――ラダトーム王国北西の森
東北東 ロトの洞窟付近‐‐
* * * side 死霊術師 * * *
――森の中を走る、走る、走る……。
枯れ枝を踏み折り、魔物の死骸を蹴り飛ばしながら、縺れる足をただただ動かし続ける。身体は重く、荒く乱れた呼吸に喉が渇いた痛みを訴えるが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
とにかく一刻も早くあの場所から離れなければ、死霊どもを駆逐した本物の死神がこの俺の命を刈り取りにやってきてしまうのだ。
このような恐怖、あの方に連れられて大魔王様に謁見した時以来だ。
たかが人間の小娘一人に何をバカな。そう思ってみたところで、背筋に張り付いた悪寒は消えることはなく、寧ろ一掃粘着力を増しながら絡み付いてくるようだった。
何故こんなことになったのか。足を動かしながらも疲労と焦燥感に鈍る頭で思い出してみる。
与えられたのは簡単な任務のはずだ。
来るべき日に備え、地上のものどもに悟られぬよう密かに戦力を蓄える。素材さえあれば半ば無限にアンデットを作り出せる俺にとって、それこそ朝飯前の仕事だった。
早速拠点を確保し、手持ちのコマで周囲の偵察をさせていた時だ。森の中に場違いなほど強力な結界に守られた家を見つけたのは。
何故こんな森の中にとは思ったが、浄化能力のあるらしい結界はアンデットにとっては天敵だ。こちらの任務の妨げとなるやもしれず、早々に破壊させることにした。
だが、これがいけなかった。
今思えば、地上侵攻のための戦力増強という重要な任務を任されて舞い上がっていたのだろう。結果、確保したばかりの拠点を放棄し、こうして無様に逃げ出すハメになっている。
だが、しょうがないじゃないか。あれは本当にしょうがない。
透き通るような銀の長髪を揺らして現れた侵入者は、まだ成人したばかりと思しき少女だった。震える手に抜き身の剣を携え、吸い込まれそうなディープブルーの瞳は隠しきれない不安に揺れている。
何も知らないものが見れば庇護欲か嗜虐心のどちらかを刺激されそうなひ弱な姿。だが、そんな女なら、そもそも死霊が犇めく洞窟などに足を踏み入れたりするものか。
案の定、手近なガイコツ剣士に襲わせたその少女は凶刃に身体を貫かれても表情を変えることはなかった。
それにこちらが驚愕する暇もあればこそ。少女を中心に広がった閃光と轟音に視覚と聴覚を奪われ、気がつけば一人洞窟の外に投げ出されていた。
敵を挟撃するために唱えていたリレミトの呪文が暴発した結果のようだが、運の良いことだ。生き残ったアンデットの視界を通して見た光景に、俺は心の底からそう思った。
肺を焼く高温多湿の空気が吹き荒れ、鉄より硬い石の弾丸の雨が降り注ぐそこは正にこの世の地獄だった。
侵入者を最深部まで引き込んだところで脱出呪文のリレミトで外に出て、別働隊と共に背後から襲い掛かる算段だったが、あの様子では逆に返す刀でこちらが殲滅されかねない。
その別働隊とも連絡が途絶えて久しく、例え合流出来たところで、いるのがガイコツ剣士系のアンデット十数体では、どんな使い方をしても焼け石に水だ。
一体どれだけ走っただろうか。まるで時間が引き延ばされたような感覚に、そろそろ心が折れそうになってきたその時だった。不意に視界が開け、目の前に一つの影が立ち塞がる。
「ひっ」
引き攣った喉から短く悲鳴のような呼気が漏れる。ついに年貢の納め時かと半ば諦めかけた俺だったが、よくよく見ればその影は味方のものだった。
そうだ。別働隊を預けていた魔狼族のガキだ。安堵すると同時に沸々と怒りが込み上げてくる。
このクソガキ、無事だったんなら何故連絡しやがらない。こっちはありえねぇバケモンから必死こいて逃げ回ってたってのによ。
「無様だね」
「なっ!?」
「仮にも方面軍の幹部クラスなら、せめて一矢報いるか、逃げ帰るにしても冷静に責務を果たしてもらいたいものだよ」
侮蔑しきった態度でそう言って嘆息するガキに、俺は思いつく限り並べ立てるつもりだった罵詈雑言のすべてを凍り付かせて黙ることになった。怒りが振り切れて上手く喋れなかったのだ。
――こ、この、俺はあの方直属の死霊術師だぞ。ぽっと出の犬ころ風情が口を慎め!
