ってるか?」

「えっと、大丈夫みたいです」

「そっか。なら、ついてきな」

 わたしが着替え終わったのを見て、彼女はそう言うとそっと扉に近づいて外の様子を伺った。

 もしかして、家族に無断で上げてもらっているんだろうか。

「とりあえず、交番だな。迷子だったら親御さんが届け出てるだろうから」

 板張りの廊下を歩きながらそう言う彼女に、わたしは少し躊躇った後思い切って聞いた。

「あの、ご家族にはわたしのこと話してないんですか?」

「ん、ああ、まあな」

 歯切れ悪くそう答える彼女に、わたしは小さく首を傾げる。

「いろいろあんだよ。それに、おまえのほうも何か訳有りそうだったからな」

 そう言うと彼女は一つの部屋の前で足を止めた。

「あたしの部屋だ。とりあえず、入りな」

「あ、はい。失礼します」

 促されるまま入室したわたしの目に、一振りの剣が飛び込んでくる。

「それ、おまえのだよな」

 背後から尋ねる彼女の声は硬い。

 当然だ。今は布で包まれていて見えないけど、その刀身には人の血が着いていたのだから。

 思い出したように全身が震え出す。まるでこの手で殺したような錯覚に囚われる。

 そう、錯覚だ。実際には俺は何もしちゃいない。何も出来なかったんだ。

 ――そうやって言い訳をして、また逃げ出すの?あゆのときみたいに。

 わたしがわたしの中の俺を責める。

 逃げて悪いかよ。直視してたって、どうにもならないことだってあるだろう。

 反論する俺。

 悲鳴のようなその叫びは、わたしの心を酷く締め上げた。

「わたしのって言って良いのかどうかは分からないけど、でも、大切なものなんだ」

 荒れ狂う感情を押し殺して、わたしは震える声で彼女の問いにそう答える。

「そっか。なら、放さないようにしっかり持ってなきゃな」

 そう言って彼女はわたしに舞の剣を渡してくれた。

 それはもう、あっけないほど簡単に。

 最悪取り上げられるかと思っていただけに、思わず拍子抜けしてしまった。

 礼を言って剣を受け取ると、わたしはそれを胸に抱きしめる。

 不思議な感じだった。

 血を吸った剣からは微かに独特の匂いがするのに、それも舞のものだと思うと気にならない。

 それだけ俺があいつのことを好きだったってことなのか。

 ……舞、おまえは本当に死んじまったのかよ。

 ちゃんとした告白もまだだったのに、自分だけ言いたいこと言っていなくなっちまうなんて。

 わたしは思わず剣を抱く腕に力を込めた。

 これだけ使い込まれてるんだ。

 こうすれば少しはあいつのことを感じられるんじゃないかって、そう思ったから。

 彼女はそんなわたしを一瞥すると、黙って部屋を出ていった。

 気を利かせてくれたのだろうか。

 さっきだって、いろいろ聞きたかっただろうに、彼女は何も聞かずにおいてくれた。

 口が悪いし、ちょっと乱暴だけど、本当は良い人なんだと思う。

 ――彼女に拾われなかったらわたしは今頃どうなっていたことか……。

 思わず溜息が漏れた。

 彼女はまだ戻って来ない。トイレにでも行ったのかな。

   *

 ――気がつくともう朝だった。

 どうやら、ぼーっとしているうちに眠ってしまったらしい。

 ヤバいと思って飛び起きたら、剣ごと毛布に包まれていてびっくりした。

 昨夜、あの後戻ってきた彼女が寝こけているわたしを見つけて掛けてくれたんだろう。

 おかげで風邪引かずに済んだけど、これはちょっとやり過ぎなんじゃなかろうか。

 簀巻き状態から苦労して抜け出すと、わたしは立ち上がって室内を見渡した。

 机の上に時計を見つけたので、時間を確認したらまだ6時前だった。

 こんな早くに起きたのって、もしかしたら初めてじゃないだろうか。

 知らない人の家で熟睡出来る程、神経が図太いつもりもなかったけど。

 何だか損をした気分だ。

 しかし、そんな時間であるにも関わらず、既に室内に彼女の姿はなかった。

 それなりにきちんと畳まれた布団を見るに、トイレに起きただけということはなさそうだ。

 少し迷った後、わたしは屋敷の中を探索してみることにした。

 特に深い考えがあってのことじゃない。ただ、何となく気になったのだ。

 板張りの廊下をぺたぺたと素足で歩いていると、足裏から伝わってくる冷たさが身に沁みる。

