* * * * *
 ――わたしは、魔物を討つものだから。
 自分に言い聞かせるように、そんな言葉と共に剣を振るう少女。非常灯の明りを照り返して、冷たく煌く鋼が、夜の闇に溶け込んだ不可視の存在を捉える度に、削られるのが何であるかを彼女は知らない。
 砕かれたガラスの破片の中から一本のリボンを拾い上げながら、わたしは舞が去った方向を見つめて溜息を漏らす。
 僅かな邂逅の後、祐一を振り切って追ってきたこの世界の舞は、わたしに対してその剣を向けてきた。わたしの気配の中に、魔物のそれと同質のものを感じ取ったのだろう。
 それが自分の中にもあるということに気づかぬまま、向かってくる彼女の踏み込みは力強く、振り下ろされた斬撃は素人のものとは思えない程鋭かった。隠蔽結界を見破られたことを意外に思いながらも、わたしの身体は余裕を持ってそれらを避け、受け流す。
「……これまでの奴らとは違う。だけど」
 舞のそんな呟きが聞こえ、同時に取られた構えに、わたしの背筋を僅かな戦慄が走る。
 ――川澄流(かわすみりゅう)・刺殺退魔(しさつたいま)。
 両手で握った剣を腰の右側で地面と水平に構え、全身のばねを使った踏み込みによって解き放つ。矢のような速さで迫るその切っ先に、わたしはとっさに持てる力のすべてを防御に回して盾を形成した。
 無理矢理練り合わされた気と霊力と生命力が魔物を討つための刺突と一瞬拮抗し、弾ける。轟音が大気を震動させ、このあたり一帯のガラスが次々と硬質な破砕音を立てて砕かれた。
 駆け抜けた舞と、その場に踏み止まったわたしは背中を向け合ったまま、微動だにしない。
 それからどれだけの時間が過ぎたのだろう。やがて二人の間に一陣の風が吹き、舞はそのまま何処かへ走り去ってしまった。
 残されたわたしは剣を鞘へと納めて一言。
「――これ、どうしましょう」
   * * * * *
  Maika Kanonical〜奇跡の翼〜
  第9章 オレンジの恐怖、再び
   * * * * *
 その日の目覚めは最悪だった。
 無理な力の行使をしたせいで身体のあちこちが悲鳴を上げているし、睡眠不足が祟って肌のコンディションも少し悪い。やはり、防御結界に生命力まで注ぎ込んだのがまずかったのだろう。
 さすがに三位一体の防御結界は強力だったけど、それだけに制御も難しく、舞の攻撃を防ぐと同時に拡散させてしまった。
 それによって出た被害については、……まあ、考えないでおこう。これ以上、痛いところを増やしたくはないし、さすがにあれを人間がやったとは誰も思うまい。
 何せ、廊下や壁は一切無傷でありながら、ガラスだけが見事なまでに粉砕、文字通りの粉末と化しているのだ。
 ちなみに、舞が魔物との戦闘で破壊したガラスに関しては、可能な限り元通りにしておいた。粒子レベルでの再結合をやったので、ガラスとしての純度に多少の誤差は出ているだろうけど、見ただけでそこまで分かる人間もいないだろう。
 ――閑話休題。
「祐一さん、トーストにジャム付けないんですか?」
 それは、そんな秋子さんの一言から始まった。朝食の席で出されたトーストにバターだけ塗って齧りついている祐一の姿を見て、不思議に思ったのだろう。何せ、水瀬家で買っているのは何の変哲も無い普通の食パンだ。
「ええ、甘いものはどうも苦手で」
 問われた祐一は、テーブルの上に並ぶ自家製のジャムの瓶を見て、申し訳なさそうにそう答える。
「そういえば、祐一はコーヒーもブラックですよね。そんなに甘いのが苦手なんですか?」
 出されたコーヒーに口を付けながら、わたしも話に加わる。純粋に味と香りを楽しみたいのなら、コーヒーはブラックで飲むのが一番だ。ただ、ブラックのままだと胃に対する刺激も強いので、健康に配慮してわたしは一口目だけにしている。
「いや、食べられないことはないんですけど、自分から欲しいとは思わないですね。勉強とかで頭を使った後とかなら、また話は違ってくるんですけど」
 そう言ってカップを傾けようとする祐一の前に、わたしはミルクの入ったポットを置いた。
「なら、せめてミルクだけでも入れたほうが良いですよ。ブラックばかりだと、胃を痛めてしまいますから」
「あ、ああ、ありがとうございます」
 わたしにそう言われて、祐一は少し戸惑ったような表情をしながらも、素直に言うことを聞いてくれた。
「舞歌さんは優しいですね」
