* * * *

「へぇ、名雪さんは陸上部なんですか」

 食後のお茶を楽しみながら、わたしは感心したようにそう言った。

「うん、部長さんなんだよ」

 名雪が自慢げにそう言う。うん、知っている。だから、感心したようにしているだけ。神奈義母さんや真雪姉さんに女性らしい振る舞いを叩き込まれたおかげですっかり演技が上手くなってしまったから、たぶんこの二人には分からないでしょうけれど。

「騙されちゃダメですよ。こいつ、見た目通りとろいから、きっと陸上部っていうのも自称で、他の部員は亀や蝸牛に違いないんです」

「酷いよ、祐一」

「そうですよ。人は見かけに寄らないと言いますし、もしかしたら名雪さんが陸上部で部長になれるくらい足が速いってこともあるかもしれないじゃないですか」

「そうそう。って、舞歌さん。それって、どういうこと!?

「ああ、つまり、名雪はとろそうに見えるってことだな」

 わたしの言葉に名雪が食って掛かり、祐一が腕組みをしてうんうんと頷いている。

「いえ、名雪さんは何と言えば良いのかしら。こう、ふにゃ〜っとした雰囲気が全身からにじみ出ているといいますか。とにかく、速さとは無縁のようにお見受けしましたものですから」

「それ、フォローになってないよ」

「確かに名雪は昔からぽけっとしてるからな。しかし、まさか、そんな体質だったとは思わなかったぞ」

「そんなわけないよ。祐一、わたしをいじめて楽しい?」

「いや、割と」

 涙目になりながら祐一へと詰め寄る名雪に、祐一は指先でぽりぽりと頬を掻きながらそう答える。そう言うと思った。

 細部を覚えているわけではないけれど、祐一はこうやってよく従姉妹をからかって楽しんでいたように思う。その後で大抵百貨屋のいちごサンデーを奢らされるのだから、少しは控えれば良いものを。

 でも、確かに名雪をからかうのは面白い。それはこうして他人になった今でもそうだ。だから、ついつい調子に乗ってしまうのよね。悪い癖だとは分かっているのだけど、だからって、止める気は毛頭なかった。

「まあまあ、祐一も悪気があるわけじゃないのでしょうし、軽いスキンシップだと思って楽しめば良いんですよ」

「一緒になってからかってる人の言うことじゃないよ」

「あら、わたしはお二人との親睦を深めようとしていただけですよ」

 ジト目でこちらを見てくる名雪に、わたしはいけしゃあしゃあとそんなことを言う。

「そうだぞ、名雪。俺たちは今日会ったばかりなんだ。お互いを理解するためにも、こうやってコミュニケーションを図るのは重要なことじゃないか」

「祐一が言うと、ものすごく屁理屈っぽく聞こえるよ」

「な、何っ!?

 ここぞとばかりに切り返す名雪に、祐一が大げさに胸を押さえて蹲る。うふふ、さすが、よく分かっているじゃない。

「祐一、しっかりしてください。傷は浅いですよ」

「だ、ダメだ……。言葉のナイフが心臓を貫通して、……ぐはっ」

「祐一、祐一〜〜〜〜!」

 床へと崩れ落ちる祐一の身体を抱きかかえ、必死に呼びかけるわたし。言うまでもなく、素人丸出しの演技。だけど、名雪を唖然とさせるには寧ろこのほうが良い。

「許さないんだから……」

 声を低くしてそう言うと、わたしは名雪を見る。名雪は呆然として固まったままだ。

「……なんてね。驚きました?」

 悪戯の成功した悪童のような笑みを小さく口元に浮かべてそう言うと、わたしは腕の中で女性の身体のぬくもりと柔らかさを堪能している祐一を床へと放り出した。

 いきなり転がされた祐一は文句の一つも言わずに起き上がると、まるで何事もなかったかのようにソファに座ってコーヒーを飲む。

 名雪はもう何が何だか分からないといった様子だ。

 しかし、さすが、元同一人物だけのことはあるわね。漫才の息もぴったりだわ。いっそ、二人でお笑いコンビでも組んでみましょうか。いや、冗談だけど。

   * * * * *

  Maika Kanonical〜奇跡の翼〜

  第3章 ファーストインパクト!?