 それでも我慢出来なくはないのは、貸してもらっている服が暖かいものだからだろう。

 後、身体の耐性とか。

 昨日はあんな格好で雪の中にいても凍死しなかったんだから、絶対に高いはずだ。

 取り止めもないことを考えながら、とりあえず見つけたトイレで用をたす。

 女の子の身体というのは案外我慢が利かないもので、結構危なかったのはここだけの話だ。

 こうして何かするたびに思うのだけど、つくづく今の状況というのは奇妙なものだった。

 身体が男から女のものに変わったというのに、不思議なくらい違和感が感じられないのだ。

 具体的な行動に戸惑うことはあるが、それも慣れれば何とかなるだろう。

 こうして考えると意外にこのままでもやっていけるんじゃないかと思えてくるから不思議だ。

 実際にどうするかは別として、女としての人生を想像するのもそれはそれで面白そうだった。

 腕に布で包まれた舞の剣を抱え直しつつ、何となく人の気配がたくさんある場所へと向かう。

 確信があったわけじゃないけれど、そこに行けば彼女もいるような気がしたから。

 直感に従って歩みを進めたわたしは数分後、道場のような建物の前まで来ていた。

 どうやら朝の練習が始まっているらしく、中から威勢の良い声が聞こえてくる。

 やっぱりここは道場なんだ。それも、たぶん剣道の。

 声に混じって聞こえてくるその音は、わたしにとっても馴染みのあるものだった。

 ――振り下ろされた木刀がしなり、鋭く宙を切る音をあたりに響かせる。

 僅かに開いた扉の隙間から中の様子を伺うと、十数人の男女が木刀を手に素振りをしていた。

 わたしを拾ってくれた彼女の姿もそこにある。

 皆一生懸命で、誰もわたしがいることには気づいていないようだ。

 でも、安心したのも束の間。

 こっそりと中の様子を覗いていたわたしに、後ろから誰かが声を掛けてきた。

「何してるの。もう練習始まってるよ」

 振り返ると、そこにはわたしと同い年くらいの女の子が竹刀袋を片手に立っていた。

 どうも門下生と間違われたらしく、その子はわたしの腕を掴むと道場の扉を開いた。

 そのまま中へと引っ張って行かれてしまう。抵抗する暇なんてなかった。

 わたしは仕方なく抱えていた剣を壁に立てかけると、差し出された木刀を手に取った。

 子供の身長に合わせてあるのか、舞との鍛錬で使ってたものより大分短い。

 わたしは軽く木刀の柄を握ると、呼吸を整えつつ、目の前に敵の姿を思い描いた。

 基礎の積み重ねも大事だけど、より実戦的な鍛錬を望むなら仮想敵を相手にすれば良い。

 素振りに飽きた俺に、呆れながらもそう教えてくれたのは舞だった。

 それが悔しくて、何度も直接挑みかかったけれど、結局一度も勝てたことはなかったっけ。

 ――舞……。

 今のこの状況がどういうものなのか、確かめなければいけないことはそれこそ幾らでもある。

 でも、闇雲に動いてはダメだ。

 気持ちを落ち着けて、今の自分に出来ることからやっていかないとすぐに自爆しそうだから。

 寝起きの頭をはっきりさせるためにも、この鍛錬はちょうど良かった。

 一度目を閉じて、開く。そうやっていろいろな考えを纏めて頭の中から追い出した。

 これから戦う相手を考えると、余計な思考は命取りだ。

 そうしてわたしが戦闘の準備を整えたときだった。

 不意に木刀同士がぶつかり合う甲高い音がして、意識が現実へと引き戻される。

 見ると、あの女の子と凶悪そうな面構えの男が打ち合っていた。

 男の身長は170を軽く超えていそうだ。体格も良く、重い一撃であることが見て取れる。

 案の定、渇いた音を立てて女の子の手から木刀が落ちた。

 ――勝負あった。

 だが、男の攻撃はそれで終わらなかった。

 呆然と立ち尽くす女の子の頭上へと、一撃を加えるべく木刀を振り上げる。

 わたしは反射的に上半身を捻って腕を引き絞ると、握っていた木刀を男に向かって投げた。

 その後、すぐに壁に立てかけておいた剣の柄を掴んで駆け出す。

 わたしの投げた木刀は男のそれに当たると、僅かに軌道を逸らして床に落ちた。

 そして、再び道場内に硬い音が響き渡る。

「……どういうつもりだ」

 男が僅かに眉を顰めて口を開く。

「それはこっちの台詞だ。てめぇ、殺す気か!」

 打ち合わせた木刀をそのままに、彼女が怒気も露に男を睨む。

