――仕天使ユリエル。
 神族魔族に限らず、世界の裏側を知るものなら一度はその名を耳にしたことがあるだろう。
 いわく、創造主の力を現世に伝える巫女にして、最も神に近いとされる、天使の階級第一位。
白銀の戦乙女。見通す者等、様々な異名で呼ばれる、裏では知らないもののいない有名人。
 そして、これからはこうも呼ばれるのだろう。
 最終戦争の引き金を引きかけた女。反逆者。堕天使。
計画に手を貸した彼女の義姉は第二のルシファーなどと呼んだらしいが、本人にそんな人望があるとは思えないので、それが定着することはないと思いたい。
 何にしても、ユリエル自身が他人からそれらの異名で呼ばれることはないだろう。
 ――何故ならここは既に彼女の知らない世界であり、彼女を知らない世界なのだから……。
「何を人事みたいな顔して、解説してるのかなこの人は」
 良い感じに逃避しかけたわたしの意識を、ミリィの呆れを含んだ声が現実へと引き戻す。
 彼女は今、動けないわたしの身体をタオルで拭いてくれているのだけど、現世では誰かにそんなふうにされたことのないわたしは何というか、その、戸惑ってしまうのだ。
「でも、こうして触れてると、全然普通の女の子だよね。肌はきれいだし、手触りも抜群だけど、とても人間じゃないだなんて思えないよ」
 タオルを置いて、直接肌に触れながらそう言うミリィに、わたしは思わず笑ってしまった。翼を見たって言うから、わたしは自分の正体を包み隠さず全部話したというのに、彼女はまだそんなことを言うのだ。
「この数百年は、ずっと人の輪廻の輪に紛れ込んでいたから。最初は人として生まれて、魂が目覚めるにつれて少しずつ身体のほうもそれに合わせるように変わっていくの」
「へぇ、そうなんだ」
「まあ、ある程度成長すると外見が変わらなくなったり、人間じゃあり得ないくらいの大魔力を運用出来たりするようになるわ」
「永遠の若さと美しさって、女性の夢を体現するわけだ」
「そんなに良い事ばかりでもないわよ。事情を知らない人には気味悪がられたりもするわけだし」
 羨ましそうにわたしの肌を指で突付いてくるミリィに、わたしはそう言って眉を顰める。
「ごめん、痛かった?」
 実際にそういう経験をした時のことを思い出して不愉快になっただけなのだけど、ミリィはそれを傷に触れたのと勘違いしたらしく、慌てて手を引っ込めると誤ってきた。
「大丈夫よ。ちょっと、そういう経験をした時のことを思い出しちゃっただけで、別に傷が痛んだってわけじゃないから」
「そう、なら、良いんだけど」
「だからって、人の素肌に悪戯しても良いってわけでもないんだけど。ほら、そこ、胸を突っ突かない」
「うわっ、ぷるぷる震えちゃってるよ。それに、この指を押し返してくる程好い弾力に柔らかさ……。良いな……」
「ああもう、まじまじと観察しながら感想言わなくて良いから」
 指先で何度も胸を突付きながら羨望の眼差しを向けてくるミリィに、わたしは居心地悪そうに身動ぎして見せる。まあ、女の子同士の軽いじゃれ合いなので、本気で嫌なわけではないのだけど。
「まあ、でも、傷が残らなくて良かったよ。あたし、回復系の呪文はあんまり得意じゃないから、そのあたり結構不安だったんだ」
「そうなの?」
「うん。だから、傷を塞ぐだけで精一杯だったんだと思う。本当はすぐにでも動けるようにしてあげられれば良かったんだけど……」
 申し訳なさそうにそう言うと、タオルを取って身体を拭く作業を再開するミリィ。
 心なしか、その手付きが先ほどより丁寧に感じられる。
 思えば先のちょっかいも表情を曇らせたわたしを気遣ってのものだったのだろう。本当に優しい娘だ。
「はい、おしまい、っと。着替えはあたしのだから、サイズ合わないだろうけど、そこは我慢してね」
 そう言ってYシャツのようなものを渡してくれる。って、これだけなの。
「は、裸ワイシャツ……」
「えっ、何?」
「な、何でもないわ。恥ずかしいから、あまり見ないで」
 わたしは間接に無理をさせないよう、ゆっくりとそれに袖を通すと、上から二番目までを開けてボタンを留めた。
「じゃあ、あたしはもう寝るけど、何かあればすぐに呼んでくれて良いからね」
「ごめんなさい。……いえ、こういう時はありがとうよね」
「分かってるじゃない。あたし、そういう人って好きだよ」
 少女の顔に優しい笑みが広がる。それを見たわたしの心にも暖かなものが灯るのを感じた。
 こんなふうに誰かに心を許したのは何時以来だろうか。
 戦争を始めてからはずっと何処かで張り詰めていたものだから、安堵感も一入だった。
「じゃあ、おやすみ」
 だからだろう。そう言って、不意打ち気味に頬にキスしてきたミリィを、わたしが別段抵抗もなく受け入れることが出来たのは。
「え、あ、わわっ」
 これには逆にミリィのほうが驚いたようで、彼女は慌ててわたしから離れると、逃げるように部屋を出て行ってしまった。
 うふふ、やっぱり可愛いわ。
 そんな少女の背中を見送りながら、わたしは感触の残る頬に触れて小さく笑みをこぼす。
 時折わたしのことをからかっては、楽しそうに笑っていた義姉さんの気持ちが少しだけ分かったような気がする。
 ――兄さんはそんな義姉さんのことを呆れながら見ていたけれど……。
 不意に肌寒さを感じて毛布を引き寄せる。
 魔法仕掛けの品なのだろう。サイドテーブルの上に置かれていたこの部屋唯一の明りであるランプは、わたしが手を伸ばすまでもなく勝手に消えていた。
「…………」
 暗闇と共に部屋に満ちる静寂。
 森の中だけに、耳を澄ませば、遠くに狼らしき獣の遠吠えが聞こえる。
 ――異世界、か……。
 一人になってみて、今更のように込み上げてくる感情があった。
 寂しいなんて感じたのは、一体いつ以来だろうか。
 家族や友人たちとの日々を護るために戦って、敗北したわたしは今度こそ永遠に失ってしまったかもしれないのだ。
 心を占める感情と共に、じわりと湧いてくる実感に寒気を覚え、わたしは頭から毛布を被った。

