其の壱

 

 

香港。すでに0時を回っていたが、街が眠りにつく気配はない。
密集した露店群から吐き出される蒸気や煙、人いきれで辺りの空気は沼のように澱んでいる。
先刻まで饐えた匂いのする雨が降り注いでいたせいか、街全体がどこかブヨブヨした肌触りを持っているようにも感じられる。
そんな空気と人混みをかき分けながら、まだ20代後半の美青年とも呼べる風体の男が優雅な様子で歩いていた。
辺りの人々は、場違いな彼を訝しげな眼で睨み付けたり、あからさまに不快そうな表情で押しのけたりしていたが、男はまったく意に介している様子はない。
こうした状況にはもはや慣れっこになってしまっているのだろう。
油の染み込んだランニングシャツを着た巨漢を押しのけると、青いビニールで即席の幌を作った店内を充血した眼で眺め回した。
男はそこで目的の人物を見つけたようで、不気味な笑みを浮かべながら近付いて行った。

 

薄汚れたテーブルに肘をついて、一人の女性が気怠そうな様子でカップを口に運んでは、箸で皿をかき回している。そこへ、先刻の男が小走りに近付いて来た。

 

「こんにちは、御神美沙斗さんですね」

 

男が笑みを絶やさずに言う。女性、御神美沙斗は彼を上目遣いに一瞥して、面倒臭そうに応じた。

 

「そうだが、私を呼んだのは君か?」

 

「申し遅れましたが、僕は氷室遊といいます、以後お見知りおきを。それで先ほどの質問の答えですね。正確には僕の所属する組織ですが、まあ僕が呼んだと思ってもらってかまいませんよ。ところで、陣内さんも呼んだはずなんですけど、どうしたんですか?」

 

「心配しなくても、隊長も君の話を聞いている。それより、早く用件を述べてくれないか」

 

美沙斗が幾分苛々したような声で答える。

 

「盗聴器ですか、準備のいいことですね。まあ、いいですよ、話を聞いているのであればね」

 

そう言うと、氷室は一息ついた。相変わらず気に入らない笑みを浮かべたままではあるが。

 

「本題に入る前に、僕たちが何と言ってあなたがたを呼んだのか覚えてますか?」

 

「ああ、近いうちに海鳴が大変なことになる、と言ってたな」

 

「まあそういうことです。もうすぐ海鳴市は日本から……事実上消滅します」

 

さすがにこの言葉には美沙斗は氷室に驚愕の視線を向けずにはいられなかった。それでも必死に平静を装いながら、氷室に問う。

 

「それは一体どういうことだ?」

 

「まあそんなにあせらないあせらない。今は……日本時間では午後10時59分か、あと少し待ってもらえれば分かると思うよ」

 

「……分かった、待とう」

 

その美沙斗の言葉に氷室は満足した様子でうなずき、ポケットからラジオを取り出し、電源を入れる。

 

「11時になれば流れると思うよ」

 

そう氷室が言い終わるとほぼ同時にラジオでは11時を知らせる時報が鳴り、そして終わった。

 

『……ここで臨時ニュースをお伝えします。先ほど内閣で臨時の会議が開かれ、国は○県海鳴市を完全封鎖すると発表いたしました。それによりますと、海鳴市で新種のウィルスが発生し、そのウィルスは非常に感染性が高いことが確認され、被害の拡大を防ぐための緊急措置と国は説明しています。またそれに付随して、その新種のウィルスは空気感染はしないことや封鎖期間は未定であることなどが伝え……』

プチッ

 

「もうこんなものでいいかな。どう?分かってくれたかな?」

 

ラジオを切って、氷室は美沙斗のほうへ向き直る。

 

「い、一体どういうことだ!?」

 

「分からないかなあ。これは僕たちがしたことだよ。正直、日本政府を動かすのは苦労したけどね。ホント、実際あのウィルスの効果を披露しなければ動かせなかったよ、きっと」

 

「な!?……貴様らの目的は何だ?なぜこんなことを?」

 

「そうだねえ、まああそこに何人かむかつく奴がいるからかな」

 

「それだけの理由で一般人まで巻き込んだのか!」

 

「そういうことになるかな。まあほとんどの一般人はすでにウィルスに侵されていると思うけどね。それより海鳴に向かわなくていいの?今から急いで出発すれば、明日の午前中に海鳴に着けるんじゃないかな。そのころ一体何人が無事でいられてるかな」

 

楽しんでいるとしか思えない氷室の言葉に、美沙斗は激昂しかけるが、それを必死で抑えながら、更に尋ねる。

 

「最後に一つだけ」

 

「何ですか?」

 

「なぜ私たちにこのことを伝えた?」

 

「何だそんなことですか」

 

その問いを聞き、氷室は一層笑みを深くして続けて言った。

 

