――ラダトーム王国・北西の森
   南東部

  * * * side ミリィ * * *

 速さは武器だ。
 戦うにしても逃げるにしても、自分が相手よりも速ければ速いほど有利になる。
 例えばトロルのようなパワー自慢だけど鈍重な魔物から不意打ちを食らった場合。
 素早く動ければ、相手が攻撃モーションに入った後からそれに気づいたとしても避けられることもある。
 上手くすれば、そのまま相手の横か後ろを取って反撃だって出来るだろう。
 相手は自分ののろさを自覚していて一撃で仕留めようとしてくるから、自然とその攻撃は大振りになる。
 当然、そんなのを空振りすれば、大きく体勢を崩すわけで……。
「つまり、こうなるわけだ」
 目の前で倒れ伏す魔人の背中を見下ろしながら、あたしは離れた木の陰からこっちを見ているエリスに向かってそう言った。
 その顔は蒼く、まるで快速馬車に初めて乗った人みたいだ。まあ、何度か空気の壁を突き破っちゃったし、無理もないかな。
 思考の高速展開が出来るって言っても、周りの動きがそれについて来るなんてことはそうそう体験出来るものじゃないから。
 ほら、思考が加速してる時に周りの動きが遅く感じたり見えたりすることってあるじゃない。
 でも、その状態で周りも同じように動いていたら、それは普段の思考速度の時と変わらないよね。
 そういう状況で、普段通りに考えられるようになれば、加速した思考を暴走させちゃうことも少なくなるんじゃないかな。
 だから、まずは速さに慣れてもらうために彼女を負ぶって森の中を全力疾走してみることにしたんだ。無茶が過ぎるって。
 そんなことは百も承知だよ。あたしだって、これと同じ方法で今の領域に達するまでに何度も死にそうになったんだから。
 でも、一ヵ月後の試験当日までにそれなりの形にしたいのなら、これくらいはやらないと。幸い、下地は十分に出来てる。
 そう、どうしてか、エリスの身体は華奢な外見からは信じられないくらいに頑丈というか、物理的な衝撃に強かったんだ。
 おかげで音の壁にぶつかっても潰れることはなかったんだけど、それだけで踏み入れる程、超速の世界は甘くはないんだ。
 世界がひっくり返るっていうか、内臓全部纏めてシェイクされる気持ち悪さは一朝一夕でどうにか出来るものじゃないよ。
 なまじ気絶出来なかったせいで、あれを最初から味わうハメになっちゃって、それでも、その、最悪の事態だけは避けて見せたんだから大したものだと思う。うん、本当に。
 超速領域から抜け出して、適当な木陰にエリスを下ろして休ませる。ベホイミ二回に、リラックス効果のある特製ブレンドのハーブの香りも渡して、あたし自身も軽く一服。
 そうして休憩している時だった。鈍重な足音を響かせながら近づいてくる魔物の気配に、あたしとエリスは思わず顔を見合わせた。一瞬、また熊でも出たかなと思ったんだ。
 だけど、麗らかな陽気に誘われたにしては、その気配はあまりに殺伐とし過ぎていた。まるで隠す気のない殺気に、流れてくる空気にも血臭が混じったような錯覚を覚える。
 そんな嫌な空気を引き連れて現れたのは、三メートルを越える巨体の魔人だった。丸太みたいな巨腕に発達した筋肉を盛り上がらせ、大きな棍棒を振り回す力自慢の怪物だ。
 トロル。大魔王が討伐されると同時にほとんどが魔界に引き上げて、今じゃ隣国の労働者層に少数見られるだけになったはずの魔物がどうしてこんな森の中にいるんだろう。
 不思議に思ったのも瞬き半分程の間。明らかにこっちを狙って来ているそのトロルに、あたしは嘆息すると腰の両側に下げたダガーを抜いてもう一度超速領域に踏み込んだ。
 仮に相手が隣の国の民だろうと、問答無用で襲ってきたのならそれを撃退するのは正当防衛だ。ちょうど良いから、エリスに実際に速さの有用性を見てもらうことにしよう。
 ――そして、話は冒頭へと戻る。
 両手で握った棍棒を振り上げながら、猛然と突っ込んでくるトロル。巨体の割には大した速力だけど、超速領域に入ったあたしの目には止まって見えた。