  堕天使ユリエルの異世界奮闘記
  第2章 異世界の少女ミリィ

 ――翌朝。
 ある程度動けるようになったわたしは、リハビリを兼ねてミリィの家の周囲を探索してみることにした。
 結界魔法のようなものなのだろう。ログハウス調の家を中心に、十メートル四方が清浄な空気に満たされているのが分かる。
 なるほど、これでは邪気の強い魔物は迂闊に近づけないだろうけれど、果たしてこれ程のものを用意する必要があるのだろうか。
 昨日、意識を失う前に感じた魔物の気配を思い出し、次いで知覚領域を広げて結界の外の気配を探ってみるが、やはり、そこまで強い魔性を拾うことは出来なかった。
 寧ろ、このあたりに生息しているのは普通の野生動物に近い、魔性の薄いものたちなのだろう。
 そう、例えば、そこの茂みから興味津々といった様子で、こちらを見つめている小さな君など、本当に魔物なのかと疑ってしまう。
「……出ておいで」
 なるべく警戒させないようにそう声を掛けると、少しの間を置いてガサガサと茂みを揺らす音。
 出て来たのは、ぷるぷるした水色の身体に口と二つの目がついているだけのモンスター、所謂スライムというやつだった。
 わたしはしゃがんでスライム君と目線を合わせると、そっとその頭に手を伸ばす。
 逃げられるか、噛み付かれるかするかと思ったけれど、意外に彼は大人しくわたしの手を受け入れてくれた。
 スライム君の身体は少しひんやりとしていて、指で突付くとぷるぷると震えるのが面白い。
 もしかして、昨夜わたしの胸に悪戯していたミリィもこんな気持ちだったのかしら。
 空いているほうの手を自分の胸に当て、目の前のスライム君と見比べてみる。いや、止めよう。
 顔に熱が集まるのを自覚して慌てて首を横に振ると、邪念を追い出すようにスライム君と戯れることに意識を集中させる。
 そのまましばらく堪能していると、彼は急にびくりと身体を震わせて何処かへ跳ねていってしまった。
 少し調子に乗り過ぎたかと一瞬反省するも、すぐに別の理由に思い至ると、わたしは立ち上がって背後を振り返った。
 そこには面白そうにこちらを見ている少女、ミリィの姿。
 いや、十分くらい前からいたのは気づいていたけれど、気配を消していたので、何かあるのかと様子を伺っていたのだ。
「おはよう、ユリエル。昨夜はよく眠れた?」
「ええ、おかげさまで。それと、服を貸してくれてありがとう」
 何食わぬ顔で挨拶してくるミリィに、こちらもごく普通にそう返すと、わたしは服の裾を摘んで自分の姿を見下ろした。
 今のわたしは、紺色のワンピースにジャケットを羽織った姿。動きやすさを重視してか、若干きつめのスリットのせいで、太股が見え隠れするのが恥ずかしいけれど、借り物なので文句も言えなかった。
 まあ、何故かサイズのほうは余裕があるし、彼女以外に見ている人もいないので大丈夫だろう。
「その服、よく似合ってるよ。サイズのほうも、うん、大丈夫そうだね」
 主に胸のあたりを見てそう言うミリィに、わたしはさっと両腕で胸を庇った。
「ちょっと、視線がいやらしいわよ」
「ええ、そんなことないよ」
「信じられないわ。昨夜は人が動けないのを良いことに、散々弄んでくれたくせに。わたし、もうお嫁に行けないわ」
「じゃあ、あたしが責任を持ってもらってあげる」
「結構よ」
 妖しく手を動かしながら迫ってくるミリィに、わたしはバッと顔を上げると、軽く飛び退って距離を取る。
「あら、残念。ユリエルって美人だし、スタイルも良いから、あたしとしては大歓迎なんだけどな」
「ありがとう。でも、性格は極悪かもしれないわよ」
「そのあたりは、これからじっくり調教……じゃなくて、話し合って、お互いを知っていけば良いと思うよ」
 ミリィは冗談めかしてそう言うけれど、わたしはどうにも身の危険を感じて仕方がなかった。
 もしかして、彼女は同性愛者で、回復するのを待って食べるためにわたしを助けたのではなかろうか。
 にこにこと機嫌良さそうに笑顔を見せる目の前の少女に、わたしはそんな疑惑を抱かずにはいられなかったのだった。

