――平穏な時間なんていうものは、決まって長く続かないものだ。
 例えば、当たり前のように朝が来て、家族で食卓を囲い、行ってきますと出掛けていった子供が、そのまま二度と帰らなかったとしよう。
 家族は言うだろう。
 いつもと何ら変らない朝だったと。それなのに、まさかうちの子があんなことになるなんてと、嘆き悲しむだろう。
 だが、予想もしなかった。
 そんな枕詞で語られる悲劇の数々は、実は誰の身にも起こり得る未来の可能性の一つでしかないことを、一体どれだけの人間が認識しているのだろうか。
 いや、人は自分の都合の悪いことからは目を逸らす生き物だ。ストレスによる過負荷から脳を守るために、本能がそうさせるのだろう。それを意気地が無いとか言うのは、筋違いのような気がする。
 ……こんなことを考えている時点で、わたしも現実から目を逸らしているんでしょうね。
 発端が何だったかは、今は考えない。
 原因を究明し、再発防止策を講じるのは、今の状況を無事に乗り切った後ですれば良いことだからだ。
 わたしの知り合いの一人が得体の知れない存在によって攫われてしまった。そう、これは誘拐事件だ。
 問題なのは、その犯人が指定した場所だった。本当ならすぐに警察に通報すべきところを、それのせいで自分で何とかしなければならなくなっている。
 ――ものみの丘……。
 そこは、この地の妖狐伝説において、その住処とされている場所だった。
 その場に居合わせた真琴の目撃証言からも、今回の件が人外絡みであることが分かる。
 そして、何よりその人違いで攫われてしまった人物。真琴の口からうぐぅ、の名前が出た時、わたしの行動は決まった。
   * * * * *
  Maika Kanonical〜奇跡の翼〜
  第15章 ものみの丘の妖狐
   * * * * *
 そもそも、その日は朝から何か可笑しかった。
 秋子さんが遅出の日にも関わらず、名雪が目覚ましが鳴る前に起きてきていたのだ。
 真琴などは天変地異の前触れだと言って騒ぎ立て、それを祐一にからかわれていた。
 舞は本物かどうか確かめるために名雪の頬を引っ張り、そのせいで彼女に涙目で抗議されている。
 そして、そんな彼らのやり取りを見て、可笑しそうに笑っているうぐぅが一人。
 秋子さんがゴミを出しにいった帰りに朝食に誘ったそうだけど、これは祐一がわたしの知らないところであゆとも親睦を深めているという証拠に他ならない。
 中途半端に他人と深く関わると、そのうち痛い目を見るというのに。特にあゆは、祐一にとっては爆弾のようなものだ。
 自分が記憶を取り戻した時の衝撃を思うと、出来れば彼には忘れたままでいて欲しいと考えてしまう。痛みは人を成長させるというけれど、記憶を失う程の痛みともなれば話は別だ。
 わたしの場合は支えてくれる大人が近くにいたから良かったようなものの、そうでなければ心が死んでしまっていた可能性は決して低くはない。そして、今の祐一にはどうしようもないお荷物も付いているのだ。
 気づかれないように、チラリと名雪のほうを見る。
 怨念とでも言うのだろうか。名雪の祐一に対して向ける視線には、時折そういう黒いものが混じって見える。
 よくない傾向だった。ただでさえ非常識が服を着てそこらを歩き回っているようなこの町で、負の感情は確実に悲劇を呼び込んでしまう。
 危機感を覚えたわたしは、それとなく名雪を注意するようにしていたのだけど、彼女にはどうもそれが面白くないようだ。
 わたしが祐一に対して色目を使ってるとでも思ってるのかしらね。だとしたら、酷い誤解だ。
 祐一は祐一で、相変わらずわたしのことを女として意識してるみたいだし、このままでは家の中が可笑しなことになりかねない。
 ――わたしはそういうの、嫌だったから、祐一が傷つくのを覚悟でああ言ったのに……。
 ジャガイモの皮を包丁で剥きながら、わたしは疲れたように溜息を漏らす。実際、少し疲れていたのかもしれない。
 栞の復学が決まり、最初は不安定だった真琴の存在も、今では大分この世界に定着してきている。
 異常に強い魔物の発生もあの夜の一回切りだったらしく、この頃は訓練を始めた舞に呼応して、少しずつ彼女へと戻り始めていた。
 あゆの存在こそは気掛かりではあるけれど、とりあえず、最も警戒しなければならない山は越えたと考えて良いだろう。
 だから、知らないうちに気を緩めてしまっていて、思い出したように押し寄せてきた疲労感に、身体が悲鳴を上げていたとしても、そう可笑しなことではなかった。
 ――舞歌、お疲れ様。