怒りに任せて練り上げた魔力で極大火炎呪文のメラゾーマを放つ。鋼鉄だろうと一瞬で蒸発させられる威力だ。
俺の下に付けられるくらいだから多少は実力もあるんだろうが、さすがにこいつを食らってはただじゃ済まないだろう。
だが、信じられないことに、このクソガキは俺の放ったメラゾーマをただの腕の一振りで掻き消してしまった。
「相手との実力差も測れないか。まあ、所詮は間に合わせの幹部だって聞いてるし、しょうがないのかもしれないね」
「くそっ!」
中級爆裂呪文のイオラを目くらましに、その場から逃げ出す。今度は掻き消されることはなかったが、同時に奴の気配が揺らぐこともない。つまりはそういうことだ。
「知らなかったのかい。この世界じゃ、……からは逃げられないそうじゃないか」
そして、耳元に囁かれる言葉。それが、俺が俺として聞いたこの世での最後の言葉となった。
* * * side out * * *
堕天使ユリエルの異世界奮闘記
第11章 表裏
――何処までも広がる闇、闇、闇……。
陽を浴びたものに影が寄り添うように。あるいは逃げる昼を夜が追いかけるように、それは遥か昔に世界が始まった時から変わらずそこにあった。
暗闇にぽつんと浮かぶテーブル。テーブルには白いクロスが掛けられ、その上に載せられたティーセットと共に何時訪れるとも知れない客を待っている。
用意された席は二つ。
わたしがそのうちの一つに手を掛ければ、まるで最初からそこにいたかのように、もう一方に座る先客の姿を見つけることが出来た。
「遅かったね。待ちくたびれちゃったよ」
傾けていたカップを戻しながら眉を顰めてそう言うのは、周囲の闇に溶け込むような漆黒のドレスに身を包んだ黒髪黒目のわたし。そう、わたしだ。
ここは我が魂の最深部。創世神より賜わった神器を納める神殿にして、わたしという存在が始まって以来の記録と記憶の集積場でもある。
故に、何千枚もの心の壁と神器自体が作り出す強固な守護結界に覆われたこの場所には、わたし以外が入り込む余地がない。
わたしの魂から分かれた分霊たちはここのことを知ってはいるけれど、最早別個の人格として確立している彼女たちに、ここまで立ち入る権利はなかった。
では、目の前にいるこのわたしは何なのか。
「そう思うんなら、偶にはあなたのほうから会いに来れば。事前に教えてくれれば、お茶くらいは用意しておくわよ」
対面の席に腰を下ろしながら、言外にそろそろ席を替われと言ってみる。そもそも、そこは本来わたしが座るべき場所なのだ。
蓄積され続ける情報と神器の管理運営を円滑に行うべく、記憶領域に保存された最初の人格。それが何の因果か、今の肉体を運用するはずの主人格と入れ替わって表層に出ている。
それと言うのも、元々内向的な性格だったこのわたしは、ある出来事が切欠でこうして魂の最奥に引き篭もって外に出ようとしなくなってしまったのだった。
「嫌だよ。外はモンスターがたくさんいるんでしょ。それに、わたし媚薬入りのハーブティーなんて飲みたくないもん」
「……見ていたの。いえ、ここはわたしの記憶と記録を残すための場所。それを管理してるあなたが知らないわけがないものね」
即答しながら肩を竦めるわたしに、その時のことを思い出したわたしの頬に熱が集まる。ディーネちゃんに指摘された時の比じゃなかった。
「まあ、あなたの趣味をどうこう言うつもりはないよ。ミリィちゃんだっけ。あの子が良い娘なのは、わたしも同感だしね」
そう言って優雅な仕草で再びカップへと手を伸ばす。上流階級の出身でもないのにやけに様になっているのは、それだけ繰り返しているからなのか。
「ずっと放っておいたことは謝るわ。これからはなるべくこっちにも顔を出すようにするから、出来ればあまりプライベートな記憶は覗かないでもらえるかしら」
「本当だよ。自分で引き篭もっておいてあれだけど、独りは詰まらないし、その、寂しくなることだって、あるんだから」
プライベートじゃない記憶なんてものがあるのかと思いつつも軽く睨みながら頼むわたしに、意外にもわたしは真面目な顔でそう言って聞き返してきた。
その思いを伝えるように闇が蠢き、そろりそろりとわたしの身体を抱くように触れてくる。
――捕まえておきたくて、でも、強く触れると壊れてしまうんじゃないかというような、そんな不安……。
わたしが目覚めるまではほんの少女だったし、その後の経緯を考えれば臆病にならないほうがどうかしているのだろう。
引き篭もりたくなる気持ちも理解出来る。だから、向き合うことを促しながらも、決して強制はしなかった。
