* * * * *
――6月初旬20:11。
イギリス・CSS学生寮・ゆうひの部屋――。
「あー、知佳ちゃん。うち、ゆうひやけど。うん。実は近々帰れることになったんよ」
珍しく散らかっているその部屋の中でゆうひは携帯電話片手にベッドに腰掛けて話していた。
「今度の週末。そんで、お土産何がええか皆に聞いてほしいんやけど……」
『えー、いいよ。そんな気を遣わなくても』
「遠慮せんでええって。そんなことされたら椎名さん、逆に寂しなって泣いてしまうで」
『でも、大変じゃない?うちは結構人多いし』
「ええと、耕介君に愛さん、真雪さんに知佳ちゃんに薫ちゃんにみなみちゃんに……」
指折り数えていくうちに段々と汗を浮かべるゆうひ。
「あはは、結構おるね」
『でしょ?まあ、どうしてもって言うんなら皆で何か一つってことで』
「え、えっと、そうさせていただきます」
そんなふうにゆうひが知佳と話していると、不意にドアがノックされた。
「あ、そんじゃ、また今度な。うん。お土産楽しみにしといてな」
そう言って電話を切ると、ゆうひはベッドから立ち上がってその人物を部屋へと招き入れる。
やってきたのはフィアッセだった。
湯上りなのか、腰まである金髪が照明を照り返してキラキラと光っている。
「お話中だった?」
ゆうひの手の中にあるものを見て、少し申し訳なさそうにそう尋ねるフィアッセ。
「かまへんよ。今度帰るって伝えただけやから」
「家族?」
「うん。そやな。家族や」
何だか嬉しそうに笑みを浮かべるゆうひに、フィアッセは小さく首を傾げる。
「ところで、あの子は?お風呂、今日も一緒やったんやろ」
自分の隣にフィアッセのためのスペースを作りながらゆうひが尋ねる。
床には少し前に着なくなった冬物の服が大量に散乱しており、ほとんど足の踏み場もない。
忙しさにかまけて衣替えの際の衣装整理をきちんとしていなかったのがいけないのだが。
「アリスなら今はママのとこ。髪乾かしてもらってる」
そう言いながら、フィアッセは空けてもらったゆうひの隣へと腰を下ろした。
「あの子、かわいいから校長に悪戯されてへんか心配や」
「さすがにそれはない、と思うけど……」
不安そうに漏らすゆうひに、フィアッセは苦笑しつつそう答える。
だが、二人は確信していた。
こうして話している今も一人の少女が確実にその魔手に絡み取られつつあることを。
「じゃ、じゃあ、わたしはもう寝るね」
「おう、ほなフィアッセ。お休みな」
そう言って立ち上がるフィアッセに、ゆうひは軽く手を振って答える。
「うん。ゆうひも早く荷物纏めて寝たほうがいいよ。明日は早いんだから」
そう言って部屋を出ていくフィアッセの口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
そして、それをベッドの上から見送っていたゆうひの顔にも……。
* * * * *
トライアングルハート〜天使の羽根の物語〜第1章 始まりの夏
9 歌姫の来日
* * * * *
――6月6日10:22。
桜台・さざなみ寮――。
寮内の朝の仕事を一通り済ませた耕介はリビングでお茶を飲んでいた。
テーブルの上にはお茶請けの煎餅と適当に広げられた料理雑誌。
室内に他に人の姿はなく、土曜の午前中にしては珍しく静かな時間が流れている。
昼食の支度を始めるにはまだ早いし、偶にはのんびりと過ごすのも良いだろう。
そう思って耕介がソファに座ってぼーっとしていると、知佳がリビングに入ってきた。
「脱衣所の掃除用具、お風呂用洗剤の残り少なくなってたよ」
「そっか。じゃあ後で買いに行かないとな。知佳も一緒に行くか?」
「うん」
当然のように聞いてくる彼にそう言って嬉しそうに頷くと、知佳は耕介の隣へと腰を下ろす。
だが、すぐにもじもじと何か言いたそうに見上げてくる彼女に耕介は思わず口元を緩めた。
「おいで」
