* * * * *
 ――わたしの朝は早い。
どれくらい早いかと言えば、田舎の遠距離通学生と同じか、それよりも早い時間にはもう起きている。
 夏なら余裕で日の出を拝めるし、朝一番に挨拶をするのが新聞配達のお兄さん、なんてこともよくある話だ。
 偶に夜勤明けの秋子さんと鉢合わせすることもあるけれど、彼女には事前に理由を説明してあるので、別段問い質されるようなこともなかった。
 さて、では、そんな朝早くに起きて一体何をしているのかと言うと、それはわたしにとってとても重要なことだ。
 ――即ち、鍛錬である。
 ファンタジーな能力を使えるとは言っても、それらも身体が基本であることに変りは無く、人外と渡り合えるレベルを維持するには日々の鍛錬が欠かせない。
 まず、町外れの神社までの数キロを身体にまいちゃんを憑依させた状態で走る。その後、そのままの状態で川澄流退魔剣術の基本の型から奥義までの流れを一通り確認。
 程よく身体が温まってきたところで、無謀にもわたしに奇襲を掛けようとした舞を返り討ちにした。
「奇襲を掛けるのなら、気配を消すのではなく、隠しなさい。そこにあるはずのものまで遮断してしまっては、却ってここにいると教えているようなものですよ」
 地面に這い蹲って呻き声を漏らす舞にそうアドバイスを送ると、わたしは彼女が立ち上がるのを待つ。この後は、実戦形式での打ち合いだ。
 元々才能があったのだろう。
 一緒に鍛錬をするようになってからというもの、舞の動きは日を追うごとに確実にその鋭さを増してきている。そんな彼女の相手をするのは楽しいし、わたしにとっても良い鍛錬になるのだった。
   * * * * *
  Maika Kanonical〜奇跡の翼〜
  第14章 彼女の日常
   * * * * *
 朝の鍛錬を一通り終えたわたしは、舞を連れて水瀬家へと帰宅した。
 鍛錬後に一度それぞれの家に帰宅してから学校へとなると、どうしても早めに切り上げなければならなくなる。だが、それでは出来る鍛錬にも限界があるということで、わたしは秋子さんの了承を得て、舞の朝食を水瀬家で摂らせてもらうことにしたのだった。
 舞はその後学校に直行である。
 まずは汗を流すべく、二人で一緒にシャワーを浴びる。舞は最初、恥ずかしがっていたけれど、時間が勿体無いからと言って説き伏せた。
 何しろ今日の朝食当番はわたしなのだ。合わせてお弁当の用意もしないといけないことを考えると、残念ながらそうゆっくりもしていられない。
 まあ、当番制を提案したのはわたしだし、料理をすること自体は好きなので、全く苦にはならないのだけれど。
 それに、自発的に手伝ってくれると言う舞を助手に、二人で料理をするのは案外楽しいものだった。
 自分も覚えたいらしい舞に、簡単に作り方を説明しながら、手際よくおかずを仕上げていく。こうしていると、何だか妹が出来たみたいで嬉しい。
 うちの妹は最近しっかりしてきて、あまり姉らしいことをさせてくれないのだ。まあ、成長してくれるのは嬉しいのだけれど。
 そういえば、このところ慌しくて連絡を取れていない。えっと、最後に電話で話をしたのはいつだったかしら。
 記憶の糸を手繰りながら、わたしが味噌汁の味見をしていると、秋子さんがキッチンに入ってきた。
「おはようございます。済みません、いつもいつも」
 既に粗方出来上がっている朝食を見て、秋子さんが申し訳なさそうにそう言って頭を下げる。
「いえ、わたしが言い出したことですし、それに料理するのは好きですから」
 年上の女性に頭を下げられたわたしは、慌ててぱたぱたと手を振りながらそう言うと、彼女に頭を上げてもらった。
「舞歌、味噌汁!」
「えっ? って、きゃっ!?」
 秋子さんに気を取られていたわたしは、煮零れた味噌汁で軽く手を焼けどしてしまった。
「大丈夫ですか!?」
 慌てて駆け寄ってきた秋子さんに、わたしは赤くなった箇所を流水で冷やしながら、大丈夫だと頷いてみせる。実際、これくらいの火傷なら、少しそちらに回す気の量を増やすだけで、すぐに治る。
「ダメですよ。ほら、水脹れになってるじゃないですか。ちゃんと治療しないと」
 だけど、秋子さんはそう言ってガスコンロの火を止めると、わたしを半ば強引にダイニングの椅子に座らせた。
 水脹れになっている場合の火傷の処置はまず冷やし、その後に滅菌消毒した針で水脹れ、専門的には水疱という、を潰して消毒。最後にガーゼを当ててテープで固定が正しい手順とされている。
 清潔な針がない場合は冷やすだけにしておくようにと、前に読んだ医学関係の本に書かれていたような気がする。そして、彼女がわたしにしてくれた手当ても大体そんな感じのものだった。
 しかし、秋子さん。その針は何処から出されたのですか?
