トライアングルハート〜天使の羽根の物語〜
第3章 夏のかけら
5 虚像と実像の狭間で手にしたもの〜走れ、相川真一郎!〜(中編)
*
湖までの道程の半分程を進んだ頃、それは彼等の前に姿を現した。
夜の闇に溶け込むような漆黒の毛皮。低い唸り声はイヌ科の哺乳類のようでもある。
だが、何より特徴的なのはその巨体。体勢を低く構えたその犬は、体長3メートルを超える本物の怪物だったのだ。
「やっぱり出やがったかっ!」
拳を握りながら、忌々しげにそう叫ぶ真一郎。
「相川と耕介さんは先に行ってください。ここはうちが引く受けます!」
「神咲さん!?」
突然の薫の申し出に、驚く真一郎の背中を耕介が押した。
「行こう、真一郎君。薫なら大丈夫だ」
「で、でも」
「耕介さんの言う通りね。この薫、神咲一灯流正当伝承者の名に懸けてこんな奴に遅れは取らんよ」
戸惑う真一郎に、薫は霊剣十六夜を抜きながら不敵な笑みを浮かべてみせる。
「分かりました。お願いします」
頷いて駆け出す真一郎の脇を霊力の奔流が迸り、巨大犬の動きを牽制する。その隙に犬の脇を抜けた耕介と真一郎は、湖を目指して全速力で走った。
「さて、鍛錬の成果を試すにはちょうどよか。悪いけど、一撃で決めさせてもらう」
二人の背中を見送ってから、薫は改めて目の前の巨大犬を見据えた。その額には本来あるはずのない第3の目が、赤く禍々しい眼光を放っている。
「神気八勝……」
薫の身体から霊力が溢れ、霊剣十六夜の刀身へと流れ込む。だが、その密度はこれまでの彼女とは比較にならない程に濃密だった。
ティナから手解きを受けて習得した霊力の圧縮。それによって放たれる楓陣波は既に別の技と呼んで差し支えなかった。
「我流奥義、光刃剣・楓月っ!」
振り下ろされた十六夜から一筋の光刃が飛び、こちらを警戒していた巨大犬の身体を切り裂く。切り裂かれた巨大犬は断末魔を上げることもなく地面に倒れ伏すと、そのまま黒い塵になって消えていった。
あっけない。
そう思った次の瞬間、唐突に背後に出現した殺気に、薫は反射的に横へと転がった。
直後、たった今まで彼女が立っていた場所へと黒い巨体が着地し、重い地響きをあたりに響かせる。
「我流奥義、光刃剣・三日月っ!」
着地した巨体が振り向き、薫が立ち上がって相手の脇腹へと横薙ぎの光刃を放つ。
速かったのは薫のほうで、放たれた三日月状の光刃が魔物の身体を分断し、これを消滅させた。
「薫、気をつけなさい。まだ終わりではありませんよ」
大きく肩で息を吐く薫に、十六夜から声が飛ぶ。
「分かっとるよ」
それに短く答えて、薫は霊剣十六夜の柄を握り直す。そんな彼女の目の前に三匹、新たな魔物が姿を現していた。
*
「うわっ……」
突然視界に飛び込んできた光の眩しさに、真一郎は思わず声を上げた。
「これは、すごいな……」
先に視界が回復したらしい耕介がその光景に思わず感嘆の声を漏らす。
湖へとたどりついた彼等が目にしたもの。それは、湖面を埋め尽くす程の膨大な蛍の群れだった。
「ようこそ、蛍光世界へ」
思わず立ち尽くしてしまっていた二人へと、光の中からそう声が掛けられる。
「誰だっ!?」
それにハッとして真一郎が叫ぶが、声の主はそれには答えず、ただ両手を広げて歓迎の意を示す。
「ここへ来たってことは、君たちはあの雪女の関係者ってことかな」
「雪女って、雪さんのことか」
「名前なんて知らないけど、多分そうじゃないかな。このあたりで雪女っていったら、彼女一人だけらしいからね」
相変わらず両腕を広げたまま、そう言って声の主はゆっくりと二人に近づいてくる。
夏だというのに黒いロングコートを着込み、フードで顔の上半分を隠したその姿は、見るものに一種の不気味さを感じさせた。
「おまえ、雪さんに何をした」
