第四章 終わりの始まり

 

 その日は朝から気温が三十度を超える猛暑となった。

 咲耶は学園への道を美鈴と並んで歩きながらぼんやりと考えていた。

 美雪と融合した影響か、最近は終始奇妙な感覚につきまとわれるようになっていた。

 ……昔の記憶が戻り始めているのだろうか。

 ずっと昔、世界がまだ今とは違う姿をしていた頃の記憶――。

 魂に直接刻み込まれているかのように、それは何度転生を繰り返しても蘇ってくる。

 いい加減、うんざりしていた。

 世界は生まれ変わったのだ。もはやこんな記憶も自分が天使であることも必要ない。

 咲耶は人間でありたかった。

 空を飛ぶための翼なんていらない。わたしはこの足で大地を踏みしめて生きていくのだ。

 あの夜の美雪との出会いを最後の奉仕に咲耶は天使であることを止めた。

 ……平凡でもいい。とにかく普通の女の子として生きたかった。

 そんな彼女を咎めるものもなく、家族は皆新しい生活を応援してくれた。

 何の問題もなく時は過ぎていった。

 出会いと別れを幾つも繰り返したけれど、それは普通に生きていても起きることだ。

 しかし、この頃は普通じゃないことも幾つか体験している気がする。

 京都で魔物の集団に遭遇し、学園では魔族の少女に殺されそうになった。

 あの本のことも気になる。

 あのとき見えたビジョンは蘇生した魂の記憶の一片に酷似していた。

 胸の奥のざわめき。不吉な予感はまだ消えずに残っている。

 その正体も今の彼女にはわかっていた。

 そう、それは狂気だ。どす黒い暗黒の闇。世界の存在を脅かす敵の気配だ。

 ……関係ない。

 わたしはもう天使じゃないんだからこの世界のために戦うこともない。

 そう思っていたのだが……。

 

「おまえとこの世界に危機が迫っている」

 今朝になって突然まことがそんなことを言い出したものだから、咲耶は大いに蒼ざめた。

「どういうこと……」

「聞かなくてもわかっているだろ」

「……あれが覚醒しようとしているんだね」

 重く沈んだ声で咲耶は言った。

「わたし、何もしてないよ」

「ああ、わかってる。だが、奴は確実に目覚めようとしているんだ」

「どうして……」

「誰かがもう一つのほうを動かしているのよ。あなたの覚醒はその連鎖反応ってところね」

 そう言ったのはユリナだった。

「ユリナさん!?

「調べてきたわよ。あなたの言った通りだったわ」

 言いながら彼女はまことの隣に腰を下ろした。

 一体どこに行っていたのか、全身埃塗れになっている。

 その様子に驚きつつ、咲耶は気になっていることを聞いた。

「一体誰が、っていうか、どうしてユリナさんがそのことを知っているんですか?」

「俺が話したんだ」

「お兄ちゃんが?」

 どうして、という顔でまことを見る。

「彼女はパートナーだ。ある程度の事情を知ってもらっておかないと仕事にならない」

「仕事って……」

 ますますわからないという顔をする咲耶にまことは面倒くさそうに訳を説明した。

「時空管理委員会という組織のことは覚えているか?」

「うん。こっちでいうところの国際連合みたいなものだよね」

「そんなところだ」

「で、その委員会とお兄ちゃんたちと何か関係があるの?」

「俺のバイト先だ」

「ええっ!?

 咲耶は思わず素っ頓狂な声を上げた。

「ど、どうしてお兄ちゃんがそんなとこでバイトしてるの?」

「給料がいいからだ」

「へ?」

 思わずきょとんとする咲耶。

「月給五百万だ」

「本当!?

「それでもまだ安い方なのよ。わたしがいた頃は月千三百万はもらってたんだから」

 横からユリナがとんでもない額をさらりと口にする。

「君は魔族だったからだろう」

「あら、力はあなたのほうが上でしょ?」

「あ、あの……」

 咲耶がおずおずと口を挟んだ。

「ユリナさん、魔族なんですか?」

「今は人間よ。こっちに来るときに手続きをして、そうしてもらったの」

「本当ですか!?

