終章 この羽根に託す想い
* * * * *
――東の空がまだ薄い暗がりの中に沈んでいる頃。
眠りの丘の巨木の前に一人の男が立っていた。
年は四十の半ば程だろうか。ひどくくたびれた風貌をしている。
端の解れたボロボロのマントを風に靡かせながら、男は静かに巨木を見上げている。
男の隣には二人の少女が立っていた。
一人はルビッカ。そして、もう一人は茶色い髪の少女だった。
二人とも紺の軍服のような衣装に身を包んでいるのだが、どちらもあまり似合っているとは言えなかった。
「もういいんですか?」
男が振り向いたのを見て茶髪の少女が尋ねた。
「ああ、もう気は済んだからな」
「本当にいいんですか。きっともう二度と会えませんよ」
責めるような口調で尋ねるルビッカ。
男は無言でそれに頷いた。それから茶髪の少女に目を向ける。
「一条蓮、いや、今は天野美鈴だったか」
「どっちでもいいわ。我々魔族の間では名前なんてただの識別コードでしかないんだから」
「そのわりには気に入っているようだが」
「天野美鈴は特別なのよ。だって、これは彼女がわたしを呼ぶときの名前だから」
そう言うと美鈴は恥ずかしいのかそっぽを向いてしまう。
「すっかり人間らしくなったな。恥らう姿もなかなかかわいいじゃないか」
「う、うるさい」
そう叫ぶ美鈴は耳まで真っ赤になっていた。その様子を見てルビッカがカラカラと笑う。
「おまえもだルビッカ。よく笑うようになった」
「わたしはもう人形じゃない。彼がそう言ってくれたから。やっと止めれた」
「そうか、……そうだったな」
男は安心したように小さく息を漏らした。それからふと真顔になる。
「おまえたちは本当によくやってくれた。改めて礼を言わせてもらうぞ」
「勘違いしないで。わたしはあの子のために出来ることをしただけなんだから」
そう言うと美鈴はくるりと踵を返した。
「ほう。それで、納得のいく結果は得られたのかな」
「……………」
彼女は答えない。男はその沈黙を肯定と受け取ったのか、満足げに笑った。
「さあ、おまえたちはもう行くがいい。ここは新たな出発を迎えるものには不要な場所だ」
男の言葉にルビッカが頷き、美鈴が歩き出す。
二人が去った後、男はまたしばらく巨木を見上げていた。
* * * * *
その日も神代家の朝は慌しかった。
よりにもよって全員が寝坊してしまったのだ。
朝食もそこそこにまことと咲耶は家を飛び出し、学校へと向かう。
「まったく何でちゃんと起きられなかったんだよ」
「だって、昨夜は中々寝つけなかったんだもん」
「嘘つけ。おまえがルビッカと遅くまでだべってたのを俺が知らないとでも思ってるのか」
「うっ。そ、そういうお兄ちゃんこそ、どうして起きられなかったのよ」
「仕事だよ。明け方までユリナと二人で委員会に提出する報告書を書いていたんだ」
「そんなこと言って、また二人でいやらしいことしてたんでしょ!」
「バカ言ってる暇があったら走れ。もうぎりぎりの時間なんだからな」
「あっ、待ってよぉ」
歩を早めたまことの後を追って咲耶も駆け足になる。
――フェンリルの昇天から数日が過ぎていた。
魔物との戦闘で破壊された街は人々の手によって少しずつ以前の姿を取り戻しつつある。
学園では少し遅れて二学期が始まっていた。
教師陣が何とか遅れを取り戻そうと躍起になる中、生徒たちの関心は専ら事件のことに集中していた。
何しろあれだけのことが起きたのだ。しかも、マスコミはそれを一切取り扱わなかった。
噂ではどこかの組織が隠蔽工作を行なったらしいが、真相は定かではない。
* * * * *
――そして、男はまだ巨木の前に立っていた。
男の命は尽きかけていた。
本当はとっくの昔に死んでいるのだが、執念が魂を地上に引きとめていたのだ。
それももう終わる。
彼はすべてを見届けたのだ。このまま一人で逝くつもりだったのだが、邪魔が入った。
その女は無遠慮に近づいてくると男の隣に並んで巨木を見上げた。
「ここはあのときから変っていないわね」
「そうだな……」
呟くようにそう言った女の言葉に男も頷く。
「見送りにきたの。あなたはもう逝ってしまうんでしょ」
「ああ」
男はまた小さく頷いた。
「最後に一つ聞かせてくれないか。どうして君はあれを使わなかったんだ」
「コスモリヴァイアのこと?」
「フェンリルと融合したカオティック・ロードに対抗するには有効な手段だったはずだが」
「動かせなかったのよ。やっぱりっていうか、彼女が許してくれなかったわ」
それを聞いて男は思わず苦笑した。
「世界は未来に向かっているんだ。君もいい加減、過去に拘るのはやめたらどうだ」
「でも、わたしは……」
「罪人か。自分の人生を棒にするのも十分に罪なことだと思うんだがな」
そう言った男の体が徐々に薄れ、やがて青い炎に包まれて消える。
「……自分の人生、か。そんなものを語る資格がわたしにあるのかしら」
男の昇天した空を見上げ、まだそこにいるかもしれない親友に向かって問い掛ける。