「稽古をつけてやっているだけだ」

「やりすぎなんだよてめぇは!」

「痛みを知らずに上達などするものか。分かったらそこを退け!」

「誰が退くかっ!」

 気迫を込めて木刀を押す男。だが、彼女も負けじと押し返す。

「……良いだろう。そこまで言うのなら、おまえから先に稽古をつけてやる。かかってこい!」

「望むところだ。性根を叩き直してやる!」

 男の言葉に彼女も頷き、両者は同時に木刀を引いて離れた。

「大丈夫?」

 二人の様子を見ながら、わたしは呆然と立ち尽くしている女の子に近づいて声を掛ける。

「わたしは平気。それよりまゆ姉だよ。あんなこと言って、師範が本気になったら叶いっこないのに」

「あの人、まゆ姉っていうんだ」

「うん。草薙真雪姉。師範の娘で、わたしら門下生の中じゃ一番強いんだけど……」

 そう言いながら、女の子は心配そうに二人の戦いを見ている。

 合図もなしに始まったその戦いはなるほど確かに彼女、真雪さんのほうが劣勢のようだ。

 何せ、手の内を読まれている。対する男の一撃は確実に彼女から体力を奪っているようだ。

 このままじゃ男女の体力差を考えるまでもなく、彼女が競り負けるのは明白だった。

 何度目かの重い一撃を受け止めた真雪さんの体勢が僅かに崩れる。

 そこへ男の追撃が入り、彼女は無理な体勢で2度受けるが、そこまでだった。

 道場の床に片膝を着いた真雪さんの頭上へと、男が木刀を振り上げる。

 あたりから悲鳴が上がる中、わたしは舞の剣を手に床を蹴っていた。

 振り下ろされた男の木刀を逆に下から跳ね上げ、反動で床へと着地する。

 まるで重力から解放されたかのようだった。信じられないくらいに身体が軽い。

 男の顔に動揺が走る。

 そりゃそうだろう。なんてったって、わたしみたいな小娘に渾身の一撃を防がれたのだから。

「それは、真剣か。……小娘、貴様自分が何をしているのか分かっているんだろうな」

 いかつい顔に怒気を浮かべて男が問う。

 だが、そんな男の声も今のわたしの耳には届いていなかった。

 打ち合った衝撃で剣を覆っていた布が解け、床へと落ちる。

 そして、その下から現れた鈍く光る刀身。

 そこに映った少女の顔に、その目に、わたしは思わず息を呑んだ。

 ――舞……。

 間違えるはずがない。

 そこにいたのは、紛れもなく、わたしの、俺の知っている、あいつだった。

「この人はわたしたちの恩人。黙って傷つけさせたりはしない」

 紡がれる強い意思の篭もった声は間違いなくあいつのものだった。

 感じる。舞が、まいが、わたしの、……俺の中に確かにいると分かる。

 どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。

 あいつらは何処にも行ったりしてなかったっていうのに。

「小娘が生意気な」

 舞の気迫に怯んだのか、男は低く唸るようにそう言うと再び木刀を振り下ろしてきた。

 そうだ。今はこのおっさんを何とかしないと。

 振り下ろされた木刀を後ろに下がって避け、すぐに一歩踏み込みながら横薙ぎの斬撃を放つ。

 切り下げから横薙ぎへと軌道を変えてくる男の木刀を弾き、反動で剣を正面へと戻す。

 そこから更に一歩踏み込んでの下からの切り上げを、男は半歩身を引くことでやり過ごした。

 そのまま返す刀でわたしの頭を狙ってくる。

 わたしは姿勢を低くしてそれを避けると、一度後ろに下がって距離を取った。

 ――さすが、師範ってだけのことはある。舞、勝てそうか。

 心の中で尋ねたわたしに、舞の頷く気配が伝わってくる。

 彼女の指示に従って、わたしは剣を腰の横に構えた。

 使うのは抜刀術と呼ばれる剣術の中でも特に威力の高い技だ。

 本来の鞘の代わりをまいの力で生み出し、そこに剣を納める。

 切っ先を僅かに上向かせ、膝を曲げて低く構える。

 ――その間、僅か数秒……。

 迫る男の斬撃を見据え、わたしは溜めた力を解き放った。

 ――川澄流抜刀術・三日月――。

 駆け抜ける刹那の時間。確かな手ごたえがして、あたりに鈍い音が響き渡る。

 手加減はしたつもりだった。

 さすがに殺してしまうのはまずいので、剣の側面で強打するに留めたのだ。

 だが、それでも脳震盪くらいは起こしたかもしれない。わたしも腕が痛い。