久方ぶりのわたしとの邂逅を終えて目を覚ますと、そこはミリィの部屋の彼女のベッドの上だった。
目を開けて最初に見えたのは、見慣れたというにはまだ日が浅く、されど知らないということもない天井……。
ああ、そういえば倒れたのだったか。闇の力まで引き出した絶対氷結は、わたしの想定以上にこの身体に負担を掛けたらしく、危うく神器を暴発させるところだった。
「良かった。目が覚めたんだね」
記憶領域から引き出した倒れる前の状況に、わたしが内心蒼褪めていると、視界の隅でミリィが立ち上がるのが見えた。
「そのセリフ、昨日わたしが言ったわよ」
「茶化さないでよ。もう、急に倒れたりするからすごく心配したんだからね」
半ば怒鳴るようにそう言ってから、そっと両手で包み込むようにわたしの手を取る。ミリィは泣いていた。泣きながら怒っていた。
心のままに感情を爆発させられるのは、子供の特権だ。大人になるといろいろなシガラミのせいで、泣くことすら出来なくなるから。
あるいはそんなものを無視して有りのままの自分を曝け出せるくらいには、彼女はわたしを特別に思ってくれているということか。
「昨日の今日だし、あたしはユリエルみたいに強くないってことも分かってる。だけど、それでも出来ることはあるはずだよ」
だから、もっと頼ってと懇願する。握ったわたしの手を胸元に抱き寄せながら、涙を流して訴えるミリィに、わたしは胸が締め付けられる思いだった。
「ごめんなさい。それと、ありがとう」
ベッドの上に半身を起こし、嗚咽を漏らす彼女の身体を抱きしめる。掛けるべき言葉も他に見つけられないわたしには、ただただそうすることしか出来なかったから。
どれくらいそうしていただろうか。泣き疲れて眠ってしまったミリィに押されるように、わたしももう一度ベッドに横になる。
しかし、またわたしは大切な人を泣かせてしまったのか。何万年分も蓄積された情報の中で何度となく繰り返した覚えがある。
結局、増えていくのは戦うための力ばかりで、本当に大切なところでは何一つ成長出来てはいないのだろう。
救済の使徒が聞いて呆れる。この分では、わたしに天使の資格なんて最初から無かったのかもしれないわね。
つい浮かべてしまった自虐的な笑みを見られないように、胸元に抱き寄せたミリィの耳元を重い溜息が掠めて消える。
そんなわたしの心情を表すかのように、窓から見える空には灰色の雲がどんよりと立ち込め、今にも雨が降りそうだった。
* * *
翌朝、魔力の使いすぎから来る筋肉痛にベッドの上で四苦八苦していたわたしのところに、ミリィが冒険者手帳を片手に駆け込んできた。
「ねぇ、ユリエル。ちょっと、これ見てよ」
先に起きて朝ご飯の支度をしてくれていたらしく、部屋着の上にエプロンを着けた彼女は、そう言って何事かと目を瞬かせるわたしに開いたままの状態で持っていたそれを差し出す。
魔法式の通信端末だったかしら。この世界のギルドである冒険者協会が登録冒険者に対して発行・支給していて、身分証の役割も果たしているとか。
大きさは手帳としては一般的なB5版。見開きの右側がキーボードで、左側一杯を使ったクリスタルパネルに情報が表示されるようになっている。
ミリィが見せたいのは、そのクリスタルパネルに表示されているもののようだった。
写真と、縦書きと横書きが入り混じった文字らしきものの羅列。雰囲気からしてどうやらこの世界の新聞のようだけど、あら、この写真、何処かで……。
「ごめん、ユリエルはこっちの文字読めないよね」
じっと画面を見つめるわたしに、ミリィがバツが悪そうにそう言って頭を掻く。どうも、慌てていたせいか、わたしが異世界人であることを失念していたようだ。
「大丈夫。解析魔法を使えばこれくらい……。うん、いけそうね。この際だから、こっちの文字体系も登録しておきましょうか」
恋人の見せてくれた新しい一面を可愛く思いながら、網膜の表面に魔法のフィルターを展開して記事の翻訳を開始する。まあ、体系化された文字の法則なんてそう幾つもあるものじゃないので、作業自体は数秒と経たずに終わってしまったのだけど。
「解析魔法の一種ね。大きく言語体系の違う種族は軒並み滅んでしまったから、今じゃ古い文献を読み解くか、遺跡の調査くらいでしか使われていないけれど」
興味津々といった様子で見てくるミリィにそう答えつつ、わたしは改めて彼女が見せに来た記事へと目を通す。さて、何が書かれているのやら。
――伝説の遺産に強盗、警備兵一名死亡!?