「放っておけないんですよ。こう、何ていうか、手の掛かる弟みたいで」
「弟扱いですか、俺は」
 にこにこと微笑みながらそんなことを言う秋子さんに、わたしはいつもの微笑を浮かべてそう返す。弟扱いされた祐一は何故か憮然とした表情をしていたけれど、わたしにとっての彼はそういう存在だ。
「男の子として見てほしいんですか?」
「過度のスキンシップを控えてほしいだけですよ。正直、あんまり過激なのが続くと理性が持たないんで」
「大丈夫ですよ。そのあたりはちゃんと加減してますから」
「そういう問題じゃないと思うんですけど」
 あくまで笑顔を崩さないわたしのそんな態度に、祐一は諦めたようにそう言って溜息を吐くと、少しだけ胃に優しくなったコーヒーを啜る。
「……おふぁようごじゃいますぅ……」
「おはようございます、名雪さん」
「おはよう。って、名雪、おまえまだパジャマのままじゃないか!?」
「あら、本当ね。ご飯食べてから着替えている時間はあるのかしら」
「……うにゅ〜、いただきます……」
 半分寝ながら現れた名雪に、わたしは普通に挨拶を返し、祐一が名雪が着替えていないことに気づいて、それを指摘する。秋子さんは、頬に手を当てながら時計を見て考えているけれど、別段慌てているようには見えない。
「って、名雪さん、それ……」
 寝ぼけたままジャムの瓶へと手を伸ばし、オレンジ色の中身をトーストに塗る名雪。それを見たわたしは、思わず小さく声を漏らしてしまった。
「……ごちそうさまでした」
 カップに残っていたコーヒーを飲み干し、わたしはなるべく自然な動作で席を立つ。この後に起きる惨劇を予想出来る以上、この場に長居するわけにはいかない。
「あら、舞歌さん、もう良いんですか?」
 いつになく小食のわたしに、秋子さんが気遣わしげにそう声を掛けてくれる。しかし、さすがにあなたのそのジャムが恐ろしくて、などというわけにもいかず、わたしは表情を曇らせるしかない。
「ええ、ちょっと……」
 ちらりと祐一のほうを見て、少し頬を赤くしながらそう答える。すると、秋子さんはそれでわたしの言いたいことを悟ったようで、ごめんなさい、と小さく謝ってくれた。
「舞歌さん、身体の調子でも悪いんですか?」
 一人、訳が分からないという顔で秋子さんにそう尋ねる祐一の声を背中に聞きながら、わたしは一足先に水瀬家を出る。後に名雪の声無き断末魔を聞いたような気がしたけれど、きっと気のせいだろう。
「おはよう」
 玄関を出たところで、香里にそう声を掛けられた。
「おはようございます。えっと、美坂さんでしたっけ?」
「随分と他人行儀なのね。昔は結構一緒に遊んだのに」
 我ながら白々しいと思いながらもそう答えるわたしに、香里は目を細めて笑う。いえ、笑っているのは口元だけで、目のほうは全然笑っていないわね。
 なまじ美人なだけに、香里のこういう表情は途轍もなく恐ろしい。だけど、この前ちゃんと挨拶しなかったのがそんなにお気に召さなかったのかしら。
 香里は香里で、あのときはまだわたしのことに気づいていなかったようだし、お互い様だと思うのだけど。
「……えっと、お久しぶりです」
「ええ、七年ぶりくらいかしらね」
 とにかく空気を変えようと挨拶を返すわたしに、香里も怒りオーラを霧散させるとそう言って懐かしそうに頬を緩める。
「香里はどうしてここに?」
「あなたを待ってたのよ。ついでに相沢君や名雪たちとも一緒に行こうと思って」
「そ、そうですか……」
「ええ、でも、気が変わったわ。先に行きましょ。あなたとは少し二人きりで話したいこともあるし」
 にっこりととても良い笑顔でそう言って、香里はわたしの手を取った。
「あの、お話なら、ここでも良いんじゃ」
「ここじゃ話せないわ。相沢君や名雪には聞かせないほうが良いでしょうし」
「そ、そうですか。なら、駅前の喫茶店にでも」
「堂々と学校をサボる提案をしないの。まったく、そういうところは、のままなんだから」
 今度は呆れたようにそう言って溜息を吐くと、香里は強引にわたしの手を引いて歩き出す。いえ、そんなふうに言われても、わたしには何が何だかさっぱり分からないのだけれど。
   * * * * *
 分からないといえば、この状況もそうだ。
 昨夜の疲れもあって、ぐったりしていたわたしに、佐由理さんが声を掛けてきたのが朝のHR前のこと。最早満身創痍のわたしは机の上に身を伏せた状態で満足な応対も出来ず、そんなわたしの初めて見せるだらしない姿に、彼女は酷く驚いていたようだった。