 ぎりぎりまで引き付けて、相手が棍棒を振り下ろすのに合わせて後ろに回り込む。奴の目には置き去りにしてきたあたしの残像が映っていることだろう。
 さて、殺すのは簡単だけど、そうするとこいつがドラファルナ帝国の民だった場合に国際問題になりかねない。あたしは一応、ラダトーム国籍だからね。
 幸いと言っちゃ、彼らに悪いけど、帝国籍のトロルは全員が下級市民の労働者層で、腕に市民ナンバーの刺青が彫られているはずだから、見れば分かる。
 まずは、五、六回ダガーの峰で首筋を叩いて意識を刈り取る。トロルはタフだから、十分に速度が乗った打撃でもこれくらいやらないと気絶しないんだ。
 これも超速度の成せる業。速さを力に変換出来るからこそ、純粋な腕力じゃ比べるべくもないあたしが、怪力自慢の怪物の生殺与奪の権利を握れるんだ。
 巨体に見合った轟音を立てて地に倒れ伏すトロル。敵が完全に意識を失ったのを確かめてから振り返ると、エリスは無言で首を横に振った。
 いやまあ、時間にして瞬き一回分もなかったんだ。今日初めてその領域を体感したばかりの彼女に目で追えって言うのも無理な相談だよね。
 苦笑して頭を掻こうとして、その体勢からまた加速。そうしてエリスの背後に迫った影をダガーで貫いた。けど、手ごたえがない。外した!?
 驚く暇もあればこそ。背筋に走った悪寒に、とっさにエリスを抱えて飛び退く。直後、それまであたしたちがいた場所を死の気配が貫いた。
 ――呪殺呪文!?
 声に出さずに驚くあたしの目の前でゆらりと立ち昇る黒い影。シャドー属と呼ばれるその魔物の手元には、まるで死そのものを凝縮したような、不吉な気配が漂っていた。
 その正体は、対象を高確率で死に至らしめるザキ系呪文。単発での致死率七十五パーセントっていうふざけたその呪文が今正にあたしたちに向けて放たれようとしていた。
 シャドー属の代名詞とも言われる死の呪文。基本的に遭遇したら使われる前に瞬殺しちゃうから、最近じゃめっきり見ることもなくなってたけど、これが中々おっかない。
 誰だって死ぬのは怖いからね。どんなに場数を踏んだ冒険者でも、自分は死ぬんだって感じたらその瞬間は硬直しちゃうものだよ。ザキはその恐怖の目に見える形の一つ。
 だけど、本能に強く訴えてくるっていうのは、それだけ存在を掴みやすいってことでもあるんだ。だから、ある程度勘の働く人なら不意打ちされても避けられる事もある。
 そもそも、シャドー属は魔封じに弱いから、その手段さえ持ってれば怖くも何ともないんだよ。寧ろ、問題なのはこんなに近づかれるまで気づけなかったってことのほう。
 影の気配自体掴み難い上に、トロルの殺気を隠れ蓑にしてたんじゃ仕方ないかもしれないけど、こっちだって鍛錬中で意識は戦闘モードだったんだ。言い訳にならないよ。
 連続して放たれる致死の塊を危なげなく避けては、詠唱のいらない初級呪文を撃ち返し、あるいはスローイングナイフを投げて影を構成している何かを削り落としていく。
 ザキは確かに怖いけど、詠唱から発動まで少しのタイムラグがある上、直進しかしないのに離れたところから撃って来るから、エリスを抱えたままでも余裕で避けられる。
 こっちも片手が塞がっちゃってるせいで手数が半減して思うように攻められないんだけど、今回はそれでも問題ない。だって、あたしたちには頼れる仲間がいるんだから。
 エリスの唱えたマホトーンの呪文が影魔の呪詛を縛り付け、仰け反ったところに四方八方から様々な色の魔力弾が降り注ぐ。ユリエルの分霊四人による全方位攻撃だった。
 一発一発の威力は小さくても、絶え間なく撃ち込まれる攻撃は影魔をその場に縫い止めて逃がさない。ザキの呪文も上手く封じられたみたいだし、こいつはこれで詰みだ。
 そして、高められ、集束されたユリエルの聖波動が一条の光となって宙を翔る。それは狙い過たず影魔へと迫り、そして……。