右手に持っていたコップをテーブルの上に置き、その手でそっと知佳の体を抱き寄せる。
知佳はそこが自分の席だとばかりに彼の膝の上に座ると、幸せ一杯の笑顔を浮かべて耕介に抱きついた。
「えへへ、やっぱここが一番居心地がいいや」
「そっか」
「うん。こうしてると全身でお兄ちゃんを感じられて、すごく安心するんだよ」
そう言って目を閉じると、知佳は幸せそうな表情を浮かべて耕介の胸に頬を摺り寄せてくる。
「大好きだよ。お兄ちゃん……」
「俺も、大好きだ」
抱きしめ合い、見つめ合ってそっと唇を重ねる。
――二人がそういう関係になってから既に1年と数ヶ月。
先日の咲耶の指摘通り、そのことは既に他の寮生全員に知られていた。
その後耕介はすぐに真雪へと報告に行き、ぼこぼこにされながらも彼女から一本取っている。
他にも幾つか騒動はあったものの、全員が何とか落ち着くところに落ち着いていた。
あの日出て行ったはずのティナは寮生全員に押し切られる形で今もさざなみに滞在している。
元より爆弾テロのせいで、異世界から飛ばされてきた彼女には他に行くあてもなかったのだ。
事情を聞いたときは皆驚いていたが、そこはさすがに人外魔境のさざなみ寮である。
住人たちは誰も今更異世界から来たくらいで彼女を拒絶したりはしなかった。
一方、風ヶ丘に転校した咲耶はこちらも特に問題なくクラスに溶け込みつつあるようだった。
ただ、前の学校でもそうだったが、銀髪に碧眼という彼女の容姿はとにかくよく目立つ。
そこに転校生という要素も加わって、咲耶の周囲には連日人が集まるようになっていた。
本人は結構迷惑に思っていて、休み時間ごとに何かと理由を作っては校内を逃げ回っている。
そのせいか同じ悩みを持つさくらとは気が合うようで、よく避難した先で出会っては一緒に溜息を漏らしていた。
「転校生ってここじゃそんなに珍しいものなの?」
内心の呆れを隠すことなく顔と声に出しながら咲耶は隣の席のさくらへと尋ねる。
問われたさくらは読んでいた本を閉じると、少し考えるようにしてからそれに答えた。
「多分、皆期待しているんだと思う。前に事件があって、そのとき転校生が噂になってたから」
面白くなさそうにそう言う彼女に、咲耶も「ああ、なるほど」と頷いた。
学生というのは何かイベントでもない限り暇な人種なのである。
無論、肴にされるほうは堪ったものではないのだが。
今日もそんなことがあって、咲耶は真一郎たち幼馴染トリオと一緒に帰っている。
「でも、咲耶はもうちょっとはっきり言ったほうがいいと思うよ」
教室での出来事を思い出しつつ、隣を歩く小鳥が言う。
「うーん、別に遠慮とかしてるつもりはないんだけどな。ほら、わたしこんな性格だし」
そう言って苦笑する咲耶だったが、内心では別のことを考えていた。
――どくん……。
……感じる。胸の奥にある微かな鼓動。でも、これはわたしのじゃないのよね。
漠然とだが、確かに覚えている。
今はぽっかりと抜け落ちてしまっているそこにいたはずの存在……。
思い出そうとして、叶わないことに愕然としたあの日から既に一年が過ぎようとしていた。
今も彼女の記憶は失われたまま、それでもその何かはこうして時折存在を主張してくる。
その暖かくて心地よい鼓動を感じるたびに、咲耶は申し訳ない気持ちで一杯になるのだった。
……ごめんなさい。わたし、まだあなたのこと思い出してあげられないの。
立ち止まってそっと自分の胸に触れる咲耶に、唯子や小鳥が心配そうに声を掛ける。
それに小さくかぶりを振って何でもないと答えると、咲耶はあえて明るい調子で言った。
「皆お腹空かない?ちょうどお昼時だし、どこか寄っていきましょうよ」
「あ、それ賛成。っていうか、これ以上唯子を空腹のままにしとくと暴れ出しかねんからな」
「ちょっと、真一郎。それ、どういう意味?」
「どういうって、そのまんまの意味だよ。おまえ、この間のお好み焼き屋でのこと忘れたのか」