「だって、登場人物は多いほうが面白いじゃないですか」

 

「貴様ーーー!!!」

 

その一言についに美沙斗はキレて、氷室に掴みかかろうとする。

が、氷室は異常な速度でそれをかわし、美沙斗が気づいたときにはもう店の出入り口のところにいた。

 

「僕なんかに構ってる暇があるなら、早く海鳴に向かったほうがいいですよ。娘さんたちが心配なんでしょ?それでは美沙斗さん」

 

そう言うと同時に、氷室は美沙斗の視界から消えていった……

 

 

同時刻海鳴・高町家にて

 

「お、おいカメ、一体あいつらは何なんだ……」

 

「う、うちに聞くな、サル……」

 

顔、いや、体の皮膚すべてが、まるで腐乱死体のように爛れ、目は半分飛び出ている。頭髪は半ば抜け落ち、その下に白い頭蓋骨も見えている、そんな化け物たちが高町家をぐるっと囲んだのは、恭也と美由希が夜の鍛錬に出かけた約1時間後だった。

その化け物を初めて見たとき、なのはは気を失ってしまった。レンと晶は辛うじて意識を保ち、二本の足で直立しているものの、先ほどから全身の震えが止まらない。

化け物は今や窓ガラスや玄関のドアを割ろうとしている。このままだとあと数分もしないうちに化け物は家に押し入ってしまうだろう。

 

「晶……」

 

晶の耳にレンのどこか覚悟したような声が響いた。

 

「ん?」

 

「うちが囮になるから、なのちゃん連れて逃げてくれへんか?」

 

「な!?」

 

レンの言葉に晶は震えも止まるほど驚く。

 

「馬鹿言うなよ!こんな数、囮になって一人で相手できるわけないだろ!」

 

「じゃあ、どうせえってゆーんや。お師匠も美由希ちゃんもあと1時間以上経たんと帰って来ーへんで」

 

「それは……だったら俺が囮になる!」

 

「アホか!それこそ無理な話やないか。真面目に考えてみい、うちと晶、どっちが囮になってどっちがなのちゃんを連れて逃げるのが生存確率が高いか。うちやったら大丈夫や、ある程度時間稼いだらうちも逃げるから」

 

「…………わかった」

 

レンが気休め程度に大丈夫だと言っているのだと晶は気づいていたが、何も反論はできなかった。レンの言うとおり、自分には囮になって時間を稼ぐより、なのちゃんを連れて逃げるという単純な肉体労働のほうが向いているだろう。そして何より、認めたくはないが、今高町家にいる中で最強なのはレンである。これが一番生存確率が高い方法なのは間違いない。

 

「レン……死ぬなよ」

 

「縁起でもないこと言わんといてや」

 

晶の言葉と同時にどこかの部屋から窓ガラスが割れる音がする。

 

「ほな行くで。うちが玄関の外の奴を何体か倒して間を空けたるから、うちが合図を出したら、なのちゃん背負って、ダッシュで逃げてな」

 

「おう!」

 

急いで晶は気を失っているなのはを背負い、レンに向き直る。

 

「準備OKだぜ」

 

「ほなちょちょいと行ってくるわ」

 

そう言うが早いか、レンは迷うことなく、玄関のドアを開ける。

 

寸掌!

 

正面にいた2,3体の化け物を一気に吹き飛ばすと、後ろに向かって叫ぶ。

 

「今や!おサル、走れ〜!!!」

 

レンの脇を掠めて、なのはを背負った晶がダッシュで駆け抜けていく。

 

晶は1度も振り返らなかった。

振り返ってしまうと、たぶん、いや確実にレンを助けに戻ってしまい、なのちゃんまで危険にさらしてしまうからだ。

だから晶は前を、前だけを見て走り続けた。

 

道を切り開いてくれた親友のためにも……

 

 


「とらハ・ろわいあ〜る」の方を考えているうちに、つい頭に浮かんだ新作を書いてしまいました。

やっぱシリアスものって難しいなあ。シリアスものが書ける人、尊敬しますw

 

とりあえずこの「NIGHTMARE」についてですが、参考にしたのが「バイオ・ハザード」です。あと、一応主役は恭也ですが、脇役に比べて出番が異常に多いというわけではありません。

 

今回は「とらハ・ろわいあ〜る」と一緒に送りましたが、これからはたぶん週一回どっちかを送るという形になると思います。

では、おそらくまた来週。



バイオ・ハザ〜ド…。
蠢く化け物たち。果たして、海鳴はどうなってしまうのか。
美姫 「何処かほのぼのとした『とらハ・ろわいあ〜る』とはうって変わったようなシリアスなお話」
果たして、恭也たちはこの異常にいつ気付くのか。
美姫 「次回をお待ちしております〜」



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