  * * * side out * * *

  堕天使ユリエルの異世界奮闘記
  第18章 ふたりの時間

 戦いに於いて最も注意しなければならないのは、勝利を確信した瞬間だという。そこに生まれる無意識の油断という名の隙はどれ程の熟練者であっても完全に無くすことは出来ないからだ。
 逆に追い詰められたものはどんな小さな隙も見逃さずに食らいついてくる。敗北を悟って尚一矢報わんとする執念は凄まじいものがあり、逆転されないまでも思わぬ痛手を被ることになる。
 そのことを失念していたわたしたちは、影の魔物が反撃に吐き出してきた猛烈な吹雪を浴びて雪塗れになってしまったのだった。
「くしゅん。……うう、まさか、あのタイミングで吹雪を吐かれるなんて思わなかったよ……」
 震える身体を両手で抱きしめながらそう言うミリィに、反撃を許す直接の原因となったディーネちゃんが申し訳なさそうに縮こまる。彼女が攻撃するタイミングを誤ったために、一瞬だけど弾幕が途切れてしまったのだ。
「済みません。わたくしがタイミングを誤ったばかりに……」
「別にディーネを責めてるわけじゃないよ。助けてもらったし、それに、これはこれで、中々……」
 そう言って周囲を見渡したミリィの表情がにへらとだらしなく緩む。やらしいことを考えてる顔。
 致死性の雪を浴びたわたしたちは、とりあえず着ていたものをすべて脱がなければならなかった。
 わたしの使う浄化の魔法は水属性のため、そのままでは余計に身体を冷やしてしまうことになる。
 そんなわけで、我が家のリビングでは現在進行形で肌色の多い光景が繰り広げられている。目福。
「……はい、エリス。朝のスープ、温め、直したから」
「ありがとうございます……」
 ソファでは毛布に包まったエリスが、一人留守番をしていて無事だったアルちゃんから差し出されたマグカップを受け取っていた。
 両手で受け取ったマグカップを包むようにして嘆息する彼女。心なしか蒼白だったその表情にも僅かに赤みが差したように見える。
 そんなエリスの様子に、誰知らず安堵の息が漏れる。吹雪を浴びた当初は唇の色が悪く、意識ももうろうとしていた様だったから。
『マスター、お風呂沸いたわよ』
「ありがとう。今日の入浴剤は?」
『マイラの名湯百選から身体の芯から暖まれそうなのをチョイスしたわ』
「分かったわ。すぐに行くから、先に入ってて良いわよ」
『了解』
 お風呂の準備をしてくれていたリータちゃんからの思念通話に応じると、わたしは着替え一式を手に腰掛けていたソファから立ち上がった。
「お風呂沸いたの?」
「ええ、今リータちゃんが知らせてくれたわ。エリス……は、まだしばらく安静にしていたほうが良さそうね」
「うう、済みません。わたしのことは構いませんので、どうぞ温まってきてください」
「わたし、見てるから。心配、いらない」
「そうね、じゃあお言葉に甘えちゃいましょうか。ミリィ、ディーネちゃん、シルフちゃん、ノームお姉さん、行きましょう」
 皆に声を掛けて脱衣所へと向かう。エリスやアルちゃんには申し訳ないけれど、今は一刻も早く身体を暖めたかった。
「ふんふふーん、ユリエルとお風呂♪」
「言っておくけど、今日は一緒に入るだけよ。リータちゃんたちもいるんだから」
「わかってるって」
 すぐ後に着いてきたミリィは、鼻歌混じりに上機嫌でそんなことを言う。そういえば、一緒に入ったことはまだなかったのよね。
 情事の後は大抵リフレシュアミストで洗浄してそのまま寝てしまうし、朝はわたしのほうが早いから一緒に入る機会もなかった。
 エリスが来てからは二人きりになるのも難しかったし、鬱憤が溜まっているんじゃないかと思って一応釘を刺してみたのだけど。
 身体に巻いていたバスタオルを取って引き戸を開けると、白く立ち込める湯気の向こうにおかしなものが見えた。
 何というか、宙に浮かぶ斜めに傾いた桶に、妖精姿のリータちゃんがくっついている。
 いや、掛け湯をしようとして桶を持ち上げたところなんだろうけど、今はミニサイズなものだからそれだけで一杯一杯になってしまったのだろう。
 しかし、この状況、何となく後の展開が見えた。
 桶の重さによろけたリータちゃんと目が合う。
 その手から離れた桶が弧を描きながらこちらに向かって飛んで来て……。
「一番、シルフ。行きまーす……って、うにゃぁぁ!?」
 いきなり湯船にダイブしようとして勢いよくお風呂場に飛び込んだシルフちゃんと激突した。
 見事なクリーンヒットに、べちゃり、という嫌な音を立てて壁にへばり付く妖精姿の風分霊。
 桶が床に落ちた音でハッとしたリータちゃんが慌てて駆け寄るも、彼女は完全に目を回して気絶してしまっていた。
「な、何をしてくれちゃってやがりますかあなたはっ!?」
 ぐったりとして動かないシルフちゃんを抱えておろおろするリータちゃんに、ディーネちゃんがもの凄い剣幕で詰め寄る。
「わ、わざとじゃないのよ。つい手元が狂っちゃって。ど、どどうしたら良いのよ」
 詰め寄られたリータちゃんはたじたじになりながらそう反論するけれど、さすがに事故とはいえ、自分のやらかしたことを思うと強気には出られないようだった。
「――金盥じゃなかっただけ良かったと思うべきかしら……」
 一気に騒がしくなったお風呂場に、ノームお姉さんの漏らしたそんな呟きがやけにはっきりと響いた。