 咲耶は思わず目を丸くした。

 天使が翼を放棄することで人間になれるように、魔族もまたその力を封じれば人間になれるという話は聞いたことがある。

 しかし、まさかこんな身近に同類がいたなんて……。

 咲耶はしげしげとユリナの姿を眺めた。

 一級品の美少女には確かに人間離れした妖しい魅力のようなものが感じられる。

 同性の咲耶ですら思わず見惚れてしまうほどだ。

 まことが軽く咳払いをして話を戻した。

「組織は俺たちの知らないところでラグナロクを消滅させようと大規模な作戦を展開していた。最高協議会で決まったことらしいが、当事者を差し置いて勝手なことをしてくれたもんだ」

 まことは怒っているのか、珍しく憤慨した様子でそう言った。

「それで、お兄ちゃんはどうしたの。その様子じゃ、文句の一つも言いに行ったんでしょ」

「ああ、言ったとも。ついでにひと暴れしてこの件に関する一切の権利を剥奪してやった」

「そんなことして大丈夫なの?」

「横暴なのは向こうだからな。そういうのを規制する権利はこっちにあるんだよ」

「へえ、立場もあるんだね」

「俺がただの下働きなんてすると思うか? ラグナロクの件にしても抜かりはないよ」

 まことは任せておけと言わんばかりに笑った。

 神代まことが組織に対して絶大な影響力を持つのは彼が仲介人だからである。

 天魔戦争と呼ばれる長く壮絶な戦いに終止符を打ったのはたった一人の人間だった。

 天使でも魔族でもない。人間が終わらせたのだ。

 終戦直後の復興活動で現場の指揮を執っていたのも人間だった。

 天魔が再び争わないよう、彼らの間には常に仲立ちとなる人間が存在していた。

 そして、それは今でも変わらない。

 美鈴が迎えに来たのはそれから少ししてのことだった。

 夏休みの終わりに開かれる学園祭の準備を手伝う約束をしていたのだ。

 ちょうどまことの話にも区切りがつき、咲耶は急いで支度をして出掛けていった。

 藤宮の人間には気をつけろ。あの女頭首はおまえの翼を狙っているみたいだからな。

 出掛ける間際になってまことはふと思い出したようにそう言った。

 脳裏にあかねの姿が蘇る。優しい人だったと思う。

 彼女が自分を狙うなんて思えないし、思いたくもなかった。

 それに、彼らが敵対しようとしているのはとてつもなく強大な存在なのではないのか?

