「へぇ、こんなところに喫茶店があったんだ」
 店の看板を見上げながらそう漏らす名雪を促し、わたしは店内へと入る。そこはこの町に来た最初の日、祐一と二人でお茶したあの喫茶店だった。
「少しお話したいことがあるんですけど、今日はこの後、何か予定はありますか?」
 祐一を中心に、大騒ぎした親睦会の翌日、わたしはそう言って名雪を連れ出した。わたしの部屋でも良かったのだけど、内容が内容だけに、それでは名雪が話し辛いだろうと思ったのだ。
「ここのコーヒーは安いのにとても美味しいんです。まずは何か頼みましょうか」
 窓際のテーブル席の一つに向かい合って座ると、わたしはそう言って名雪にメニューを薦める。昼食にはまだ早いけれど、朝食もまだなので、軽く入れておくのも良いだろう。
「えっと、それじゃあ、このフルーツ&ミックスサンドとコーヒーのセットを」
「お、そうきましたか。それじゃ、わたしは海鮮パスタとミックスピザ、ホットサンドとコーヒーのセットにしましょうか」
えっ?」
「わたしは今朝も日課の運動をしましたから」
 そんなに食べるんですかという顔をする名雪に、わたしは平然とした態度でそう答えると、案内してくれたウェイトレスに注文を告げる。何度か通っているうちに、今回もすっかり顔馴染みになってしまった彼女だ。
「ご注文は以上でよろしいですか?」
「あ、それと、このストロベリークリームパフェっていうのをお願いします」
「名雪さんこそ、今日は陸上部の練習はお休みだったんじゃありませんか?」
 慌てて注文を追加する名雪に、わたしはからかうような調子でそう尋ねる。
「うっ、いちごは別腹なんですよ」
「でも、同じ身体ですよね。吸収されたカロリーは、等しくどちらも名雪さんの脂肪となるわけです」
「舞歌さん、酷いですよ」
「うふふ、ごめんなさい。でも、名雪さんだって、さっき、わたしのこと、大食いみたいな顔で見てたじゃありませんか」
「うっ、それは……」
 指摘されて口ごもる名雪に、ウェイトレスの彼女が助け舟を出す。
「舞歌ちゃんは、スポーツしてる子から見ても、結構食べるほうだと思いますよ。うちの妹も陸上やってますけど、そんなには食べませんし」
「あら、売り上げに貢献してあげてるのにそんなこと言っても良いんですか?」
「良いんですよ。逆に食材を食い潰されて困ってるくらいだって、店長も言ってましたから」
「あの置物マスターめ」
 彼女の言葉に、わたしはカウンターの向こうでグラスを磨く格好のまま、微動だにしない中年男性へと目を向ける。軽く視線に力を込めてみるけれど、ちゃんと目を合わせたはずの相手は瞬きすらしない。
「まあ、そういうわけで、舞歌ちゃんのこれはいつものことですから、そちらは気にしないで楽しんでいってくださいね」
「はぁ」
 完璧な営業スマイルとは少し違う、柔らかな微笑を見せてそう言うと、彼女はメニューを回収して去っていった。
「もう、あやめさんも、何も名雪さんの前であんなこと言わなくても良いのに……」
「舞歌さんって、あのウェイトレスさんと仲良いんですね」
「このお店には、割と良く来ますからね。年も近いですし、ちょっとお話しする機会がありまして、それで」
 わたしの説明に、名雪は納得したようにへぇ、と声を漏らす。
「そう言えば、舞歌さん、わたしに何か話があったんじゃなかったんですか?」
「ええ、家じゃ話し辛いと思いまして」
「……祐一のことですか」
 質問、というよりは、確信に近い調子でそう尋ねる名雪に、わたしは静かに「はい」と頷いた。瞬間、彼女の雰囲気が僅かに変化する。
「舞歌さん、よく祐一のことを気に掛けてるみたいだったから、そうじゃないかと思ったんです」
「気になります?」
「それは、まあ……」
 意地悪なわたしの質問に、名雪は少し視線を逸らしながらもごまかすことはしなかった。ふむ、自分の気持ちは一応、把握しているようですね。
「わたしは言いましたよ。彼のことは、手の掛かる弟くらいにしか、思っていないって」
「祐一は、この町に戻ってきた最初の日があなたとの初対面だって言ってました。でも、舞歌さんにとっては、そうじゃないんですか?」
 疑惑の目を向けてくる名雪。その目は正しく恋敵を見るもので、わたしは思わず疲れたように溜息を漏らす。
「直接会ったのは、確かにこの町に来た時が最初でした。けれど、わたしはそれ以前から、祐一のことを知っていた。それも、たぶん、本人以上にね」
「そんなこと……」
「残念ながら分かるんです。でも、その理由をあなたにお教えすることは出来ません。いえ、例え他の誰であっても、わたしは話さないでしょうね」