 そうこうしているうちに、今朝も名雪の部屋の目覚まし大合唱が始まった。
 相変わらず近所迷惑なその大音量に、舞が堪らず顔を顰め、秋子さんは片手を頬に当てて困ったような顔をする。タイミングを見計らって、意識的に聴覚を制限したわたしはノーダメージだ。
「舞、今日もお願いしますね」
 わたしのその言葉に一つ頷くと、舞は無言でキッチンを出ていく。その手には、わたしがさっきまで葱を刻んでいた包丁が握られている。
「…………」
 それを見たのだろう。舞と入れ違いにキッチンへと入ってきた祐一の表情が、微妙に引き攣ったものになっていた。
 その後、水瀬家に名雪の何か可笑しな悲鳴が轟いたとか何とか。
 それから暫くして、降りてきた彼女の頭には、見事なたんこぶと一緒に細かく切られた葱の欠片が載っていた。
「うー、頭痛いよ。葱臭いよぉ……」
 今朝のおかずに箸を伸ばしながら、涙目でぶつぶつと文句を言う名雪。しかし、自業自得の上、これで三度目なので、弁護の余地は無い。
「峰打ちだから」
「そういう問題じゃないと思うんだが」
「真剣じゃないだけまだ慈悲があったと思いませんか?」
「いや、凶器であることに変りは無いんじゃ。ていうか、嗾けたの舞歌さんでしょ」
 問題ないと言う舞に祐一が突っ込み、それにわたしがフォローを入れる。そんなわたしに祐一は湿度の高い視線を向けてくるけれど、それくらいで動じたりはしない。
「すぐに起きない名雪が悪い。朝からあの騒音は近所迷惑」
「うー、だからって、刃物で脅したり殴ったりしなくても良いじゃない。お母さんも、いたのなら止めてくれれば良いのに」
「名雪、この場合は舞さんのほうが正しいわよ。まあ、さすがに真剣片手に名雪の部屋のドアを蹴破ったのには、驚きましたけど」
 娘の危機を見過ごした母親に名雪は文句を言うが、秋子さんは厳しい態度だ。でも、その顔には苦笑。きっと、その時のことを思い出したのだろう。
 一緒に朝食を摂るようになった最初の朝、一向に鳴り止まない名雪の目覚まし群に、業を煮やした舞は抜き身の剣を片手に、彼女の部屋へと押し入ったのだ。
 舞も最初は普通に起こそうとしたらしいのだけど、名雪相手にそれが通じれば誰も苦労はしないというもの。ちなみに、舞が来てから祐一は一度も名雪を起こそうとはしていない。
 ――閑話休題。
 そんな感じで、朝からドタバタしながらわたしたちは学校へと向かう。舞のおかげで、今日はまだ、走らなくても間に合う時間ではあるのだけれど、祐一を少しでも鍛えるためにと、ここはあえて走らせた。
 祐一を鍛えるとは言っても、前のようにいきなり剣を握らせるわけではない。そもそも、普段から運動をしていない彼では、剣を振るという動きに身体が着いて来られないだろう。
 わたしが彼に対して行うのは、基礎能力と反射神経の強化。そして、効率的な身体の動かし方と、それを実現させられる身体作りの指導。
 何故か危険を察知する能力に優れている祐一だ。その反応に身体が着いて来られるようにしてやれば、格段に強くなっている今の魔物からでも逃げ切れることだろう。
 そもそも、わたしは彼を戦わせようだなどとは考えていない。俄仕込みの素人剣士なんて、いても足手纏いになるだけだし、わたしは誰かを護りながら戦える程、強くはないから。
 だが、根がお人好しな祐一のことだ。知れば絶対に首を突っ込んでくるに決まっている。
 そうなった時、せめて、自分の身は自分で守れるように、わたしは彼を鍛えるのだ。
「……はぁ、はぁ、ったく、何でまだ余裕があるのに走らなきゃならないんだよ!」
 とりあえず、息を切らせながらもきっちり文句を言ってくる祐一は、実は結構余裕があるのかもしれなかった。
   * * * * *
「で、これは一体、どういう状況ですか?」