見出しに踊るその一文に、わたしは思わず眉を顰めた。
記事を読み進めていくうちに、何故ミリィが慌てていたのかが分かった。
書かれていたのはロトの洞窟を警備していたラダトーム王国軍の兵士一人が何者かの襲撃を受けて殺害された事件のことで、共に警備に当たっていたもう一人が命辛々近隣の警備隊支部に駆け込んだことから事が発覚したとのことだった。
不可解なのはここからで、報告を受けた警備隊支部では直ちに部隊が派遣されたものの、現場からは一切の痕跡を見つけることが出来なかったというのだ。
昨日わたしたちが洞窟を訪れた時には入り口に殺害された兵士と思しき死体があったし、中ではあれだけ派手に暴れもしたのだ。にも関わらず、何も残っていなかったということは、誰かが隠蔽したとしか考えられなかった。
「昨日はあたしたちもあの後すぐに引き上げたからほとんど何も回収出来てないんだ。それをたった一晩で根こそぎ持ち出すなんて、よっぽど大きな集団でもなきゃ無理だよ」
「大方、逃げた死霊術師が新しく手勢を召喚して戻って来たんでしょう。あれだけの惨状を放置して治安機構にでも知られれば、目を付けられて動き辛くなるだろうから」
「それだ!」
わたしの口にしたその可能性に何か閃くものでもあったのか、悔しそうに唇を噛んで俯いていたミリィがバッと顔を上げた。そのままの勢いでわたしの手から手帳を引ったくると、何やら凄い速さでキーボードを叩き出す。
「昼に仕掛けてきた時にもそれっぽい奴がいたんだ。特徴あったから良く覚えてるよ」
「それで、ミリィはどうするつもりなのかしら」
「協会のネットワークを使って手配してもらうんだ。人間なら殺人犯だから捕まえて国に突き出せば報奨金もらえるし、魔物だった場合も危険指定されるだろうから、倒せばそれなりの額が協会から出るようになるはずだよ」
言いながらキーを叩くミリィの表情には、転んでもただでは起きないという気概が見て取れる。
なるほど、法制度が発達し、ネットワーク整備の行き届いた時代であれば、直接殴りに行くよりも却ってこういう報復のほうが有効だろう。
合法だし、運が良ければお金だって手に入る。というか、幾ら頭に血が上っていたとはいえ、最初にこういう手段を考えなかったわたしはかなり拙いのではないだろうか。
やられたらやり返すという発想自体も野蛮で、知性ある存在としては大いに問題なのだけど、自衛のためともなれば止むを得ないこともある。
問題なのはその手段で、こちらとしては安全を脅かす脅威を取り除ければ良いのだから、わざわざ相手の土俵に上がって罪を犯すこともない。
それでこちらの社会的立場まで悪くなろうものなら本末転倒も良いところだ。
過剰防衛とか、そんな罪状で法廷に立たされている自分たちの姿を想像して蒼くなっていると、どうやら情報を送信し終えたらしい彼女が手帳を閉じてこちらに顔を向けてきた。
「とりあえず、後でもう一度洞窟のほうにも行ってみる? 軍の捜査が始まっちゃってるから中には入れないだろうけど、話を聞くくらいなら出来ると思うし」
「止めておきましょう。余計な詮索をされても困るし、それに、……いえ、何でもないわ」
軽く頭を振って浮かんだ考えを打ち消すと、途中だった着替えを再開する。ミリィが乱入してきたせいで、半裸といって良い状態で止まっていたのだ。
「わわっ、ユリエルってば、何て格好してるの!?」
「人が着替えてるところに乱入してきておいて、今更何を言ってるのよ。ほら、脱ぐから」
「あ、うん」
出ていきなさいと言おうとして、じっとこちらを見てくるミリィの視線に思わず言葉を止めてしまう。えっ、こういう時、普通は視線を逸らすか出て行くかするものじゃないの。
いやまあ、既にお互いの身体で知らないところなんてない間柄ではあるのだけれど、着替えを見られるのは何というか、それとはまた違った恥ずかしさを感じてしまうもので、……。ああもう、しょうがないわね。
頬に熱が集まるのを感じつつ、結局は最後まで見せてしまうわたしだった。
* * * 続く * * *
一つの事件が終わり、日常へと戻った感のある第11章でした。
作者です。
日常に戻ったという割には、冒頭から思わせぶりな展開だったり、ユリエルに中の人がいたりといろいろあれですが(汗)。
とりあえず、これからはユリエルの目的である彼女の帰還方法を探す方向で物語を展開していくつもりです。
では、今回もお読みいただき、ありがとうございました。次回もよろしくお願いします。
うーん、冒頭の少年は一体何者?
美姫 「気になる存在よね」
だよな。しかも、ユリエルの中に更に別人格とか。
美姫 「日常に戻る合間にかなり気になる情報が出てきたわね」
ああ、これからどうなっていくんだろう。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。