 ――おまえはいつも通りにしていればいい。

 兄はそう言っていたけれど、果たして本当にそれでいいのだろうか。

 自分は確かに天使を止めたけれど、この世界に危機が訪れるというのなら、それは人ごとではない。

 ――ラグナロク、神の遺産の片割れは自分の中にあるのだ。

「咲耶?」

 美鈴が呼んでいた。

 その声で咲耶の意識は現実へと引き戻される。

「何かあったの」

「え、どうして?」

「だって、あなたすごく思い詰めたような顔をしていたから」

「何でもないよ。ちょっと、疲れているだけ」

「本当に?」

「本当だよ。だから、そんな心配そうな顔しないで」

「なら、いいんだけど」

  * * * *

 その日も学園内は騒然としていた。

 月末に開催される学園祭の準備が大詰めを迎えているからなのだろう。

 窓から見える景色の中には運動部員の外に制服姿もずいぶんと目立つ。

 賑やかな喧騒を少しだけ遠くに聞きながら、藤宮あかねはまた溜息を吐き出した。

 もう何度目になるかわからないそれはひどく重たく執務室の床に沈んで消える。

 あまり眠っていないのか、彼女の顔には深い疲労の色があるようだった。

 ……憔悴と焦燥。

 問題は何も解決しないまま、謎と仕事ばかりが増えていく。

 表の仕事は各社の長に任せるとして、問題は裏の仕事である。

 ヘルメースの崩壊によってもたらされた被害は予想以上に深刻だった。

 一見、東京の街は種類の異なる五つの結界によって五重に包囲されているように見える。

 だが、実際に張られているそれは五つで一つとなる特殊な結界だ。

 崩壊したヘルメースは東京の街を覆う結界を制御するためのシステムの一つだったが、塔の崩壊とともにその機能は失われ、既に郊外では魔物どもの侵攻が始まっている。

 他の塔にも影響が出始めており、結界が完全に消失するのはもはや時間の問題だろう。

 そうなれば、溢れ出した狂気によって東京中が大混乱に陥ることは必至だ。

 彼女はこの二十年間、罪を償うことだけを考えて生きてきた。

 そして、ようやくそのための方法を見つけたのだ。

 それも結界が消えれば無駄になってしまう。

「かずみ」

 あかねは側で書類整理をしていた若い秘書官に声を掛けた。

「結界魔法陣の再構築には後どれくらい掛かりそうなの?」

「マニュアル通りにやるのなら最低でも半月は掛かります」

「十日、いえ、三日でやらせなさい」

「不可能です」

「手順B04からB29、C11からC33をまとめてX07で代行させればいいわ」

「それでは結界師達に掛かる負担が大きくなりすぎます。並の人間では耐えられませんよ」

「MPブースターの使用を許可します。それからC34以下のすべての手順を省略しなさい」

 言いながら自分でも無茶苦茶だと思った。

 かずみにしてもこんな乱暴なやり方は聞いたこともないはずだ。

 だが、これならば確かに三日で済ませることも可能だろう。

 かずみは直ちに専用回線を開き、作業中の関係者にその旨を伝える。

「それからもう一つ、これはあなたに直接お願いしたいのだけど……」

 回線を閉じたかずみに向かってあかねは少々躊躇いがちに口を開いた。

「もう一度彼に頼んでみてもらえないかしら。この際手段は問わないから」

「……わかりました」

 こちらも僅かに躊躇したような様子を見せた後、かずみはいつもの無表情で部屋を出ていった。

 その背中を見送りつつ、あかねはまた溜息を漏らす。

 彼は世界の魔術師連合が認める現代最強の魔術師だ。

 そして、二十年前に彼女の命を救った天使の血と力を受け継いだ存在でもある。

 だからこそ、巻き込みたくはなかったのだ。

 あかねには見えていた。

 吐き気を催すほどにどす黒い血の気配。その強大な狂気に並みの力で太刀打ち出来るとは到底思えない。

 だが、あの力、あらゆる闇を打ち払う天使の光ならあるいは……。

 よもや、再びあの力に頼ることになろうとは思わなかった。

 最前線に押し出そうなんて考えてはいない。

 ただ、切り札として手元に置いておきたいのだ。

 それでも彼女は怒るかもしれない。裏切り者と罵られるのなら、それも仕方ないと思った。

 可笑しな話だ。

 ずっと独力で生きてきた自分がこんなにも誰かを頼りたいと思っているなんて。

 本当は前からそうだったのかもしれない。

 頼りたくても頼れる人がいないことが寂しくて、誰も頼らないと強がっていた。

 ただ、それだけ……。

 かずみは上手くやってくれるだろうか。

 彼女は優秀だが、時々抜けているところがあるから心配にならなくもない。

 いざとなったら、この命をぶつけてでも何とかしてみせる。どうせ惜しまれない命だ。