 そんな佐由理さんに、一時間目のノートだけ、後で写させてほしいと頼むと、わたしは夢の世界へと旅立った。とりあえず、一時間仮眠を取れば後は昼まで持たせられるだろう。
 そうして迎えた昼休み。学食に向かう気力も無く、再び仮眠を取ろうとしていたわたしに、また佐由理さんが声を掛けてきた。
 いつもお昼は学食のわたしがまだこんなところにいるのを訝しく思ったのだろう。案の定、彼女はわたしにお昼はどうするのかと聞いてきた。
「今日は抜こうと思います。体調が思わしくありませんし、ちょっと動くのもしんどいので」
「あはは〜。ダメですよ、そういうときこそしっかり食べないと。佐由理のお弁当、たくさんありますから、よかったら一緒にどうですか?」
「いえ、お気持ちは嬉しいのですけれど、今日は本当に……って、佐由理さん!?」
「遠慮しなくても良いですよ。佐由理たち、友達じゃないですか」
「だ、だからって、強制連行はないでしょ。って、だから、わたしの話を聞いてください!」
 抵抗も虚しく、わたしは佐由理さんによってずるずると引きずられていく。気分はドナドナ。というか、彼女の細腕の何処にこんな力があるのだろう。
 ちなみにこの後、廊下で舞と祐一と合流して、例の階段の踊り場まで行ったのだけど……。
「いや、世間は狭いっていうか、すごい偶然だよな」
 わたしが佐由理さんの、つまり舞の親友のクラスメイトだったことに、祐一は驚きながらそんなことを言ってくれた。
「…………」
 舞は一瞬射るような視線をわたしに向けた後、ぷいとそっぽを向いてしまった。昨夜のこともあって、もっとあからさまな敵意を向けられるのではと覚悟していただけに、これは少し意外だった。
「倉田佐由理です」
「相沢祐一です」
「ほら、舞も自己紹介」
 そんな舞の様子も、佐由理さんにはいつもの人見知りと映ったようで、最初が肝心とばかりに自己紹介を促す。
「……川澄舞」
「じゃあ、舞と呼んでも良いですか?」
「…………」
「良いか、悪いかで言うと、どちらでしょうか」
「……良い」
 わたしの問いに、舞は愛想無くそう答える。まあ、最初としては上々というところだろう。
「……そっちは」
「えっ?」
「あなたの名前、わたしはまだ聞いてない」
 何処かむっとしたようなその舞の言葉に、わたしは思わず呆けてしまった。
「はぇ、舞が自分から初対面の人に話しかけるなんて珍しいですね」
「初対面じゃない。この人とは、何処かで会ったことがあるような気がするから」
「あら、奇遇ですね。わたしも舞とは初対面の気がしません。どうしてでしょうね」
 舞のその言葉に内心驚きながらもわたしはそう言って話を合わせる。本当は気がするどころではないのだけれど、今はまだ、そのことを教えるわけにはいかないから。
「既視感、デジャヴというものでしょうか」
「案外、生き別れの姉妹とかだったりしてな。二人とも何となく似ているような気がするし」
「名前……」
「一ノ瀬舞歌です。よろしく」
 わたしはそう言って微笑むと、舞に左手を差し出した。
「左利き?」
「いえ、佐由理さんにも言いましたけど、これはわたし的にこれからよろしくというときにする握手なんです」
「……よく、分からない」
「構いませんよ。ただ、わたしはあなたとお友達になりたいという、その気持ちだけ知っておいていただければ」
「分かった」
 きっと他人には意味の分からないだろう、わたしのそんな言葉にも、舞は特に追及することなく頷くと、わたしの差し出した手を取って握ってくれた。
 存在が一部重複することもあって、こちらの舞とは友好的な関係を望めないかもしれないと半ば諦めていただけに、こうして握手を交わせたことは本当に嬉しかった。
 ――これからよろしく、舞。
   * * * つづく * * *





舞も登場。今度は舞を救えるのかな。
美姫 「舞歌はその為に力を付けたんだし大丈夫でしょう」
とは言え、油断大敵だからな。
美姫 「確かにね。これからどう展開していくのか楽しみね」
うんうん。次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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