   * * * * *

 お茶会の後は順番にお風呂をいただいて、自分の体温と暖房器具で暖められた布団で眠りに就く。夜の鍛錬を出来ないのは残念だけど、さすがにまだ知られるわけにはいかないので我慢するしかない。

 ちなみに、満たせなかった欲求は別の形で解消した。おかげで沢山汗を掻いてしまったけれど、その後のお風呂は気持ちよかったわ。

 そうそう、寝る前にちゃんと電話しておかないとね。あの子、そういうことには煩いから。

 布団の中でうつ伏せになって、枕元に置いた携帯電話へと手を伸ばす。さて、わたしの可愛い妹分はまだ起きているかしら。

   *

 翌朝、いつもの習慣で五時前に目を覚ましたわたしは、動きやすい格好に着替えるとこっそり水瀬家を抜け出した。

 手には鍛錬で使う道具一式の詰まったスポーツバッグ。剣はさすがに目立つので部屋に置いてきた。

 音を立てないように気をつけながら、室内で軽くストレッチをして身体を温めると、夕べのうちに秋子さんからもらっておいた合鍵を使って、玄関のドアを開ける。

 途端に早朝の冷たすぎる空気が流れ込んできて、わたしは思わずドアを閉めそうになった。布団から出ただけでも十分寒かったけれど、やはり家の中と外ではその度合いも格別だ。

 以前の祐一だった頃のわたしなら、こんな時間に起きようなんて、思わなかっただろう。というか、ぶっちゃけ無理だ。

 しかし、それはそれ。今のわたしは七年前からずっとこの早朝鍛錬を続けているおかげで、ある程度寒さにも耐性が付いている。

 せっかく準備をした身体が寒さで固まってしまう前に、走り込みへと行くことにする。

 何をするにも基礎体力は必要ということで、七年前から少しずつ距離を伸ばし、ペースを上げながら今日までやってきたけれど、おかげで病気らしい病気をすることも無く、毎日健康だ。

 特殊な遺伝子疾患のせいで、成長が遅れていた、もとい身体が弱かった妹もわたしに付き合って走っているうちに大分元気になったし、やっぱり人間には適度な運動が必要なのよ。

 閑話休題。

 途中の自販機で水分補給用のミネラルウォーターを購入しながら、人目に付かずに鍛錬の出来そうな場所を探して走る。朝の早い時間帯であってもすれ違う人はちらほらといるわけで、そういった人たちに剣を振り回しているところを見られて騒がれでもしたら堪らない。

 一応携帯許可は下りているから違法ではないのだけれど、一々許可証を示して事情を説明するのも面倒だし、何よりこちらでの保護者である秋子さんに迷惑を掛けるようなことだけは避けたかったから。

 ご町内を軽く一周して、町外れに見つけた神社の石段を駆け上がる。前にいた町でも鍛錬には近所の神社を使っていたので、こちらでも似たような場所を見つけられたのは僥倖だった。

 早朝の境内は独特の気配に満ちている。神の御出ましになられる場所だからかしらね。神聖にして犯すべからずって奴だ。

 尤もわたしは神様なんて信じてはいないし、わたしの通う聖祥女子にもお嬢様学校に在りがちなカトリックだかプロテスタントだかに偏った風習は存在しない。そもそも、何か一つに偏り拘るからこそ争いが生まれるということを彼女らは理解しているのだろうか。

 まあ、何かに拘りを持つのが悪いとは言わないけれど、その前にせめて他を許容する程度の度量くらいは持ち合わせておいてもらいたいものね。我に正義ありだなんて、ナンセンスにも程がある。

 それはそれとして、わたしはこの静まりきった境内の雰囲気が割りとお気に入りだったりする。

 小鳥の囀りも聞こえれば、小動物の気配も感じるので決して無音というわけではないのだけれど、ここにはまだ人間の雑念に汚されていない新しい朝の空気がある。

 それでも一応目立ちにくい場所へと移動し、あたりに人がいないのを確かめると、わたしは適当に荷物を下ろして鍛錬を始めた。

 軽く意識を集中して、いつも使っている剣をイメージ。すると、すぐにその通りのものがわたしの手の中に現れた。

 これは舞の力。魔物を生み出してしまっていたものと同じ性質の力の応用だ。

 この身体になってから、ある程度ならわたし単独でもそれを扱うことが出来るようになっていた。複雑なことはまだ舞やまいちゃんの助けを借りないと出来ないけれど、簡単な物質化くらいなら今のわたしにも出来る。