「うーん、強いて言うなら妖気の強制搾取かな」
「なっ!?」
今にも飛び掛りそうな勢いで尋ねる真一郎に、目の前の何物かは飄々とした態度でそう答える。それに絶句する真一郎に代わって、耕介が彼女の所在を尋ねた。
「雪さんは何処だ」
「あそこだよ」
静かな怒気を孕んだ耕介の声に、相手は意外な程あっさりとそう答えると自分の背後を指差した。そこにあった光景を見て、二人は今度こそ完全に言葉を失った。
無数の光点に覆われた湖のほぼ中央、そこに全裸で氷の十字架に縛られた少女の姿があった。
「どう、綺麗でしょう。人間の女の姿をした妖怪には美人が多いって聞くけど、これはもう一個の芸術品だよ。そうは思わないかい。ねぇ、人間」
謳うようにそう言う声に、だが、二人は何も答えない。怒りのあまり、二人とも言葉を発することすら出来なかったのだ。
すぐに無言のまま真一郎が駆け出し、耕介が片手を霊剣御架月の柄へと添える。それを見て、小柄な誰かは口元ににーっと笑みを浮かべた。
「良いね、その怒気。人の怒り程我等にとって美味なものはない。歓迎するよ」
「黙れっ!」
交渉を上げる相手に、怒りのままに殴りかかる真一郎。だが、相手はまるで意に返したふうもなく、踊るような体捌きでひらりとそれを回避してしまう。
「真一郎君、君は雪さんのところへ行くんだ!」
御架月を抜いて切り掛かりながらそう叫ぶ耕介に、真一郎は迷わず湖へと駆け寄っていく。雪の冷気が放出されているせいか、近づくにつれて湖全体が厚い氷に覆われていることが分かった。
「よし、これなら、俺でも雪さんのところまで行けるっ!」
勢い込んで氷の上へと足を踏み出す真一郎。だが、彼は忘れていた。そう、氷の上は滑るのだということを。
「はぁっ!」
短い気合いとともに、小柄な相手へと御架月を振り下ろす耕介。だが、やはり相手は余裕でその斬撃を回避する。
「君も大きな力を持っているね。出し惜しみなんてしてないで、その力をわたしに使ったらどうだい?」
「奪われるかもしれないのにわざわざ使うとでも」
答えながら返す刀で相手の胴を狙う。それを大きく後ろに跳んで避けると、相手はふむ、と一つ頷いた。
「なるほど。なら、引き出させるまで!」
そう言った相手の目がフードの奥で怪しく光る。次の瞬間、御架月を振りぬいた耕介の身体に衝撃が走った。
「なっ!?」
横から何かにぶつかられたようなその衝撃に、耕介は思わずよろめき倒れそうになる。
「耕介様っ!」
「大丈夫だ、これくらいじゃ何ともない。それよりも」
「はい。感じました。ですが、これは……」
体勢を立て直しつつ周囲の気配を探る耕介に、御架月も頷きながら戸惑った声を上げる。
「さすがに一発くらいじゃ倒れないか。でも、大丈夫。弾はまだまだたくさんあるからね」
そう言った相手の周囲には、いつの間にか幾つもの光点が集まってきていた。その一つ一つに得体の知れない力の気配を感じて、耕介は思わず戦慄する。
「気づいたようだね。そう、この蛍たちはみんなわたしの力の集合体。つまり、当たれば今みたいにダメージを受けるってわけさ」
「なるほど。確かにこれは出し惜しみなんてしてる場合じゃないな」
「分かってくれたようだね」
額に浮かんだ汗を拭いながらそう言う耕介に、相手は嬉しそうに笑うと広げていた両手を下ろした。
「じゃあ、そろそろ始めようか。……殺し合いを」
*
その頃、さざなみ寮では全員がリビングに集まっていた。
皆不安なのだろう。特に申し合わせたわけでもないのに、いつの間にかそういうことになっている。
神咲の退魔師が使う破魔札を用いた結界で寮全体を覆っているため、例え魑魅魍魎が襲ってきても簡単に侵入されたりすることはないだろう。
リスティも定期的にサーチを行なっている。