 くたばるなら、せめて償ってからにしたい。次の世に罪は持っていきたくないから……。

   * * * *

 学園の裏に普段はほとんど人の近づかない小高い丘がある。

 ――眠りの丘。

 地元の人間は皆そう呼んでいる。

 まるですべてが眠ってしまったかのような静寂が常に立ち込める奇妙な場所だ。

 大抵の人間は気味悪がって近づかないが、まことはそれなりに気に入っていた。

 たまに本当に一人になりたいとき、ここはそんな望みを叶えてくれる。

 丘の上野一際大きな大木の幹にもたれてまことは少し考え事をしていた。

 ……封印が解け始めている。

 過去の記憶。そして、もう一つの封印も。

 ゆっくりとだが、確実にそれは咲耶の身に起きている。

 あまり歓迎したくないことだが、かといって再び封じてしまう気にもなれなかった。

 それではまた先送りにしてしまうだけだ。

 魂は時の彼方で再び巡り会い、悲劇を演じることになるだろう。

 過去の因縁などに興味はないが、それであいつが救われるのなら……。

「……やるしかないか」

 決意を確かめるように呟くと、まことは凭れていた木の幹から背中を離した。

 二、三歩離れてから振り返って大木の上に声を掛ける。

「おい、俺はもう行くぞ」

「待って」

 ガサっ、と葉の擦れる音がして、少女が飛び降りてきた。

 七歳前後の赤毛の少女。名は確か、ルビッカと言ったはずだ。

「君か。どうしたんだ、こんなところで」

「あなたを探していたんです。この間のこと、謝ろうと思って……」

「それだったら、俺なんかよりあいつに謝ってやるんだな」

「それは、そうなんですけど……」

 もごもごと口篭もってしまうルビッカ。

 散々殺そうとしておいて、今更どんな顔をして会えばいいのか彼女にはわからない。

 そんなリビッカの心中を察したまことは優しい口調で言ってやる。

「ちゃんと謝るって約束出来るのなら、俺がセッティングしてやるよ」

「本当に?」

 思わず顔を上げて聞き返すルビッカ。

「自慢じゃないが、女の子に嘘をついたことはないんだ」

「でも……」

「大丈夫。あいつだって話し合いの出来ないほどガキじゃないさ」

 それもそうだと思った。

「約束してくれるな?」

「うん」

 彼女がはっきりと頷いたのを確かめると、まことは満足げに笑った。

 

 少女は委員会から派遣されたエージェントだった。

 ラグナロクの覚醒と消滅を促すべく、神代咲耶を危険に曝せとの命令を受けていた。

 話を聞いたまことは怒りを通り越してただ呆れた。

 大方、上野連中が痺れを切らしたのだろうが、そのためにこんな少女を逆境に立たせるなんて信じられなかった。

 必ず今の任を解かせると約束してまことは少女を自分の世界に帰らせた。

 ――そして、その翌日。唐突に作戦は中止となった。

 参加していたメンバーは全員が正規の任務に戻され、こちらの世界に派遣されていたものについては別命があるまで待機せよとのことだった。

 

「それ、何ですか?」

「携帯電話。遠くにいる相手と話が出来る人間の作った機械だよ」

 不思議そうに見ているルビッカにそう説明しながら、まことは短縮ダイヤルのボタンを押した。

 三回目のコールの後、自宅の電話に出たのはユリナだった。

 二、三、伝言をして電話を切る。それから腕時計に目をやってまことは呟いた。

「まだ少し早いか。……ルビッカ。この後何か予定はあるのか?」

「いえ、特にはありませんけど」

「なら、俺についてくるといい。せっかくだから、少し人間の街を案内してやるよ」

 携帯をポケットにしまいつつ、まことは傍で見ていたルビッカに向かってそう言った。

   * * * *

 時は慌しく過ぎて、気がつけばもう夕方になっていた。

 学園祭の準備をしていた生徒たちも一人、また一人と帰路についていく。

 作業に一段落ついた咲耶もまた美鈴とともに帰り支度を始めていた。

 互いに労いの言葉を掛けながら向かった先は行き付けの喫茶店だ。

 そこで手伝ってもらったお礼にと美鈴の奢りで軽くお茶してから、二人は神代宅へと向かう。

 玄関に上がり、咲耶がただいまと声を掛けると、返ってきたのはユリナの声だった。

「お帰りなさい。あら、あなたは今朝の……」

 美鈴の姿を見てユリナは愛想のいい微笑を浮かべた。

「わざわざ送ってくれたの」

「いえ、わたしもこちらに用がありましたから。あの、あなたは?」

 エプロン姿のユリナを少し不審そうな目で見ながら美鈴は尋ねた。

 そういえば、今朝は顔を合わせていなかったんだなと咲耶はそのことを思い出す。

「わたしは如月ユリナ。事情があってこの家に居候させてもらっているの」

「如月……。それじゃあ、あなたがあの神代先輩の恋人なんですか!?