 その剣を使って、小一時間ほど基礎鍛錬を繰り返す。

 剣術の基本の型の反復練習と、力を制御するための集中力を高める精神統一。最初はわたし一人で、後半はまいちゃんを憑依させた状態でひたすらそれらを繰り返す。

 相手がいないので、打ち合えないのが物足りないけれど、それは仮想敵を用いたイメージトレーニングでカバーするしかないわね。でも、初日からあまり無理をすると必要なときに動けないということもあり得るので、これはほどほどにしておきましょう。

 送った荷物も今日届くから整理しないといけないし、何より他にやらなければならないこともある。

 石段を降りる際、誰かの視線を感じたような気がしたけれど、特に害もなさそうなので、とりあえず今は放置しておいた。このとき、その視線の主が彼女だと気づいていれば、声の一つも掛けたのだけど。

 帰りも軽く走って、水瀬家に着くとさすがに秋子さんはもう起きていた。

「おはようございます」

 キッチンで朝食の支度をしている秋子さんにそう声を掛ける。

「おはようございます。あら、朝から運動ですか?」

「はい。汗を掻いたのでシャワー、お借りしたいのですけど」

 わたしの格好を見てそう聞いてくる秋子さんに軽く答え、シャワーの使用許可を求める。

「ええ、どうぞ。わたしが入った後のお湯でもよければ湯船のほうにも浸かれますよ」

「助かります」

 そう言って軽く会釈すると、わたしはバスルームへと向かった。もうすぐ朝食だろうから、あまりゆっくりもしていられないけれど、それでもお湯に浸かれるのは有難い。

 髪と身体を洗って、まだ十分に熱いお湯に身体を沈める。女性の身体になってからというもの、どうにもお風呂が気持ち良くて仕方がない。

 全身に染み渡る心地良い熱さに、わたしははしたなくもお湯の中で思い切り四肢を伸ばした。

 うーん、気持ち良い……。

 やっぱり身体を動かした後のお風呂は良いわね。このままゆっくりと浸かっていたいところだけど、居候の身でご飯を用意してくれている秋子さんや祐一たちを待たせるわけにもいかないからそろそろ上がらないと。

 お風呂から上がった後はいつも長い髪に苦労しながら、それでも痛まないようにしっかりとタオルで水気を取る。こういう女性ならではの大変さにもすっかり慣れてしまったもので、今ではそれなりの手際で済ませられるようになっていた。

 そういえば、着替え持ってきてなかったわね。まあ、部屋まではすぐだし、大丈夫でしょ。

 身体を拭いている途中、いつもの調子でお風呂に直行してしまった事に気づいて苦笑する。いけないいけない。ここはもうさざなみではないのだから、気をつけないと。

 仕方がないので、裸身にバスタオル一枚巻いただけの格好で脱衣所を出ると、わたしは急いで自分の部屋へと向かった。

 余談だけど、二階へと上がったわたしは、名雪の部屋の前でぼーっと突っ立っている祐一を見つけた。

 どういう状況だったかと古い記憶を探りながら、とりあえず挨拶だけはしておこうと思って、声を掛けたら悲鳴を上げられたわ。

 わたしの格好を見て驚いたのだろうけれど、それにしても失礼よね。頬を染めて自分の身体を抱きしめるわたしに、目を逸らしながら一言早く服を着ろとのたまうだけだなんて。

 いや、わたしも一応女の子なわけで、露骨に欲情した視線を向けられても困るのだけど……。

   *

 水瀬家の朝は基本的に洋食である。これは、秋子さんが仕事の都合で早く出ないといけないことが多いかららしいけれど、本当は名雪の朝寝坊のせいでゆっくり食べていられないからだということをわたしはよく知っている。

 ただ、今朝は祐一が失礼にもわたしの裸を見て悲鳴を上げてくれたおかげで、名雪の目もちゃんと覚めているようだけど。

 それはさておき、さざなみ寮で七年暮らしたおかげで朝も和食のことが多くなったわたしにとって、これは少々物足りなかった。

 秋子さんの料理はとても美味しいし、紅茶もコーヒーも絶品なのだけど、朝の鍛錬をしている身としてはトーストにベーコンエッグ、サラダだけというのはカロリー的に厳しいものがあるのだ。

 だからといって、我侭を言って迷惑を掛けるわけにもいかないし、男の祐一よりも食べる量が多いと思われるのも何だか嫌だった。

 後で外に出たついでに何か食べよう。でないと、さすがに身が持たないわ。

 そうそう、身が持たないといえば、祐一は今日のお昼はどうするつもりなのかしら。

 朝食後、すぐに秋子さんは仕事に出掛け、名雪は部活。わたしも所用で出掛けるから、家には祐一一人だけになる。

 さすがに、午後一時近くまで空腹のまま放置プレイというのはかわいそうだから、軽く何か作っておいてあげようかしら。前の時は名雪が部活から戻ってくるまで寝ていたから特に気にならなかったけれど、今回も同じだとは限らないものね。