「うっ、だ、だって、おいしそうだったんだもん」
何か思い当たる節があるのか、唯子は一瞬言葉に窮すと控えめにそう反論した。
フォローのつもりで口を挿んだ真一郎だったが、気づけばいつものやり取りになっている。
それに小鳥が苦笑し、咲耶はどこか遠い目で二人を見ていた。
* * * * *
――6月6日13:24。
海鳴商店街・喫茶緑屋――。
「ダブルシューと紅茶のセット2つ〜!」
「シュークリーム20個、入りまーす!」
「ケーキセット、ドリンクはアイスティーで〜!」
今日も店内には様々な声が飛び交い、店員達がフロアと厨房との間で忙しく動き回っている。
そこには恭也の姿もあり、何やら崩壊寸前の営業スマイルを浮かべて必死に客の応対に当たっていた。
どうやら学校帰りに寄ってそのまま手伝いに借り出されたらしい。
それにしてもすごい客の数である。
フロアには恭也を含めて4人が出ているが、とても人手が足りているようには見えない。
「ごめん、先に席に座ってて」
小鳥たちと昼食を食べに来た咲耶は皆にそう一言断ると、ちょうど一息吐いている恭也へと近づいて声を掛けた。
「こんにちは。大変そうだね」
「咲耶さん。いらしてたんですか?」
声を掛けられて顔を上げた恭也は、少し驚いたように彼女の名を口にした。
「お昼、ここで食べようと思って。でも、これじゃすぐには座れそうにないね」
チラリと入り口のほうに目をやると、そこにはまだ真一郎たちが席が空くのを待っている。
「済みません。せっかく来ていただいたのにお待たせしてしまって」
「いいよ。それよりも大丈夫?わたしでよかったら手伝うけど」
店内の様子を見渡しつつそう申し出る咲耶に、恭也は一瞬きょとんとした顔になる。
「お客さんだからとか、そういう硬いことは言いっこなしだよ。そういうの、寂しくなるから」
「で、ですが……」
機先を制され言葉に詰まる恭也。
いつかのようにからかわれているだけだったなら、彼もそんなに真剣にはならなかったかもしれない。
――寂しくなる……。
そう言ったとき、本当に一瞬だけ彼女がそういう表情をしたのを恭也は見てしまったのだ。
「迷惑、かな……」
更に止めとばかりに上目遣いで見上げてくる咲耶に、恭也は抵抗する術を持たなかった。
「では、こちらにエプロンがありますので、それを着けてフロアに出てもらえますか?」
「うん」
差し出されたエプロンを嬉しそうに受け取ると、咲耶は早速制服の上からそれを着けた。
こうして一人即席のウェイトレスが出来上がったわけだが、中々どうして似合っている。
接客のほうも手慣れたもので、彼女の手際のよさに恭也は思わず呆然としてしまっていた。
「ちょっと、恭也。あれはどういうことなのかしら?」
そう聞かれて恭也が我に返ると、そこには桃子がニヤニヤと笑みを浮かべて立っていた。
「ああ、彼女は人手が足りないのを見て手伝いを申し出てくれたんだ」
「へぇ、それであんたは店長のあたしに相談もなしに承諾したんだ?」
「悪い。一応断ろうとはしたんだが、押し切られてしまった。」
「いいのよ別に。手伝ってもらえるのなら、こっちとしても助かるしね」
そう言うと、桃子は一人前にフロアで立ち回っている咲耶の背中へと目を向ける。
「それにしても手慣れてるわね。いっそのこと、このままうちで働いてもらっちゃおうかしら」
チラリと恭也のほうを見ながらそう言った桃子は、まるで何かを期待しているようだった。
そこには勿論、年頃の息子をからかって楽しみたいという彼女の悪戯心も存分に働いている。
対する恭也は分かっているのかいないのか、平然とした態度でそれに答えた。
「いいんじゃないか。ちょうど咲耶さんもアルバイトを探しているところだそうだしな」
「ふーん。ところで恭也。あんた、最近彼女とよく一緒にいるわよね」
「……何がいいたい?」
「別に。ただ、あんたが女の子と仲良くしてるなんて珍しいから、ちょっと気になっちゃって」