とはいえ、やはり何が起きているか分からないというのは、それだけで人を不安にさせるものだった。
普段はのほほんとしている愛さんですら、何処か落ち着かない様子で時折壁の時計に目をやっては、意味もなく組んだ両手の指先を動かしている。
真雪が5本目のタバコに火を着け、幾らも吸わないうちにその先を灰皿へと押し付ける。
苛立っているのはその顔を見れば一目瞭然だった。
日門草薙流の後継者候補だったといっても、実際に何かが起ってみれば、こうしてただ待っていることしか出来ないというのは、どうにも……。
知佳は愛用のモートPCの画面を見ながら、思考の海に沈んでいた。
今の自分は昔以上に護られるだけの存在だ。力を放棄するということは、こういうときそうなるのだと分かっていたつもりだった。
それでも何も出来ないことが悔しいと感じてしまうのは、彼女の心がまだ完全には割り切れていないからだろうか。
みなみは眠っていた。よほど昼間の勉強会で疲れたのか、こんなときだというのに、ソファに身を沈めて寝こけている。
無論、夕食もいつも通りに一人で何人分も平らげていた。
雪がいなくなったという話を聞かされた後でも減退しなかったその食べっぷりには、全員が奇妙な安堵感を覚えたものだ。
そして、出掛けたものが誰も戻らないまま時計の長針が一周した頃……。
異変が、起きた。
何度目かのサーチを掛けたリスティの眉が片方だけぴくりと跳ね、結界に綻びがないか見回りに行こうと立ち上がった楓の表情が固まる。
「……これはまた、随分と不躾だな」
呟いて顔を顰めたのは恭也だ。隠すことを知らないケモノの殺気は、鋭敏な彼の神経に酷く障ったようだった。
「数はデカいのが1に中くらいのが3、後は小さいのがたくさん。正直、全員で行かなきゃきついよ」
素早く数を確認したリスティがそう言って顔を顰める。
「リスティさんはここでみなさんを護っていてください。外の奴等は俺と楓さんで何とかしますから」
「しゃあないな」
恭也の言葉に楓が軽く肩を竦めて溜息を漏らす。
「でも、楓は大勢相手の戦闘は経験ないんでしょ。恭也も人間相手ならともかく、化け物は専門外だろ」
心配そうにそう言うリスティに、楓は曖昧な笑みを浮かべて頷く。対照的に恭也は特に動じた様子もなく、手持ちの武器を一つ一つ確認していた。
「(恭也君。わたしも行こうか?)」
咲耶が念話で恭也にそう問い掛ける。彼はこの中では唯一、彼女の力を直接見て知っている人物だ。
それに無言で一つ頷くと、恭也はリスティに敵の位置を尋ねた。
「敵は全員裏手の林の中。距離は400ってところかな」
「ありがとうございます」
教えてくれたリスティに一言そう礼を言うと、恭也はリビングを出ていった。楓が慌ててその後を追う。
「ねぇ、リスティ。どうして教えちゃったの?」
咎めるようにそう言う愛に、リスティは苦笑して軽く肩を竦めた。
「二人とも、特に恭也は止めて聞くような奴じゃないからね。大丈夫だよ。見た目じゃ分からないだろうけど、あいつらって結構強いから」
そう言ってリスティは二人が出て行った扉のほうを見る。愛たちの手前、口ではああ言ったものの、実際にはかなり厳しい戦いになるだろう。
「ま、やばくなったらここは知佳に任せて僕も二人の応援に行くし、大丈夫でしょ」
あえて気楽な調子でそう言うと、リスティは腕を組んでソファに座り直した。
*
「おわぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁっ!?」
絶叫を上げながら、氷の上を真一郎がかっ滑っていく。尻餅を着いた格好で大口を開けて叫び続けるその姿は、何とも滑稽で情けない。