「で、ユリエルはこれからどうするの?」
 ミリィが用意してくれた朝食を二人で食べ、食後のティータイムとなった頃、彼女が唐突にそう聞いてきた。
 それはわたしも考えていた。動けるようになったとは言え、限界を超えて酷使した身体に魔力が戻るにはまだまだ時間が掛かる。
 とはいえ、いつまでも彼女の家にお世話になっているわけにもいかないだろう。
 ここは異世界で、異邦人のわたしには右も左も分からないけれど、魂に蓄積された記憶と経験を駆使すれば、どうにか生きてはいけるはず。
 そう思って、口を開きかけたわたしをミリィが手で制した。
「ああ、大体考えてること分かったから、言わなくても良いよ。ついでに、それ、却下ね」
「なっ!?」
「別にあたしとしては、何日いてもらっても構わないんだ。異世界の人と話せる機会なんて、普通ないから、寧ろ歓迎するよ。だから、さっさと出ていくだなんて、寂しいことは言わないでね」
 何処か必死さを感じさせる笑顔でそう言うミリィに、わたしは反論の言葉を呑み込んだ。
 年頃の娘がこんな森の中に一人で住んでいるのだ。それは寂しくもなるだろう。
 それならば、近隣の村か町にでも移住すれば良さそうなものだけど、きっと、そうすることの出来ない事情が彼女にはある。
「はぁ、あなた、バカでしょ」
「むっ、失礼な。これでも、中級くらいまでなら僧侶と魔法使いの呪文を両方とも使えるんだぞ」
「いや、そっちの基準は分からないけど、わたしが言いたいのはそういうことじゃないの」
 わたしがおそらく自分はこことは違う世界の出身だという話をした時、ミリィはそれを一切疑わなかった。
 それはもう、拍子抜けするくらいにあっさりと信じたのだ。
 もちろんわたしは嘘は言っていないし、そんな必要も感じなかったのだけど、それにしたって、こんな森の中で一人暮らしをしているにしては少々無用心過ぎはしないだろうか。
「あはは、何を言い出すかと思えば、そんなこと。あたしだって、それくらい分かってるって」
「本当かしら」
「これでも人を見る目は確かなつもりだよ。大丈夫、少なくとも、ユリエルはあたしにとって、信じるに足る人だから」
 そう言って、真剣な表情でまっすぐにこちらを見てくるミリィに、わたしは大した時間も経たずに根負けすると、疲れたように溜息を漏らした。
「わかったわ。正直、助かるし、もう少しだけ甘えさせてもらうわね」
「本当、やった。ありがとうユリエル!」
「お礼を言うのはわたしのほうでしょうに。でも、本当に良いの。右も左も分からないから、きっとたくさん迷惑を掛けることになるわよ」
「望むところだよ。毒を喰らわば皿までって言うしね」
「後悔しても知らないから」
 ミリィは屈託のない笑顔でわたしという“悪”に加担すると言う。
 ――本当、参ったわね……。
 全身で喜びを表現しそうな勢いの彼女を見ながら、わたしは内心でもう一度溜息を吐いた。

   * * * 続く * * *



 リメイク版第2章をお届けしました。
 作者です。
 まだ序盤ということで、大きな変化はありませんが、ユリエルとミリィのやり取りを中心に少し変更、加筆しています。
 まあ、初筆から大分経っているので、改訂前のほうを既読の方でも違いに気づかれるかどうか(汗)。
 ともあれ、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。次回もよろしくお願いします。



ユリエルも回復した様子で、今後どうするかという所かな。
美姫 「そうね。ミリィとのやり取りがまだ遠慮がちかもしれないけれど」
そうか? 結構、言っていると思うけれどな。
美姫 「これからどうなっていくのか、よね」
だな。続きも待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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