 気を抜いた途端にカクンと膝から力が抜けて、わたしは道場の床にへたり込んでしまった。

 まいの力に舞いの剣技、どっちも子供の身体には負担が大きすぎたみたいだ。

 その後、何か大騒ぎになっていたみたいだけど、わたしはよく覚えていない。

   *

 ――その比の夜、草薙家の夕食の席でわたしは真雪さんから家の人たちに紹介された。

 師範を倒した記憶喪失の女の子というのには、さすがに皆微妙な表情を浮かべていたけど。

 当の師範はわたしに負けたのがよほどショックだったのか、ぶつぶつと何か繰り返している。

 自分が何者か分からないうちにあんまり派手なことはしないほうが良かったかもしれないな。

 少し反省しつつも、振る舞われた料理はしっかり堪能させてもらった。

 思えば昨日の夜から何も食べていなかった。お腹が空いているはずである。

 思い出すと恥ずかしくなるような量を一人で平らげると、わたしは満面の笑顔で箸を置いた。

 女所帯で年の近い子も何人かいたため、食後の団欒は大いに賑やかだった。

 話題は専らわたしのことで、周りを女の子たちに囲まれたときには正直途方に暮れたものだ。

 そして、夜も大分更けた頃、わたしは真雪さんの部屋で一人考え込んでいた。

 どうも今のわたしは舞と祐一が混ざり合った存在らしい。

 幸いどちらの人格も失われてはいないようで、こうして目を閉じると舞と話すことが出来る。

 しかし、一体何がどうしてこうなってしまったのだろう。

 あの時、まいはやり直すことが出来るからと言って、俺に後を託した。

 何となくそのことが関係しているんだろうってことは想像がつくんだけど……。

 ――それはたぶん、わたしが望んだから。

 舞。それって、どういうこと?

 覚えてる。わたしが最後に言った言葉。

 ――わたしの思い出が祐一と共にありますように……。

 って、まさか!?

 声が聞こえた。わたしを呼ぶ祐一の声。だから、わたしは最後の最後で願ってしまった。

 ――なんてこと……。

 それは本当に切なる願いだったのだろう。そして、まいの力はその願いを叶えてしまった。

 あまりのことに、思わずわたしの口から溜息が漏れた。

 ――ごめん。

 謝るなよ。俺だって舞のことが好きだったんだ。それは、わたしになった今でも変わらない。

 少し苦労しながら男言葉でそう伝えると、舞から照れたような気配が返ってきた。

 例え俺という存在が根底から変わってしまっても、舞ならきっと覚えていてくれる。

 そして、変わってしまったわたしに、不器用な笑顔を浮かべて言ってくれるのだろう。

 だから、怖くない。一緒に歩いていこう、このままで。

 さて、これからどうすれば良いのだろう。

 食事中の会話で得られた情報によると、ここはあの北の町に程近い場所のようだった。

 時代はあの時からおよそ7年前まで遡っている。

 ――やり直す……。

 一瞬脳裏に浮かんだその考えを、わたしは首を横に振って追い出した。

 今のわたしは最早相沢祐一ではなかったから。

 ――でも、手助けくらいはしても良いよね。

 まいとの約束もある。

 何より、わたしの知っている人たちに少しでも幸せになってもらいたいから。

 祐一がそうしたいなら、わたしは手伝うだけ。

 そっか。じゃあ、まずは名前を決めないとな。

 この姿で相沢祐一って名乗るわけにもいかないだろ。

 かといって、いつまでも名無しのままじゃ何かと不便だ。

 じゃあ、わたしがつけてあげる。祐一に任せると変なのになりそうだから。

 おいおい、さすがに自分の名前だぞ。真剣に考えるって。

 でも、わたしが付ける。わたしが付けたいの。

 分かったよ。なるべく無難なのを頼むな。

 うん。

 ――祐一の、……わたしたちの名前は……。

   *

 ―― つづく ――

   *

 





安藤さんより、Kanonととらハのクロス〜。
美姫 「祐一と舞がくっ付いて、草薙家に」
これからどんな風にお話が展開するんだろうか。
美姫 「次回も楽しみにしてますね」
待っています。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



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