 思わず怒鳴りそうになる名雪を遮って、わたしはそう淡々とした調子で言葉を紡ぐ。物理的な圧力を伴う言霊を僅かに交えたそれは、彼女に冷静さを取り戻させるには十分だったようだ。
「名雪さんは、どうして告白しないんですか?」
「えっ」
「好きなんでしょ、祐一のことが。なら、こんなところでわたしに探りを入れたりしてないで、その気持ちを彼に直接ぶつけてしまえば良いんです」
「あ、う、で、でも、祐一は……」
「関係ありませんよ。それとも、あなたの彼に対する気持ちは、その程度のものなんですか?」
 視線を泳がせながら、必死に言い訳を並べようとする名雪をぴしゃりと遮って、わたしは正面から彼女の目を見てそう尋ねる。決して大きくはない、けれど、力を乗せたその声に、名雪は忽ち押し黙る。
「確かに相手の気持ちを慮るのは大切なことです。けれど、時には乱暴なくらい強引に、自分の気持ちを押し通さないといけないこともあるんですよ」
「舞歌さん……」
「譲れないんでしょ。なら、努力を惜しんではダメです。一度や二度、ふられたくらいで落ち込んでいるような暇があるんなら、どうすれば、彼が振り向いてくれるか考えなさい」
 項垂れる名雪の手を取って、叱咤する。そう、ただ気づいてくれるのを待っているだけでは、あの鈍感バカを相手に勝利することなど出来るはずもないのだ。
「お待たせいたしました。こちら、フルーツ&ミックスサンドセットとホットサンドセットになります」
 あやめさんが注文した料理を運んできて、わたしはさっと名雪の手を放すと、何事もなかったかのように窓の外へと視線を向ける。しかし、彼女の目はしっかりとそれを捉えていたようだ。
「またナンパですか?」
 ほら、始まった。この人は、こうやってよくわたしのことをからかって遊ぶのだ。接客業でストレスも溜まるのかもしれないけれど、遊ばれるほうは堪ったものではない。
「違います。人のことを、常習犯みたいに言わないでください」
「えっ、でも、地元の学校じゃ、四六時中女の子を囲ってたって……」
「…………」
「あわわ、じょ、冗談ですってば!」
 わたしが無言で席を立ちかけたのを見て、あやめさんは慌ててぱたぱたと手を振り出す。
「まったく、名雪さんもあんまりこの人の言うことを真に受けないでくださいね。偶に平気な顔をして、ものすごい嘘を言ったりしますから」
「わたしは一応、相手を選んでるつもりなんですけれど」
「なら、ついでに時と場合も選んでください。あやめさん、あなた、今、仕事中でしょ」
 無駄と分かりつつも、そう言ってこれみよがしに溜息を吐いて見せるわたしに、やっぱりと言うべきか、彼女は笑顔を浮かべるばかりで何も答えない。
「ごゆっくりどうぞ」
 運んできたものを手早くテーブルの上に並べ終えると、あやめさんはそう言って何事もなかったかのように去っていった。
   * * * * *
  Maika Kanonical〜奇跡の翼〜
  第18章 刻が動き出す時……
   * * * * *
「はぁ、何ていうか、個性的な人ですね」
「素直に変な人だって言って良いんですよ。出来れば、本人の前で、はっきりと聞こえるように言ってあげてください」
「あ、いや、さすがにそれはどうかと……」
「あの不良ウェイトレスには良い薬になります。それと、名雪さんは、ちゃんとした形で告白する努力をするように。いつまでも待っているだけだと、他の子に取られちゃいますよ」
 有耶無耶になりかけた話を元に戻して、しっかりと釘を刺すと、わたしは運ばれてきたばかりのコーヒーに口を付ける。ミルクも砂糖も入れず、香りを楽しむために、あえて最初の一口だけはブラックのままで飲むのだ。
「はぁ……」
 カップをソーサーに戻し、シュガーポットへと手を伸ばすわたしを見て、名雪が何とも言えない溜息を漏らす。その目はまるで、別世界の住人を見るようで、わたしは思わず苦笑する。
「前にも言いましたけど、わたしの通っていた学校は、地元では有名なお嬢様学校なんです。放課後、学校のテラスで本物のお嬢様たちとお茶を楽しむのが日常だったんですよ」
 作法などは、周りに合わせるように努力しているうちに、いつの間にか身に付いてしまっていた。人間、必要に迫られれば、大抵のことは出来るようになるものなのだと実感させられた一例である。
「名雪さんもうちに来れば出来るようになりますよ。聖祥には大学もありますし、どうです?」
「いや、どうですって言われても……」