 今夜のメニューであるクリームシチューの仕込を終えて一息吐いたわたしに、まいちゃんがそう労いの言葉を掛けてくれる。この子との付き合いも大分長い。
 今の身体になった時にはどうなることかと思ったけれど、案外上手くやっていけるもので、今ではすっかりこれが普通になっている。
 これも彼女たちのおかげだ。二人がいてくれたおかげで、わたしは女として今日まで生きてこられた。
 もちろん、家族や友人の協力もあったけれど、それ以上に不安定だったわたしを二人はより深いところで支えてくれたのだ。
 おかげで、今では女性としての自分を楽しむ余裕さえある。男性と恋愛するのにはまだ抵抗があるけれど、異性の友人として彼らと付き合うのはそう悪いものでもなかった。
 ――ありがとう。でも、本当に大変なのはこれからよ。
 そう言うとわたしは、気持ちを引き締めるために、休息を欲する身体に力を巡らせる。確かに知る限りの直接的な危機は去ったかもしれない。
 あの夜の一件で、こちらの舞は自分から行動するようになった。待っているだけでは何も変らないし、変えられないと分かってくれたのだろう。
 栞はわたしが力を貸したとはいえ、最終的に病魔を退けたのは、彼女自身の、負けるものか、という意志の強さだった。
 本人いわく、病気が治ったらまた三人で遊ぼうという香里やわたしとの約束があったから頑張れたのだとか。
 そんな、嬉しいことを、はにかみながら言ってくれるものだから、わたしは思わずその場で彼女を抱きしめてしまった。
 真琴も自分自身の存在を保つために、まずは自分を知ることから始めている。
 力の使い方も少しずつ覚えて、いずれはわたしの手伝いをするつもりのようだけど、わたしとしては彼女には普通に幸せになってもらいたいので複雑だ。
 彼女たちは成長するだろう。
 元々、発展途上でこれから大きく伸びる時期なのだ。ただ、ちょっと一人ではどうしようもない事があって、立ち止まっていただけ。
 そんな時、そっと背中を押してあげるのが大人の役目で、精神年齢二十四歳のわたしは人生の先輩として、それをすべき立場にあると思う。
 その役目をちゃんと果たせたかどうかは、これからの彼女たちを見ていれば分かるだろう。
 名雪も周りにあれだけライバルがいれば、いつまでも過去に囚われているわけにもいかないでしょうし、後は秋子さんのほうを何とかしさえすれば、大丈夫でしょう。
 香里から聞いた話を思い出しながら、わたしがそう考えていた時だった。突然、契約によって結ばれたラインを通して、わたしの脳裏に真琴の悲鳴が飛び込んできた。
 式神とそれを使役する術者は霊的な繋がりを持つ。術者はこれを通して式神に命令を与え、逆に式神の収集した情報を受け取るのだ。
 これを応用して、わたしは真琴が存在を保つのに必要な力を供給しているわけだが、それには本来の情報交換を行う機能も残してある。というのも、この術は半ば我流のため、いつ何が起こるかわからないからだ。
 不測の事態にも速やかに対応出来るようにと、本人の同意を得た上で施した仕掛けだったけれど、どうやらそれが役に立つ時が来たらしい。
「名雪さん、ちょっと鍋を見ていてもらえませんか?シチューを作ってたんですけど、牛乳が足りないみたいで、買ってきますから」
 腰掛けていた椅子から立ち上がり、部活動を終えて帰宅したばかりの名雪にそう頼むと、わたしはコートを取りに自分の部屋へと向かった。
 ラインを通して霊的に感じることで、真琴が無事なことはすぐに分かった。問題は、連れ去られたというあゆのほうだ。
 真琴が見たのは、子供が落書きしたようなひょろりとした狐が三匹。向こう側が透けて見えていたというから、それらが霊的な存在なのは間違いないだろう。
 わたしの持つ知識で、該当するのは、飯綱使いの使役する管狐くらいのものだけど、もし、本当にそうなら、事はそう簡単には済まないかもしれない。
 飯綱使いとは、古来より伝わる妖術の一つで、管狐という一種の使い魔を媒体に、霊的干渉を行うことで不思議を起こすものだとされている。この管狐というのが厄介で、伝承の通りであれば、最弱でも人や物に憑依して操る能力を持ち、ある程度以上のものになると神通力を標準装備しているという、出鱈目ぶりだ。
 残念ながら、わたしに飯綱使いとの戦闘経験は無い。荒事になった場合を想定して、雷獣の毛皮のコートの下に、手製の呪符をあるだけ詰めてきたけれど、果たしてこれで足りるだろうか。
 いや、まだ敵がそれと決まったわけではない。真琴も混乱していたみたいだし、とにかく今は彼女を見つけて話を聞かないと。