「そんなことはない。この前は偶々、俺がいるときに店に来てくれたから少し話しただけだ」
「それだって十分に珍しいことなんだけどね」
「何か言ったか?」
「別に。それじゃ、母さん仕事に戻るから。彼女のこと、しっかりやんなさいよ」
意味深な笑みを浮かべてそう言うと、桃子は厨房の奥へと戻っていってしまった。
それに少しの間首を傾げていた恭也だったが、すぐに状況を思い出して思考を中断した。
ドアベルが新たな客の来店を告げる。
それに弾かれたように入り口へと走った恭也はそこに懐かしい人物を見つけることになる。
* * * * *
――6月6日13:33。
桜台・さざなみ寮――。
「そう言えば今日だったな。ゆうひが帰ってくるのは」
昼食の後片付けをしていた耕介がポツリと言った。
「夕方ごろにはこっちに着くって言ってたから、それまでに準備しとかないとね」
「さざなみ寮大宴会、もといゆうひおかえり&アルバム発売おめでとうパーティーだな」
耕介が漏らした確実にそうなるであろう宴会という言葉に、苦笑しつつ溜息を漏らす知佳。
「ま、まあ、楽しくやろうじゃないか。ゆうひもきっとそのほうが喜ぶって」
「そうだね。うん。わたしもそう思うよ」
「よしっ、それじゃ早速買い出しに行くとしますか。知佳、付き合ってくれるか」
「もちろん」
満面の笑顔を見合わせると、二人はエプロンを外して出掛ける支度を始めるのだった。
* * * * *
――重ねる……。
心と世界をわたしの中で一つに……。
テレパスというのは一時的に自分と他者との境界を無くし、互いを重ね合わせる行為だ。
ティナクリスフィードは能力者として完全体であるが故に、漠然とした世界という概念との間でそれを行なうことが出来る。
そうしてそこにあるもの一つ一つを感じ、知ることで彼女は探そうとしていた。
――原因はここよりはるか彼方の異界にある……。
死んだと思っていた。
あのとき、白い虚無の中に消える彼女の笑顔をわたしは確かに見たのだ。
自分一人が助かったことに、最初は後悔するばかりでそのことに気づかなかった。
なぜ、自分は助かったのか。何一つ違うところなんてなかったはずだ。
もしもこれが一つの奇跡だというのなら、同じ奇跡の中に彼女もいたかもしれない。
――そんな、希望的観測。
可能性は限りなく少なかったけれど、それでもゼロじゃないならわたしは……。
広げた翼が光を放つ。
より深く、より鮮明に、微かな手掛かりも逃さないようにティナは世界と共感する。
そして、幾ばくかの時間が過ぎたとき。唐突に彼女は自身の体へと舞い戻った。
腰掛けていた寮の屋根を勢いよく蹴って立ち上がると、そのまま階下へと飛び降りる。
「わわっ!?」
ちょうど玄関から出てきた知佳はそれを見て慌てて半歩身を退いた。
「もう、急に飛び降りたりしたら危ないじゃない」
「ごめんなさい。でも、見つけたから」
着地と同時に駆け出したティナに、自分のことを棚に上げて抗議する知佳。
それにそう短く答えると、ティナはスカートが翻るのも構わずに全速力で坂を下っていった。
――麓の通り、車道を挟んで反対側。
ちょうどやってきたバスから吐き出される人の流れの中に…………いた。
――風になびくサラサラの銀髪。
自分と同じ、けれどどこまでも優しく穏やかな青を湛えた瞳……。
バスが去り、人がいなくなった後に残されたのは、瓜二つの姿をした二人の少女だった。
二人の間を一陣の風が吹き抜け、銀髪の少女がそっと静香に言葉を紡ぐ。
「……ただいま、お姉ちゃん」
風に乗って運ばれた少女の言葉。
そして、少しの沈黙の後。ティナは満面の笑顔でそれに答えるのだった。
「おかえりなさい……」
* * * * *
ティナの妹登場!?
美姫 「詳しくは次回ね」
うぅ〜、次回が待ち遠しいとですよ。
美姫 「次回も楽しみに待ってますね〜」
ではでは。