 思わず頓狂な声を上げる美鈴。

「ちょっと、美鈴。そういうリアクションは失礼だよ」

 自分のことを棚に上げて突っ込む咲耶。

 そんな二人の様子をユリナは微笑ましげに見ていた。

「二人とも上がって。お夕飯の支度出来てるの。天野さんもよかったら一緒にどうぞ」

「いいんですか?」

「今日はいつもより多めに作ってあるから大丈夫よ」

 そう言うとユリナは二人をリビングへと通し、自分はキッチンに戻るのだった。

 彼女が来てからというもの、家の中のことは二人で分担してやるようになっていた。

 おかげで咲耶は随分と楽になった。何しろ自由に使える時間がぐんと増えたのだ。

 好きなマンガを描く時間も増え、今は冬コミ用の新作に取り掛かっている。

「そういえば、お兄ちゃんは?」

 姿の見えない兄を探して咲耶はキッチンで鍋を温めているユリナに声を掛けた。

「まことなら出掛けてるわよ。どこへ行ったかは聞いてないわ」

「そうですか……」

「お夕飯までには戻るって言ってたから、もうすぐ帰ってくるんじゃないかしら」

 ミトンをはめた手で鍋を運びつつ、ユリナがそう言ったちょうどそのときだった。

 がたんっ。

 玄関の方で何やら物音がした。

 まことが帰ってきたのかと思ったが、それにしては様子がおかしい。

 彼は無愛想だがそれでも帰ってくればただいまの一つくらいは言う。

 ……がたんっ。

 また聞こえた。今度は庭の方からだ。

「何かしら?」

 テーブルの上に鍋を置き、ユリナが窓に近づいたそのときだ。

 突然彼女の目の前で何かが爆発した。

   * * * *

 ショッピングセンターを一回りして帰路についた。

 いろいろなものを見て回って、ソフトクリームも食べた。

 ルビッカが歩くことに疲れたと言えば、人目も気にせず負ぶってくれた。

 こちらとしては少し恥ずかしかったのだが、それ以上に彼の不器用な親切が嬉しかった。

 ルビッカは本当に久しぶりに心の底から楽しいと感じられたような気がした。

 まことの大きな背中に揺られていることがたまらなく心地よい。

 もしも、自分に父親というものがいたならば、こんな感じなのかもしれない。

 そんなことを考えつつ、うとうとしていたときだった。

 唐突にはるか遠くで聞こえた爆発音にルビッカは慌てて飛び起きた。

 見るとまことも表情を強張らせ、じっと音のした方を見ている。

「今の、何!?

「家の方角だ」

 そう言ったときにはまことはもう駆け出していた。

 危うく振り落とされそうになり、ルビッカは必死にしがみつきながら叫んだ。

「方角を教えて。転移したほうが早いよ」

 まことは立ち止まり、手でルビッカに方角を示す。

「距離は?」

「直線にしておよそ一キロ。でも、気をつけろ。飛び過ぎるとうちの結界にぶち当たるぞ」

 まことが答えるが早いか、二人の体は宙に浮び上がっていた。

 人が見ているかもしれなかったが、そんなことまで気にしている場合ではなかった。

 足元に出現した魔法陣が放つ強力な閃光とともに二人はその場から転移した。

 