 先程から途絶したまま繋がらない念話に不安を覚えながらも、わたしはそれを振り払うように夜の町を駆ける。向かう先は、ものみの丘だ。
 この町に本物の怪異に纏わるスポットは幾つかあるけれど、その中でも念話を遮断するような効力を発揮しそうなのは、魔物発生時の花音高校とものみの丘くらいのものだ。
 特に後者は、妖狐伝説のこともあって、本物の異界が形成されている可能性が高い。真琴がこちらに残っていることで、その異界との繋がりが未だ保たれているのだとすれば……。
 思考が最悪の可能性へと行き着く前に、わたしの視界を何か白いものが横切る。ふわふわの綿毛のようなそれは、まだ生まれたばかりの狐の霊、管狐の幼生体だった。
 ――ついて来い、ってことかしら……。
 誘うように目の前を飛び回るその管狐に、わたしは注意深くあたりの様子を伺う。既に相手の勢力圏内であることは気づいていた。
 空気には魔の気配が濃く満ち、邪気特有の肌を刺すような感覚がひしひしと伝わってくるのだ。これに気づけない退魔関係者がいたとすれば、残念ながらそのものは生きて明日の朝日を拝むことは難しいだろう。
 そんな状況下で、ようやく復旧した真琴とのライン。それが意味するところは、おそらく最悪に近い部類のものではなかろうか。
 ――はぁ、行くしかないみたいね。
 思わず漏れた吐息が白く濁るのを見て、わたしは表情を引き締める。当たり前のことだけど、丘の上の空気は平野部のそれに比べてずっと冷たいのだ。
 実際、刺すような冷気は痛みすら感じる。厚着をしているとはいえ、真琴やあゆのような小さな女の子にこれは辛いだろう。
 目の前の管狐と視線を合わせ、案内するように促す。管狐は分かったとばかりに一つ頷くと、丘の上のほうへと向かって飛びはじめた。
 歓迎してくれているのだろうか。小さな案内人に連れられて丘を登るにつれて、周囲を同じような管狐が何匹も飛び交うようになった。
 一匹、二匹、三匹……。
 ふわりふわりと飛び回るそれらは、遠目には舞い降る雪のようにも見えたかもしれない。そして、そんな膨大な数の管狐たちに混じって、一際強い霊的波動を放つ物の怪が一匹。
 美しい少女だった。
 雪と見紛うほどに白い肌。上質のエメラルドを思わせる紺碧の瞳。
 腰のあたりまで伸びた白銀色の髪の間から覗く獣の耳がなければ、わたしはきっと、魅入られたようにその場に立ち尽くしてしまったことだろう。
「管狐を使って生霊の少女を攫ったのは、あなたですか?もし、そうなら、何故そんなことをしたのか教えてくれませんか」
 わたしのその問いに、少女はこくりと頷いた。
「それは、あなたを、ここに呼び寄せるためです」
「わたしを?」
 思いもよらなかった少女の答えに、わたしは思わず目を丸くして驚いてしまった。そんなわたしに、少女は小さく口元を綻ばせながら言葉を続ける。
「最初は人界へと降りたまま、戻らない同胞を連れ戻すために、わたしは町にこれらを放ちました」
 そう言って少女は、近くを漂っていた管狐の頭を撫でる。
 同胞とは、おそらく真琴のことだろう。でも、それならどうして直接本人を捕まえなかったのか。
 その答えも少女の言葉の中にあった。
「しかし、見つけた同胞は既に何者かと契約を結んで式となっていました。そこで、わたしは契約者を呼び寄せるべく、これらに同胞と共にいた娘を攫わせたのです」
「なるほど。でも、そんなことをしなくても、真琴、あなたの言う同胞の娘に事情を話して、わたしを呼んでもらえば良かったんじゃありませんか?」
「人間の術者は状況次第で簡単に式を見捨てますから。それに、あなたが式となった同胞を使ってあの娘を監視なりしているのであれば、動かざるを得なくなると思ったのです」
 そう言った少女の目に剣呑な光が宿る。わたしはそんなことはしないと反論したかったけれど、彼女にそれを信じてはもらえないだろう。
 事実、多くの術者にとって、式とは自分の手足となって働くコマであり、そこにただの道具以上の関心を払うものは少数派なのだ。そして、彼女の目に、わたしはそんな術者の一人として映っている。
 妖怪にとって、人間の術者、取り分け退魔を生業とするものたちは、須らく憎悪の対象となることをわたしは経験から知っていた。
「わたしを殺して真琴を解放しようと、つまりはそういうわけですか」
 少女の目的を看破してそう言うわたしに、不自然に盛り上がった雪の中から息を呑む気配が伝わってくる。そこに真琴が潜んでいることは、このエリアに足を踏み入れた時から気づいていた。
 それなのにあえて彼女を動揺させるようなことを言うのは、そんな丸分かりな偽装なんて、さっさと解除して出てきてもらいたかったからだ。