「――で、結局、二人きりで入ることになるわけね」
 ポツリと漏らしたわたしの呟きに、ミリィが困ったようにあいまいな笑みを浮かべる。嬉しいのだろうけど、あからさまに喜ぶのも不謹慎だと思って自重したようだ。
 シルフちゃんを回復させるために戻し、それに付き添う形でリータちゃんとディーネちゃんも戻る。そうなると、皆のノームお姉さんが一人だけ残ることもなく……。
「とりあえず、お風呂入ろっか。これ以上、身体を冷やすのもまずいしさ」
 ミリィの勧めに是非もなく、わたしたちは手早く掛け湯をすると並んで浴槽に浸かった。
 熱めのお湯が身に沁みる。
 全身の疲れが溶け出すような心地良さに、思わず身体を弛緩させて吐息する。お風呂は命の洗濯だと言う人がいるけれど、確かにこれ程良いものもそうはないだろう。
 わたしもお風呂は大好きだ。
 温泉大国日本に生まれることが出来た現世に感謝し、次元を超えた異世界にも入浴の文化があると知った時には心の底から安堵するくらいには、この風習を愛していた。
「ふぅ、良いお湯ね」
「うん、身体の芯から暖まるっていうか」
「これでもう少し広ければ、言うことはないんだけど。……暇な時にでも拡張しちゃっても良いかしら」
 元々一人暮らしのミリィの家のバスタブだ。広さも一般的な家庭のそれで、二人で一緒に入るには少々手狭だった。
「あたしはこれくらいのほうが良いかな。ほら、こうやってちょっと動いただけで触れ合えるから」
 そう言って身体を寄せてくるミリィの肩を抱き寄せ、胸元に抱え込む。そのまま身体の向きを変えると、わたしは空いたスペースに足を投げ出した。
「……今日はしないんじゃなかったの?」
 遮るものもなく触れ合う肌の感触に、お湯に浮かぶ胸の谷間からこちらを見上げてくるミリィの顔に期待の色が浮かぶ。
「ええ。でも、これくらいなら良いでしょ。わたしもミリィ分が不足しているんだもの」
「何かダイエット出来ない女の子みたいなこと言ってるね。ていうか、あたし分って何?」
「良いから。あなたは大人しくわたしに抱かれてなさい」
 少し呆れたような顔でそう言うミリィに、わたしは構わず抱きしめる腕に力を込めると彼女の感触を堪能した。
 ダイエット出来ないとか、体重じゃないけれど少し身に覚えがあるのをごまかす意味もあったかもしれないわ。
 本当にただのスキンシップ。エッチほど激しくなくて、でも、わたしにはあなたが必要なのって伝えたかった。
 訳もなく、そんな気持ちになることってあるわよね。
 わたしに抱きすくめられたミリィは、しょうがないなとでも言いたげに軽く身動ぎすると、黙って身体を委ねてくれた。
「ごめんなさい。変に期待させちゃって」
「別に。ただ、その分は次に上乗せしてくれるんだよね」
「もちろん」
「なら、良いよ。それに、偶にはこういうのも悪くないしね……」
 そう言って目を閉じると、ミリィは完全に身体から力を抜いた。
 ――密着した肌を通して伝わる鼓動……。
 穏やかに脈打つそれは、彼女が安らぎを得ている証拠だった。
 このまま眠ってしまったら、きっと良い夢が見られることだろう。
 そんな、確信めいた予感に誘惑されながら、わたしたちは暫し至福の時を過ごしたのだった。

  * * * 続く * * *



ミリィの最大の武器は速さか。
美姫 「それを上手くいかした戦法をエリスへと叩き込むって感じね」
だな。まあ、そう簡単に身に付くものではないだろうけれどな。
美姫 「それでも出来る事をしておかないとね」
試験の為にもな。試験は一ヶ月後らしいから、それまでにどれだけ成長できるのか期待だな。
美姫 「そうね。どうなるのか、次回も待っていますね」
待っています。



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