彼の後を追って無数の光点が飛来し、着氷しては轟音を立てて氷に穴を穿っていくが、ギャグ補正でも働いているのか本人には掠りもしなかった。
そのまま雪が拘束されている氷の十字架へと突っ込み、その根元をぶち抜いて止まる。倒れた十字架の下敷きにならなかったのは、最早奇跡としか言いようがないだろう。
「どうやら、ここまでのようだね」
耕介が放った楓陣波を数十個の光点を纏めてぶつけることで相殺すると、相手はそう言って戦闘体勢を解いた。真一郎が十字架に突っ込むところを目撃してしまった耕介は、楓陣波を放った体勢のまま唖然とした様子で固まっている。
「さて、これで舞台の第1段階は整った。後は君たち次第ってところかな」
間近で聞こえたその声に、耕介がハッと我に返る。
「どういうことだ」
「焦らなくてもすぐに分かるさ。ただ、一つ忠告するとすれば、自分を見失わないようにすること。そうすれば、きっと君たちなら大丈夫だから」
そう言うと、声の主は耕介の脇を抜けて林の中へと消えていった。
追い掛けるべきか逡巡して、すぐにそれを断念する。
倒れた衝撃で氷が砕けたのか、雪を拘束したままの十字架が周囲の氷ごと湖に沈み始めていた。
助けにいったはずの真一郎は十字架を貫通した際の衝撃で意識を失ったらしく、ぴくりとも動かない。
二人を助けに行こうにもここからでは到底間に合わず、耕介は悔しげに奥歯を噛み締める。せめて、真一郎が意識を取り戻せば……。
「耕介様、あの二人に向かって楓陣波を放ってください。上手くすれば、どちらか一人だけでも助けられるかもしれません」
「そうか、よし!」
御架月の言わんとするところを正確に読み取った耕介は、ありったけの霊力を霊剣御架月に注ぎ込むと湖の中心に向かって楓陣波を放った。
大きく振り被った刀身から膨大な霊力の奔流が放たれ、沈み行く氷塊へと突き進む。
狙いは二人の乗った氷の僅かに手前。そこで霊気を爆発させ、勢いで二人を反対側の岸まで吹き飛ばそうというのだ。
霊力の奔流が湖面と接触し、轟音とともに巨大な水柱を上げる。同時に脱力する身体に鞭打って、耕介は急いで湖の反対側へと向かった。
相手の言っていたことが本当なら、雪は衰弱している可能性が高い。そこへあれほどの霊力技の余波を浴びたとあっては、最早一刻の猶予もないだろう。
だが、息を切らせながら耕介が湖の外周を半周したとき、そこに二人の姿はなかった。
*
あとがき
龍一「囚われのお姫様は十字架とともに湖の底へ」
知佳「助けにいったはずの相川君は諸共って、これじゃ良いとこ無いじゃない」
龍一「これも次回の見せ場を引き立たせるため。氷の上を滑走した真一郎の尻は目も当てられないことになってるだろうけど」
知佳「鬼だね」
龍一「まあ、そのあたりは事件が終わった後で雪さんが手厚く手当てしてくれるはず」
知佳「ところで、アリスはどうなってるの?探しにいったティナも戻ってこないし」
龍一「アリスはあの後スタジオに戻ったところをマネージャーさんとティナに捕まって現在はおしおき中〜」
知佳「な、何故にそんなに嬉しそうなの?」
龍一「さて、次回はいよいよクライマックス。果たして真一郎に活躍の機会はあるのか!?」
知佳「これでなかったら相川君のファンの人たちにどんな目に遇わされるか分からないよ」
龍一「では、次回。トライアングルハート〜天使の羽根の物語〜第3章・6 虚像と実像の狭間で手にしたもの〜走れ、相川真一郎!〜(後編)でお会いしましょう」
知佳「ちゃんとした結末になるのか激しく不安だよ」
*
何気にピンチの連続?
美姫 「真一郎は湖の藻屑…」
こらこら、不吉な。これらの収拾がどういった形でなされるのか。
美姫 「次回がとっても気になる所よね」
ああ、何故にこんないい所で続く?!
美姫 「次回を楽しみにしてますね」
待ってます!