「ユリナさん!」

 慌てて駆け寄ろうとした咲耶をユリナは鋭い声で制した。

「きちゃダメよ」

 そう叫ぶユリナは反射的に張った結界のおかげで辛うじて無事のようだった。

「へえ、今のタイミングで結界を張れるなんてすごいじゃないか」

 立ち込める黒煙の向こうから聞こえてきたのは声変わり前の少年の声だった。

 小柄な影がゆっくりと近づいてくる。

「二人ともそこを動かないでね」

 そう言うと、ユリナは二人をリビングに残して外へ出た。

 敵が何者かは知らないが、主人のいない間に家を荒らされたのではたまらない。

 留守を預かるものとしては、これ以上被害が拡大する前に撃退するのが筋というものだ。

 ユリナはいきなり敵目掛けて光の衝撃波を放った。

 攻撃兼目くらまし。更に結界によるリバウンドを利用して背後から敵を襲う。

 一度かわした途端、後ろから……という奴である。

 だが、攻撃は二回ともかわされた。

 跳ね返ってきた衝撃波を手の中に吸収しつつ、ユリナはリビングに転がり込んで敵の反撃をかわす。

 ほとんど同時にたった今まで彼女が立っていた場所に光弾が炸裂し、その側に現れた人影を火柱が呑み込んだ。

 前者は敵の反撃、後者は後退と同時にユリナが仕掛けた魔法である。

 彼女がぎりぎりで回避したのに対して、直撃を受けたはずの敵はまったくの無傷だった。

「助太刀します」

 美鈴が死角から発砲した。

 愛用の九ミリオートから発射されたハローポイント弾が鋭く宙を切る。

「そんな玩具じゃこの僕は殺せないよ」

「だったら、これはどうかしら?」

 言いながら美鈴は懐からグレネード弾を取り出した。

「何、それ?」

「爆弾」

「へ?」

 咲耶は一瞬耳を疑った。

 構わず美鈴はそれを放り投げ、同時に少年が右手を前に突き出した。

 さすがにこれはまずいと思ったのか。

 グレネード弾が一瞬にして凍りつき、二人の間にぽとりと落ちる。

「邪魔をしないでよ。僕が用があるのはそっちの銀髪の君だけなんだからさ」

「この子に手は出させないわ。あなたこそ、おとなしく出て行きなさい」

 咲耶の前に立ってユリナが叫ぶ。

 そんな彼女の姿に咲耶は思わず見惚れてしまった。

 学園で助けられたときにも思ったが、今のユリナはとても凛々しく、力強い。

 声援の一つも送りたいほどだが、さすがにそんな場合ではなかった。

 咲耶は考えた。

 自分も戦闘に加わるべきだろうか。見たところ、相手は相当の使い手らしい。

 対して自分は素人だ。下手に手を出せばユリナたちの足手まといになりかねない。

 ここは黙って見守っていよう。大丈夫、二人とも強いのだ。それに……。

 咲耶の視線は少年の背後に音もなく降り立った人影へと向けられていた。

 人影はゆっくりと歩み寄り、その掌を少年の背中に押し当てる。

 少年の小柄な体がびくんと震えた。だが、もはや遅過ぎた。

「人様の家でずいぶんと好き勝手やってくれたもんだな」

 底冷えするほど冷たい無機質な声で男――神代まことはそう言った。

 続いて見覚えのある少女が彼の背中から飛び降りる。

「これはどういうこと」

 ルビッカは腰に手を当てて少年を睨んだ。

「大人しく答えればそれでよし。妙な真似をすれば即刻爆殺するからな」

「くっ」

 まことのシャレにならない一言に少年は小さく呻き声を漏らす。

「さあ、答えてもらおうか。おまえが何物で何の目的でこの家を襲ったのかを」

「……は……」

「もっとはっきり言え」

「僕は……」

 呻くように言いかけたかと思うと、少年はまことの鳩尾に鋭く肘鉄を叩き込んだ。

「なっ!?

 まことは鳩尾を押さえてよろめいた。

 その一瞬の隙を突いて少年は宙に舞い上がる。

「戦場では少しの油断も命取りになるんだよ。覚えておくんだね」

「くっ」

 悔しげに歯を食いしばるまこと。

「まあ、挑んできた度胸に免じて今日はこれくらいにしておいてあげるよ」

「このっ!」

 嘲るように見下ろす少年に向かって美鈴が三十八口径のリボルバーを発砲した。

 だが、そんなものが通用するはずもなく、弾はあっさり虚空で粉砕される。

「決着はまた今度。次は確実にやらせてもらうからお楽しみに」

 そう言い残すと少年はふっと虚空に溶けて消えた。

「そういえば、名前を言っていなかったね。僕はフェンリル。滅びを告げるもの。またね、ヘリオスの亡霊君」

 少年の声だけが不気味にこだましていた。

 