 そして、ここが如何に危険な場所であるかを理解させ、早々に退避してもらう。あゆも一緒なら、なお良いけれど、さすがにそこまでは望めないかと覚悟を決めた。
「まさか、天狐たるこのわたしが、あなたのような美しい女子を殺める、などという具を犯すはずがないでしょう!」
 しかし、少女は心外だとばかりにそう言って、形の良い眉を顰める。天狐とは、古くより神の使いとして地上に安明の刻を告げるとされる神聖な霊獣のことだ。
 確かに目の前の少女からは、微かだが聖性のようなものを感じる。しかし、それ以上に空間を満たす圧倒的な邪気が、彼女の言葉から信憑性を失わせていた。
「これほどの邪気を振り撒いておきながら、天狐とはよく言ったものですね。それとも、近年の天界というのはそのような邪な存在を重用するとでも言うんですか?」
「ああ、これですか」
 視線も鋭くそう尋ねたわたしに、少女は着物の合わせから懐に手を入れると、ごそごそと何かを取り出した。
「殺生石の破片です。わたしの霊核でもありますが、これに残留する邪気がわたしの聖性を覆い隠してしまっているのですね」
「殺生石って、まさか……」
 少女の口にしたその名に、そして、それが少女の霊核であるというその言葉に、わたしの身体を戦慄が駆け抜ける。そこにいるのは、想定していた以上の災厄だった。
 白い毛並みを持ち、美しい女性の姿を取る狐の変化。その身から立ち上る、圧倒的な霊気の波動には戦慄を禁じ得ない。
 かつて天野から聞かされ、自分で調べもしたものみの丘の妖狐伝説。だけど、その具現たる真琴には、災厄を齎すなどという大それた力は微塵も備わってはいなかった。
 では、何故そのような伝承が生まれ、現代まで語り継がれてきたのか。その答えが今、わたしの目の前にあった。
「申し遅れました。わたくし、白面金毛九尾の狐、玉藻前と申します。たまも、とお呼び下さいね」
 そう言ってぺこりと頭を下げる少女。その顔には、伝説の大妖怪とは思えない無邪気な笑顔が浮かんでいた。
 白面金毛九尾の狐。日本三大妖怪の一角にして、数千年を生きると言われる正真正銘の化け物だ。
 その力は八万もの軍勢を退け、滅ぼされた後も妖石となって瘴気を放ち続けることで近づくものを等しく減殺したと言われる。その妖石、殺生石は遠い昔にある僧によって砕かれたと伝えられているけれど、全国に散らばったその破片がその後どうなったかまでは分からない。
 そもそも、玉藻前の伝説自体、表では御伽噺とされているくらいなのだ。
 だけど、たまもと名乗るこの少女が、桁外れの力を持っていることだけは紛れもない事実だった。少女の手の中で尋常ではない邪気を放つその石も、彼の殺生石の破片というのであれば、頷ける。
 破片が霊核というのは、おそらくそれを中心にこのあたりの地脈から霊気を吸収して、身体を再構成でもしたのだろう。歴史に名を残す程の大妖怪なら、その程度のことは出来るはずだ。
「わたしを殺さないと言ったな。なら、どうして、あなたはわたしを呼んだんだ」
 強張った表情の下に隠しきれない恐怖が、そう尋ねるわたしの声を微かに震わせる。口調が男言葉に戻っていたけれど、未曾有の大妖怪を前に、そんなことに気を配っていられるはずもない。
「そう怖がらないでください。今のわたしは内包する力こそ全盛期のそれに近いですが、それを振るえるのは極々短い時間に過ぎません」
 あなたなら勝てますよ、と笑って言うたまもに、わたしは聊か毒気を抜かれた。伝説の大妖怪に自分より強いと言われても、喜んで良いのか微妙なところだ。
「さて、なぜ呼んだのかでしたね。お話をする前に、そこで凍死しかけている我が同胞を掘り起こすとしましょうか」
「あ」
 そう言ってたまもは、配下の管狐たちに命じて雪を掘り返させた。程無くして、雪塗れの防寒着姿で目を回している真琴が発掘される。
 ――みかん箱の時と言い、まったく、この子は何をやっているのかしら。
 まあ、いつまで経っても動かないのと、たまものプレッシャーに圧倒されていたせいで、完全に忘れていたわたしも悪いといえば悪いのだけど。
  * * * つづく * * *



事態が進む!
しかも、舞歌の前に現れたのは伝説級の大妖怪。
美姫 「何故、彼女はわざわざ舞歌を呼んだのかしら」
いやー、非常に気になる所だなそれは。
美姫 「次回が待ち遠しいわね」
うんうん、次回も待ってます。
美姫 「待ってますね〜」



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