 いつも佐祐理さんたちと一緒にお昼を食べている、屋上へと続く階段の踊り場。そこに集まった面子を見渡して、わたしは溜息混じりにそう言った。
「いや、どういう状況って聞かれてもな」
 わたしの問いに、祐一がポリポリと頬を掻きながら隣の名雪を見る。視線を向けられた名雪は、何故か不機嫌そうに祐一を見ていた。
「真琴は秋子さんに頼まれて、名雪の忘れ物を届けに来ただけよ」
 叱られると思ったのか、真琴はそう言いながら不安そうにこちらを見上げてくる。そんな彼女の頭を撫でてあげながら、わたしが向ける視線の先には、自宅療養中のはずの栞の姿。
「えっと、あの……」
 わたしに見つめられた栞は何とか言い訳をしようとするけれど、上手く言葉が出てこないようだ。
「とりあえず、お昼にしませんか?お昼休みも限られているわけですし、早く食べないと時間が無くなってしまいますよ」
 そんな中、いつもと全く変らない調子で、佐祐理さんがそう言って皆に箸を配る。ちゃんと全員分あるところを見ると、もしかしてこの人はこういう事態を予想していたのだろうか。
 彼女の独特なペースのおかげで、毒気を抜かれたわたしはもう一度溜息を漏らすと、自分の作ってきたお弁当の蓋を開けた。しかし、わたしが舞の件で奔走していた間に、祐一はしっかりとあちこちにフラグを立ててくれたようで、栞と真琴、名雪の間で小さな混沌が形成されている。
 ――まったく、何をやっているのだか。
 祐一の迂闊さに呆れるとともに、何かこう、黒いものがわたしの中に沸々と湧き上がってくるのを自覚した。
「ま、舞歌、やっぱり怒ってる」
「ゆ、祐一、何とかしてよ」
「ま、舞歌さん、黒いです……」
 真琴が怯えたように身を竦ませ、名雪が祐一の脇腹を肘で突付く。栞は前に一度見ているせいか、蒼い顔をしながらも他の二人よりは余裕があるようだった。
 そして、元凶とも言える祐一はとにかく少しでも早くこの場を離脱したいらしく、すべてを無視して黙々と自分の分のお弁当を片付けていた。
 まあ、祐一がわたしの事情を知るはずもないので、こちらに気を遣えというのは無理な相談だろう。それに、色恋に関して彼が苦労を背負い込むことになったとしても、わたしには関係の無いことだ。
 ――そう思うんなら、さっさとその黒いものを納めてよ。
 こちらはこちらで、不機嫌を隠そうともせず、黙々と箸を進める。そんなわたしに、まいちゃんが半分泣きそうな声でそう頼み込んでくる。
「はぇ、舞歌さん、ひょっとして、嫉妬してるんですか?」
 佐祐理さんの発したその何気ない一言に、一瞬、本当に一瞬だけ時が凍った。
「うふふ、佐祐理さん、なに言ってるんですか。寝言は寝てからおっしゃって下さいな。それとも、わたしの目に起きているように見えているだけで、本当は寝てらっしゃるのかしら」
「あ、あははは〜」
 自分でもとても良いと思える笑顔を浮かべてそう言うわたしに、佐祐理さんの頬を冷たい汗が伝う。
「えっ、舞歌さんって、祐一のこと好きだったんですか!?」
「バカ、名雪。空気読めよ!」
「祐一さん、あなたもです」
「がくがく、ぶるぶる」
 上から名雪、祐一、栞、真琴の順である。しかし、真琴は口に出して言ってしまっているあたり、本当に怖いのだろう。
「はぇ、舞歌さん、怖いですね。佐祐理、何かいけないこと言いましたでしょうか」
「佐祐理さんも、起きているように見えるくらい自然に寝てしまえる程、疲れているのでしたら、保健室へ行かれたほうがよろしいですよ。理由が必要なら、わたしが二つ三つ作ってさし上げましょうか」
「はぅ、舞、助けて……」
 あくまで口調は穏やかに、わたしはそう言って目だけ笑っていない笑顔を彼女へと向ける。すると、佐祐理さんは頭を庇う仕草をしながら、そう言って逃げるように舞の後ろへと隠れる。この人は結構余裕だ。