「あいつ、自分が誰を敵に回したのかわかってるのかな」

 ルビッカが呆れた調子で言った。それから咲耶の方に向き直る。

 咲耶は反射的に身構えた。攻撃に備えて手に魔力を集中させる。

「待って、今日はあなたを襲いに来たわけじゃないの」

 少女の言葉に咲耶は思わず動きを止めた。

 じっとその目を凝視する。鮮やかな赤い瞳が不安げに揺れていた。

「咲耶、この子は謝りにきたんだ」

 まことが二人の間に入ってそう言うと、咲耶は驚いたようにルビッカを見た。

「許してなんて言うつもりない。ただ、一言謝りたくて。……ごめんなさい」

 そう言ってルビッカは頭を下げた。

 事情はまことが説明した。

 咲耶は神妙な面持ちでそれを聞いていたが、やがてすべてを聞き終るとその内容に憤怒した。

「本当にごめんなさい。

 夕食の席にて、ルビッカは改めて謝罪の意を表した。

 あの後、五人はリビングからダイニングへと移動していた。

 戦場となったリビングはかなり悲惨なことになっており、とても落ち着いて話の出来る状態ではなかったからだ。

 いつもの食卓に美鈴とルビッカも加わって五人で囲んだテーブルの上では芋炊きの鍋が音を立てて煮えている。

「いいよ、もう。別にルビッカが悪いわけじゃないんだから」

 あつあげを皿に取りながら咲耶は笑ってそう言った。

「でも、あのフェンリルって奴の言っていたことは気になりますね」

 美鈴が言った。彼女は大きな芋を苦労して飲み込みながら難しい顔をしている。

「君が気にする必要はないよ。これは俺たちの問題だからな」

「いいえ、そうはいきません。わたしだって、咲耶の友達なんですから」

 美鈴は少しムッとした調子でまことを睨んだ。

「友達か。じゃあ聞くが、その友達のために命を投げ出す覚悟が君にはあるのか?」

「それは……」

「中途半端な気持ちで臨めるほどこの現実は簡単じゃないし、あまくもない」

「…………」

 沈黙する美鈴。

 まことは少し疲れたように溜息を漏らした。

「ねえ、まこと。敵に心当たりはないの。相手はあなたのことを知っていたみたいだけど」

 ユリナの問いにまことは一つ頷いた。

 ――ヘリオスの亡霊。

 彼がその名で呼ばれなくなってからどれだけの時間が過ぎただろうか。

 天魔戦争を終結させた人間の名前として、その名は天魔両方の間で広く知られている。

 だが、まことがその生まれ変わりだという事実を知っているのはごく限られた存在だけだ。

 しかも、その中で自分と敵対する理由を持つものといえば一人しかいない。

「……いつか仕掛けてくるとは思ってたんだがな」

「あまりいいタイミングとは言えないわね」

「いや、ちょうどいいさ。この際だから全部に決着をつけてやる」

「そんなに上手くいくかしら」

「いざとなったら切り札を使えばいい。大丈夫、俺と君が組めば世界最強だ」

   * * * *

 ……感じる。欲望に満ちた暗黒の意志の鼓動。

 美しく汚れたその力は最期の決戦の舞台を演出するに相応しい。

 きっちり利用させてもらうよ。

 すべては忘れられし者たちのために……。




       * * *

        あとがき。

       龍一「というわけで、紅翼の堕天使〜やすらぎの丘〜第四章をお送りします」

       咲耶「ずいぶんと久しぶりの投稿じゃない。てっきり忘れられちゃったのかと思ったよ」

       龍一「本当はもっと早く送りたかったんだけど」

       咲耶「はいはい。言い訳はいいからさっさと次を書きましょうね」

       龍一「分かったよ。ってなわけで、今回のあとがきはここまで」

       咲耶「またずいぶんと短いわね」

       龍一「しょうがないだろう。ネタが浮かばないんだから」

       咲耶「はぁ、そんなことで大丈夫なの?」

       龍一「えー、では、時間も押して参りましたし、今回はこのあたりで。また次回でお会いしましょう」

       咲耶「ねえ、ちょっと!」

        




少年、フェンリルは一時的にその場を去る…。
美姫 「でも、当然、これで終わりじゃないわね」
いよいよ、物語も中盤から終盤へと。
美姫 「まことの言う切り札とは…」
ああ〜、次回が待ち遠しいよ。
美姫 「そうよね〜。大人しく、次回を楽しみに待っていましょう」
だな。それでは、今回はこの辺で。
美姫 「じゃ〜ね〜」



頂きものの部屋へ戻る

SSのトップへ