「祐一も地元はわたしと同じ海鳴なんですよ。ご両親の海外赴任も一年程度だと伺ってますし、彼、高校卒業後は海鳴に戻るんじゃないかしら」
 わたしのその言葉に、再び名雪の目の色が変った。初耳だという顔だ。まあ、まだ大分先のことではあるし、祐一自身もそんなに深く考えてはいないだろう。少なくとも、この時期の“俺”はそうだった。
「ま、まあ、まだ先のことですし、本当にそうなるかは分かりませんけど」
「ですよね」
 慌ててそう付け加えるわたしに、名雪は笑いながら頷くと、自分のサンドイッチに手を伸ばす。危ない危ない。危うく薮蛇になるところだった。
「でも、本当にここのコーヒーって美味しいですね」
「でしょ。名雪さんも百貨屋にばかり通ってないで、偶にはこちらにも来てくださいね」
「はい。……って、あれ、舞歌さん。どうして、わたしが百貨屋の常連だって、知ってるんですか?」
 カップを傾ける手を途中で止めて、代わりに不思議そうに首を傾げる名雪。
「祐一が嘆いてましたから。名雪さん、あんまり彼を虐めてはダメですよ」
「あ、あれは、祐一が悪いんですよ。すぐにわたしのこと、からかうから」
「わたしには、その都度奢らせる名雪さんのほうが極悪人に見えますけど」
 くすくすと笑いながらそう言うわたしに、名雪はカップを持ったまま固まる。おっと、いけない。また少し本音が出てしまっていたみたいですね。
「まあ、何にしても、頑張ってくださいね」
 応援してますから。そう言って店の前で名雪と別れると、わたしはその足で商店街へと向かう。ちなみに、店での代金は、全部わたし持ちだ。
 ――良かったの、恋敵に塩を贈ったりして。こっちの舞が知ったら怒るんじゃないの?
 黙々と雪を踏みながら目的地へと向かうわたしに、まいちゃんがそう尋ねる。
 ――仕方ありません。あのまま名雪に燻ったままでいられると、その想いに反応して何が起きるか分からないんですから。
 それに対して、声に出さずに答えるわたしは自分でも驚く程、淡白だ。
 ――不確定要素は出来る限り排除しておきたいってこと? そういうの、らしくないと思う。
 舞が少し悲しそうにそう言った。
 ――別にそれだけじゃないわ。わたしも、皆には幸せになってもらいたいもの。だから、公平に助言するのよ。
 嘘ではないことの証明として、言葉を崩してみせるわたしに、二人は釈然としない様子ながらも、それ以上の追求はしてこなかった。二人とも分かってくれているのだ。
 黄泉路の門に解放の兆候が見られる以上、わたしは暫くは退魔剣士一ノ瀬舞歌として動かなければならない。裏での身分を保証してもらうために、神咲を通して日本退魔協会に籍を置かせてもらっているからには、それは果たさなければならない義務だ。
 幸い、今のところ大きな変化は感じられないし、近日中に神咲の退魔師が派遣されることにもなっているので、わたしが一人で頑張らないといけないことはそう多くはないだろう。いざとなれば、たまももいる。まあ、余程危険なことにでもならない限り、彼女に頼る気はないのだけれど。
 ――閑話休題……。
   * * *
 わたしは、走っていた。
 買い物客で賑わう夕方の商店街を、足を強化せずに出せるぎりぎりの速度で駆け抜ける。向かう先は、今はもうないはずの、あの大きな木のある場所だ。
 あゆの事故を切欠に、切られることが決まった大樹。しかし、何の変哲も無いチェーンソーと一般作業員の組み合わせでは、樹齢数百年を数えたその木を完全に殺すことは出来なかったようだ。
 今、わたしの目には、肉眼でも確認出来る程、強大な霊的波動を放つ大樹の霊が、はっきりと映っていた。
 おそらくは、あれこそがこの町の怪異の中心なのだろう。離れていても感じることの出来る気配の強さからして、その力は神木クラスと推定される。
 ――注連縄でも買ってくれば良かったかしら。
 近づくにつれて、肌で感じられるようになったその圧倒的な存在感に、わたしは思わずそんなことを考えてしまう。もう日も落ちかけているというのに、嫌な汗が全身から噴き出して留まらない。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ。見て、あそこ!」
 そう言って、自分から実体化したまいちゃんが指差した先にあったのは、呆然と立ち尽くす祐一の姿。よりによって、こんな時に何故と思ったけれど、彼の腕に抱えられたものを見て、わたしは何があったのか凡その見当が着いた。
 祐一が持っていたのは、あゆがいつも背負っている羽リュックだった。周囲には他に彼女が身に着けていた衣服も散乱している。それらを目にした時、わたしはついにこの刻が来たのだと悟った。
