『聖りりかる』




第弐章 〜Here comes the rain〜





「……あ…」

 学校の宿題を手早く済ませたなのはが、視線を上げた先の窓にパタパタと付着した水滴に気付く。

「雨だ…」

 その言葉と共に曇天を見上げる。するとその行為に触発されたかの様に、それまでポツリポツリとでしか滴っていなかった天からの雫は勢いを増し、大地を一気に濡らし始めた。瞬く間に水が付くことで黒々しく変色していくアスファルトや庭石を一通り眺め、手元で修復されつつあるレイジングハートを一瞥する。意味もなくクスリと笑うと、大きく背伸びをした。

「……雨、好きなの?」

「…ん……どうだろ…」

 ユーノの問い掛けに曖昧な答えを返したなのはは視線を窓の外に移すと同時に、そう答えた自分自身に驚く。

 自分は、確かに雨が嫌いな筈だった。どことなく憂鬱な気分になるのが好きになれなかったし、何より単純に濡れるのが嫌だった。いつからこうなったのかを考えようと思ったが、耳に入る雨音がそんな思考すらも掻き消して、その水滴の律動に意識を引き摺りこむ。



 今は、この気怠さに浸りたい。



 窓に浮かび始めた気温差と湿度から来る結露を眺めながら、なのはは益体もない事を考えては打ち消した。


 雨というモノは、見る者を憂鬱な気分にさせると共に、その光景を見入らせる不思議な魅力を孕んでいる。


 並んで窓の外を見遣る高町なのはとユーノ・スクライアもまた、その魅力に引き込まれていた。この魅力に気付いた事も精神の成長の証なのだろうか。それとも、単に嗜好が変わっただけなのか。判別がつかなくとも、今こうして雨音を愉しんでいる自分は間違い無く本物なのだ。軽く眼を閉じ、窓越しの音に耳を傾ける。




「お二方」




 ふと、後ろから声が掛かる。その声になのはは眼を開き、ユーノはピクリと肩を竦ませる。余韻に浸りながらゆるりと視線を巡らせた先には、半月盆を抱えたイルカナが立っていた。その盆から紅葉饅頭が盛られた小皿をなのはの前に置き、自らは緑茶を煎れ始める。

「なのはさんは何にしますか?」

「イルカナちゃんと同じヤツがいいな」

「ふふっ、了解しました」

 そう言うと煎れたての緑茶をなのはの前にコトリと置く。淀みない仕種で二杯目を用意する様は、何処か堂に入ったようになのはには見えた。イルカナ、ユーノと共に在りながら、雨音をバックに暫しの休憩を愉しむ。

 以前からは想像もできないような、静かに落ち着いた一時。

 なのはは漠然と、『静謐なのに孤独じゃない』という、そんな一時があると知れたから雨も好きになったのかと思い直していた。



「……そうだ!」



「あっぢゃあぁぁぁ!!」

 突然、弾かれた様になのはが立ち上がる。その際に急須を引っかけ、急須の中身をユーノが頭から引っ被ったのは完全なる余談だろう。そんなユーノなどお構いなしに、なのはがイルカナへと詰め寄る。

「望くん、傘持って行ってないよね!?」

「ええ、確かに持ってませんね」

「今からでも届けに行ってあげた方が良くないかな!」

「そうですねぇ………」

 なのはの提案に、思考を張り巡らせる。ジュエルシードの危険性や不規則性を鑑みても、絶対なる安全を保障し得る場は無い。ならば、持って行かせてもリスクは変わらないのではないかと、そう不穏な事を考えてしまう。



 望やナルカナ達は、言うなればこの家の食客でしかない。



 無論、謝礼を十二分に用意してはいるものの、それらは去り際に渡さなければ断られる事が明白。そうであるならば、今現在の自分達は完全にゲストであり、そんな異邦人の自分が家主の縁者を無下にする事はできない。頭ではそう結論を出しているのだが、イルカナは許可を出せずにいた。

 了承の旨を言葉に載せようとした瞬間、悪寒が背筋をなぞったのだ。イルカナがこの感覚に襲われると事の規模に大きな違いはあれど、それらは須らくロクな結果を生み出しはしなかった。この感覚が喚起された以上、大事を取ることに否はない。

「……望さん達が当たっている事がコトだけに、大事を取っておきましょう。もし、身体を動かしたいと言うのであれば、道場に行きましょうか。お付き合いしますよ?」

普段であれば高速で首を横に振っているのだが、一度動くと決めた以上は雨の陰欝さに辟易していた今のなのはには渡りに船と言える。

「わかった、準備して待ってるねー!」

元気よく扉を開け、部屋から飛び出していく。イルカナは一つ息を吐き、軽く伸びをしながら自分も道場に行こうと一歩を踏み出す。



「イルカナさん」



その歩みを止めさせるのは、ユーノだった。

「少し……お尋ねしたい事があります」

「伺いましょう」

 簡潔に答える事で、場の空気を握りにかかる。本来の情報戦であるならばそれは間違いなく必要な行為だろうが、生憎と相手はその辺りを知らない子供であり、この手法は徒労に終わる。それでもこの手腕が咄嗟に出てくる事に、イルカナは自嘲めいたものを禁じ得なかった。そんなイルカナを知ってか知らずか、ユーノは言葉を慎重に繰り出す。しかしその慎重さは相手の出方を探る物ではなく、己の激情を抑える方に傾いでいる事が容易に見て取れた。