 ついでにわたしも食べよう。幸い秋子さんから食材等の使用許可は下りていることだし、そのほうがわたしの懐も痛まない。うん、そうしよう。

 メニューは冷蔵庫の中身と相談して、暖め直してもそれなりに美味しくいただけるものを選ぶ。伊達に神奈さんに鍛えられているわけではないのだ。

 うふふ、祐一の驚く顔が目に浮かぶわ。

 軽く鼻歌なんか口遊みながら、簡単に作ってしまう。いや、そんなに難しいものを作れるわけじゃないけれど、少しくらいは自慢しても良いわよね。

 エプロンを外して部屋へと戻り、出掛ける支度を整えて再び一階へ。階段を下りたところでちらりと上を見たけれど、欠食男児が匂いに釣られて出てくる気配はない。

 今朝の仕返しにと、朝食の席で軽くからかったのが効いているのかもしれない。

 とりあえず、ちゃんと食べてもらえるようにテーブルの上に書置きを残すと、わたしは小さな声で行ってきますと言って水瀬家を後にした。

 まずは市内の主要な場所とその周辺の地理の確認から。

 七年前の記憶は既に一部が曖昧で、詳細なところまでは思い出すことが出来なくなっている。それに、ここが自分の知っているあの町とまったく同じであるとは限らないのだ。

 歴史は既に異なる道を歩んでいる。なら、この七年の間にそれが具体的な変化として現れていたとしても、何ら不思議ではなかった。

 学校、噴水のある公園、商店街、病院、そして……。

 地方都市だからか、花音市内には割りとまとまった自然が残されている場所が幾つかある。今、わたしが立っているのもそんな場所の一つで、目の前には大きな切り株があった。

 植物の生命力というのは凄いもので、切り倒されてから何年も経っているというのにその大樹は中心に新しい芽を生やし、確実に天へと向かって伸びている。それはまるで象徴だった。

 その木が切られることになったきっかけをわたしは知っている。そして、それを作った二人の子供が今はどうしているのかも……。

 脳裏を過ぎるのは、今となっては全く意味を持たない思考だった。そんなことを考えている暇があるのならと、わたしは軽く頭を振って踵を返す。

 そう、今は行動しないといけない。

 一通り確認して商店街に戻るとちょうど正午を回ったところだった。

 今から戻れば祐一たちと一緒にお昼を食べられるだろうけど、その前に少しお買い物をしてから帰りましょうか。

 使った分の食材は補充しておかないといけないし、そうでなくても明日の夕方には水瀬家の冷蔵庫は空になるはずなので明日買い出しに出なくても良いように今買っておくことにする。

 ちょうど目の前にはそれなりに大きなスーパーマーケットがある。前に来たとき、三日目に名雪と一緒に夕飯の買い出しに行って以降、何度も利用することになったお店だ。

 そういえば、ここで名雪を待っているときにあの娘とぶつかったんだったわね。今日はまだその日じゃないけれど、もしかしたらと思って足を止めたそのときだった。

 突然、遠くからものすごい勢いで迫ってくる気配を察して、わたしは思わず眉を顰めた。

 何かしら。幽霊……にしては、気配が濃い。でも、ただの人というには希薄だし、それに何か奇妙な気が纏わりついているみたい。これは……。

 突然の珍妙な気配に、その正体を特定すべく思考を巡らせる。だけど、その姿が視界に入った途端、わたしは考えを放り出すと反射的に右手を前に突き出していた。

「そこの人っ、どいてどいて!」

 そんなことを叫びながら、こちらに向かって前傾姿勢で猛然と突っ込んでくる小柄な人影。何かを抱えているようだけど、それがこちらの攻撃の妨げになることはなかった。

 結果、身長差からわたしの放った掌底打は見事にその人物の顔面へとクリーンヒット。

 直撃を受けた少女は目を回してその場に崩れ落ちた。

   * * * つづく * * *





やはり、最後に出てきた少女は彼女なのか。
美姫 「もしそうなら、性別は変われど、出会い方は変わらなっかって事ね」
さてさて、実際はどうなのかな。
美姫 「次回になれば分かるはずよ」
次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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