 その性質上、生霊が自分のことを生霊だと自覚した上で、存在し続けるのは難しい。あゆも分かっていなかったようだし、それに気づいたからこそ消えてしまったのだろう。
 こうなると、病院のベッドで昏睡している本体のほうの様子を確認したいところだけど、その前に、この霊樹を何とかしないといけないようだ。何やら不穏な動きを見せ始めた大樹の霊に、わたしの中で緊張が高まる。
「まいちゃん、あなたは一先ず祐一を連れてこの場から離れなさい。その後、わたしとたまもで、あれを封印します」
「出来るの?」
「やるしかないでしょ。祐一のこと、頼みましたよ」
 厳しい表情でそう言うわたしに、まいちゃんは無言で頷くと、祐一のほうに賭けていった。
「……たまも」
「はい」
「少し無茶をすることになると思いますけど、付き合ってくれますか?」
 呼び掛けに応えて姿を現わしたたまもに、わたしはわたし個人としてそう尋ねる。わたしがどういう人間なのかは契約を結ぶ前に話したし、たまももそれを承知の上でわたしとの関係を望んでくれた。だけど、これが二人での初陣になる以上、最後にもう一度だけ確かめておきたかったのだ。
「あなたも女性なのですね」
 そんなわたしに、たまもは微かに目を細めて微笑む。同性として見ても魅力的なその笑顔は、未だ何処かに男性としての意識が残るわたしには眩しすぎた。
「ごめんなさい……」
「良いのですよ。あなたは女性としての経験に乏しいのでしょう。なら、すべてをその身で感じてください。その怖さも、そして、それ以上の気持ちもすべて。あなたが望まれるのであれば、わたくしはすべてを受け入れましょう」
 そう言って、たまもはわたしを一度強く抱きしめる。それだけで、どうしようもなくざわめいていた心が、嘘のように落ち着いていくのが分かった。
 普通では叶わない、深い結びつきを得ているわたしたちには、お互いの心が手に取るように分かる。それを信じていなかったわけじゃないのだけれど、それでも、理屈ではない何かが、わたしを酷く不安にさせていたのだ。
 たまもの言葉で、それが俗に言う、“乙女心”によるものなのだと気づかされたわたしは、一瞬頭の中が真っ白になったけれど、こうして彼女の腕に抱かれていると、それも悪くないと思えてくるから不思議だった。
「……ありがとう。もう大丈夫だから」
 そう言って自分から離れると、わたしは今も波動を放ち続ける霊樹へと向き直る。視界の隅に、まいちゃんが祐一を引っ張っていくのが見えた。
「彼のことが心配ですか?」
「もう一人の自分ですからね。でも、大丈夫でしょう」
 意味ありげな笑みを浮かべて聞いてくるたまもに、わたしは軽くそう答える。こういう時のために鍛えていたのだし、付け焼刃でも姿の見えない魔物を相手に、それなりに戦える程度の才能はあるのだ。
 寧ろ、危険なのは、これから戦わなければならないわたしたちのほうだった。
 霊的存在が物理的なアプローチを行える理由としては諸説あるけれど、実際にそれらと対峙してきたものの実感としては、純粋な存在の密度によるものだと思われる。そこにあるだけでは全く無害な空気も、圧縮加速することで分厚い鉄板を余裕で打ち抜くのと同じことだ。
 そして、目の前の霊樹は本物の怪物だった。見上げる程の巨体に、霊視の眼を開かなくても見ることの出来るその存在の密度は、正に圧倒的だ。こんなものが暴れた日には、それこそ怪獣映画のような大惨事になりかねない。
 わたしたちに勝算があるとすれば、覚醒して間もない今しかなかった。
「たまも、一気に決めます。合図次第、全力であれを粉砕しなさい」
「仰せのままに」
 頷き合い、二人は同時に霊樹に向かって駆け出す。
 力を錬成して生み出した剣を右手に、左手はコートの下へ。たまもの気配が本来のそれへと変じるのを背後に感じつつ、そこにある手製の呪符を三枚纏めて掴むと、わたしは簡易結界を発動させるための言霊を解放した。
   * * * つづく * * *



前半は名雪にはっぱを掛ける感じで日常的なお話だったけれど。
美姫 「後半はいきなり急展開ね」
遂にあゆが自身の事に気付いたみたいだし、祐一も七年前を思い出したのかも。
美姫 「ああ、一体どうなるの!?」
次回も楽しみにしてます。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



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