「何故、なのはに訓練を?」

「…力を持つことはさしたる問題ではありません。誤った力を持たせない事を念頭に置けば「そういう意味じゃありません!」」

 のらりくらりと煙に巻こうとするイルカナの言葉を、抑えきれなくなったユーノの怒声が遮る。質問の意味を正しく理解し、それでも尚話題をはぐらかそうとしていたイルカナは内心舌を打ちながら、しかし表情には出さずににこやかさを保っていた。
 そんなイルカナに、とうとう疑問をさらけ出したユーノが後戻りはできないとばかりに糾弾の言葉を投げ掛ける。

「最初の内はなのはに実力を付けさせる為かとも思いました。確かになのはも僕も、そのお蔭で随分と力を伸ばす事ができた!」

 そこに恩義は感じているのだろう、ユーノの声にはこれから問う質問を認めたくないという自己葛藤の色が含まれていた。

「でも! 貴女達はジュエルシードの回収すらも自分達が主導して行っている!!」

「ふむ、続きを」

「たまになのはに任せる事もありましたが、それはあくまでも安全を確保した上での事。多少のイレギュラーを除けば全て望さん達の思惑で動いている」

「正鵠を射てますね。流石に気付かれましたか」

 余裕の表情を崩す気配が無い。その事に更なる疑問と焦りを抱えながらも、ユーノの言葉は止まらない。

「ジュエルシードが欲しければ、自分達だけで集めれば良い。衣食住も、貴女達ならばその気になればどうとでも出来る筈……教えて下さい! わざわざなのはを鍛える事で貴女達が…望さんが得るメリットは何なんですか!?」

 遂に、全てをぶちまけた。後悔もあるが、これをハッキリとさせない事には間違いなく今後に軋轢を生む事は目に見えている。
 緊張で以ってイルカナの返答を待つユーノ。

 もしもこれで自分たちの関係が崩れてしまえば。

 もしもこれで望達が姿を消してしまえば。

 そんな恐怖から歯の根がガチガチと鳴り、そうでなくとも目の前のイルカナからの奇妙な底の知れなさに、得体の知れないプレッシャーを感じている。実際のところはユーノの疑心暗鬼でしかないのだが、それを分析できる余裕など今のユーノにありはしない。イルカナが沈黙を守るこの間も、どれだけの時間が実際に過ぎているのか……もはやそれも分からない。

 やがて、沈黙を保っていたイルカナのその唇が言葉を紡ぐ為に形を変える。

 たったそれだけの僅かな挙動に、自らの全てが持って行かれそうになる。

 発されたのは、たった一言だった。





「戯れ、ですよ」





 ユーノ・スクライアは一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。

「た…?」

「少々語弊はありますが、ね。」

上手く舌を回せないユーノから主導権をやんわりと奪い取り、イルカナはユーノに説明を続けた。

「望さんはとある『トラウマ』を抱えています。当然ながら易々とは癒せるモノではありません。いざという時はその思考を切り離す事ができますが、彼は日常までそのトラウマを切り離せば、緩やかな精神の腐敗に繋がると常々自戒しています」

 軽く扉に体重を預け、ユーノを正面から見据える。

「トラウマへの向き合い方は人それぞれ。たまたま望さんのトラウマへの向き合い方が、今回はなのはさんを鍛える事に繋がった………」

 そこまで言葉を発すると軽く肩を竦め、何でもない事の様に軽い調子で締め括りの言葉を言い放った。

「それだけです」

「んなっ…」

 ユーノが食い下がろうとした瞬間、階下からイルカナを急かすなのはの言葉が聞こえて来る。渋々と矛を収めるユーノに、扉を開きながらイルカナが声を掛けた。

「安心して下さい。なのはさんを大切に思っている事は、紛れも無い事実ですよ」

 そう告げて、ウインクを一つユーノに送る。普段の理知的な様からは想像も付かないような無邪気な笑みに、この上無く似合うウインクひとつ。返答が無い事を了承と受け取ったのか、イルカナは今度こそ道場にいるなのはの元に急いだ。



「……僕も単純なのかなぁ………」



 一人残されたユーノはパタリとその場に倒れ込み、頭の熱を冷ます為に赤くなった頬に手を添えた。



 ユーノ・スクライア。



 先程の緊張を全て吹き飛ばし、それでも尚あまりある感情を彼の中に送り込む。一目惚れの意味を初めて知った瞬間であった。



今回は何でもない日常って感じだな。
美姫 「全体的に雨だから、何となく静かな雰囲気だったわね」
だな。登場人物もイルカナの方だったから余計にな。
美姫 「今回は特に問題も起こってないみたいだしね」
次回はどうなるのかな。
美姫 「次回も待ってますね」
ではでは。



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