 というか、絶対楽しんでいるだろう。
 そういう性格の人だ。まあ、気持ちは分からないでもないけれど、この場合、わたしはからかわれる側なので面白くない。
「はぁ、祐一には悪いですけど、わたし、あなたのことそういうふうには見てませんから。というよりも、見れないんです。いろいろあって、わたしにとってのあなたは、本当に弟みたいなものですから」
 少し疲れたように息を吐き、それからわたしは申し訳ないという表情を作って祐一へ、かつての自分へと頭を下げる。そう、そこにいるのはかつての自分だ。
 わたしはナルシストではないし、自分と睦み会う趣味も無いので、変な気を起こされても困る。
 まあ、それもこちらの事情ではある。だから、今、こうしてはっきりと口にしておく。きっと、それがお互いのためだから。
「ごめんなさい……」
 そう言って目を伏せることでわたしは彼から視線を逸らす。さすがに拒絶した相手を直視していられる程、神経図太くは無いようだ。
「いや、別に……」
 気にするな、とでも言いたいのだろうか。
 バカな人だ。わたしはあなたを男として見れないから変な気を起こされても困ると言ったんだぞ。
 そんな女の事なんて、気に掛けることないのに。
 わたしが祐一だった時に同じことを言われていたら、同じような態度を取ったのだろうか。いえ、きっとそうに違いない。
「本当、バカなんだから……」
「えっ?」
「何でもありません。ほら、祐一の周りにはこんなに素敵な女の子が五人もいるんですから、わたしのことなんて構わず、良い恋をしてくださいね」
「ふえ、佐祐理も人数に入ってるんですか?」
「栞はあげないわよ」
「って、お姉ちゃん、一体どこから!?」
 ごまかすようなわたしのその言葉に、不思議そうに首を傾げる佐祐理さん。香里は本当にいつからそこにいたのか、栞を守るように背中に庇っている。
「香里も候補に入りますか?」
「バカなこと言ってないで、ほら、もう昼休み終わっちゃうわよ」
 自分の腕時計を示しながらそう言う香里に、皆が慌ててお弁当の残りを食べ出す。わたしはもうほとんど食べ終わっていたので、のんびりとそんな光景を眺めている。
「良かったの?」
「何のことです?」
「まあ、あなたがそれで良いのなら、あたしは何も言わないわ」
 わたしにだけ聞こえる声でそう言うと、香里は休学中にふらふらしている不良妹の首根っこを掴んで引きずって行く。
「えぅ、お姉ちゃん、放してください」
「ダメよ。これから復学に必要な書類をもらいに職員室に行くんだから、あんたも来なさい」
 そう言って、問答無用で連行していく。そうか、栞は復学の目処が立ったのか。
「これからって、香里は午後の授業、どうするんだよ」
 祐一がハッとしたようにそんなことを言っているけれど、今の香里にとってはそんなのは二の次だろう。
 栞は本当なら、次の誕生日まで生きられないかもしれなかったのだ。わたしが干渉したことで、既に最悪の未来は回避されていたとしても、やはりこうして目に見える形で成果が現われると、感慨の一つも湧くというもの。
 他人のわたしですらそうなのだから、姉である香里には一入だろう。
 ――本当に、手を尽くして良かった。
 そう、心から思えた瞬間だった。

   * * * つづく * * *



栞は無事みたいだし、舞も今のところは無事と。
美姫 「強くなった魔物の方が気になるけれど、これからどうなっていくのかしらね」
いや、本当に楽しみです。
美姫 「次回も待っていますね」
待ってます。



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