女はそのまましばらく空を見ていたが、やがて近づいてくる人の気配に気づいて姿を消した。
* * * * *
神代兄妹は結局始業時間には間に合わず、そのままさぼりを決め込んだ。
まことは学園内を素通りしてあの場所へと向かっている。
その後ろには小言を漏らしながらも咲耶がしっかりとついてきていた。
二人でここに来るのは初めてのことで、咲耶はこんな場所だったんだとしきりにあたりを観察しながら歩いていた。
やがて二人は丘の上の巨木の前で足を止めた。
大人が何人も手を繋いでようやく抱えきれるその木は見上げただけで圧倒されそうだ。まことは愛用のフルートを取り出すといつもの曲を演奏した。
それは子守唄だった。
必死に幸福を求めながらもそれを手にすることなく死んでいった者たちに、せめて安らかに眠れるようにとの祈りを込めて、彼はその曲を吹いている。
咲耶は意外な兄の一面に驚きつつ、その美しい音色に耳を傾けていた。
「魔物がどうやって生まれるのか知っているか?」
一曲吹き終わると、まことは不意にそんなことを聞いた。
咲耶は知らなかったので正直に首を横に振る。
「あれは人の心の闇が実体化した姿だ。悲しみとか憎しみとかそういった負の感情から魔物は生まれる。奴らは皆自分を生み出した心の元に帰ろうとするんだ。けれど、人間ってのは臆病だからそれを拒んでしまう。拒まれた連中の末路ってのは悲惨なものだ。そのまま消滅するものもいれば人を憎んで逆襲するものもいる。フェンリルもそういった魔物の一人だったのかもしれないな」
そう言うと、まことは何となく空を見上げた。
その横顔がひどく悲しげなものに見えて、咲耶は思わず口を開いていた。
「フェンリルは最期にわたしに言ったの。君の夢を叶えてって」
「おまえの夢?」
「そう。マンガ家じゃなくて、もう一つのほう。お兄ちゃん、覚えてる?」
「ああ、もちろん」
「ずっとそう出来たらいいなって思ってた。わたしの翼はそのために使うんだって。きっと、フェンリルも同じだったんじゃないかな。あの子は悲しい目をしてたけど、それは世界を憎んでる目じゃなかった。だから、もしかしたら分かり合えるんじゃないかって」
「だからあの夜、おまえは一人であいつのところへ行ったのか」
呆れたようにまことが言った。
「ごめんなさい。でも、あの混沌の力とはわたし自身の手で決着をつけておきたかったの」
「気持ちはわかるが、無茶をするんじゃない。もうそんな力は残ってなかったんだろう」
「全部お見通しなんだね」
咲耶は少しはにかみながらそう言った。
まことの言う通り、あのときの咲耶の翼には微かな奇跡を起こす程度の力しか残されてはいなかった。美雪の協力がなければ、あそこまでたどりつけたかどうかも怪しい。
そう思うと、改めて礼を言わずにはいられなかった。
今のわたしはあなたの翼。主の意志に従うのは当然のことです。
もう、美雪ちゃんは律儀なんだから。契約は形だけって言ったはずだよ?
いいえ、従わせていただきます。……あなたはわたしにもう一度生きる機会を与えてくれました。一緒に生きようと言ってくれました。友達になろうって……。だから、わたしはあなたの翼でいたいんです。友としてあなたの進む道を一番近くで見ていたいんです。
まるで愛の告白をする乙女のように美雪は必死に訴える。
その様子に少し圧倒されながらも咲耶は優しく頷くのだった。
――ラグナロク。
それはこの世界を創りし神の亡霊。
無限の時の流れの中で繰り返される破壊と再生のサイクルを円滑にするためのシステム。
それを守り続けてきたのは神に最も忠実とされた天使とその娘だった。
彼女たちは自身の死が未来への扉を閉ざさぬよう、記憶とともにその力を自らの魂の内へと封じ、幾度も転生してはその任を果たし続けてきた。
忠実といえば聞こえはいいが、所詮は過去への執着でしかない。
そんなものに心を縛られていたのでは前に進むことは出来ない。
当事者の誰もがそのことに気づいていた。
いつまでも失われた世界の柵に囚われている必要はない。
今の世界に生きるすべての存在には未来を選び取る権利があるのだ。天使にも魔族にもそして、人間にも……。
誰も悲しむことのない世界。誰もが幸福を掴み取ることの出来る世界。
いつか辿りつく未来がそんな場所であるように。
そして、一人でも多くのものがそこへと辿りつけるように。
残された力のすべてをたった一枚の羽根に託し、咲耶はそれをはるかな空へと解き放つ。
羽根は微かに秋の香りの混じった風に乗って舞い上がり、高く高く昇っていった。
END
* * * * *
* あとがき
龍一「紅翼の堕天使〜やすらぎの丘〜、これにて完結です」
咲耶「お疲れ様〜。それじゃ、さっそく次へ行きましょうか」
龍一「…………」
咲耶「あれ、どうしたの?」
龍一「少しは休ませてくれよ」
咲耶「嫌」
龍一「嫌って、おまえな」
咲耶「わたしが読みたいの。だから書きなさい」
龍一「既に命令ですか」
咲耶「いいからさっさと書く。読者を待たせるようじゃ到底プロになんてなれないわよ」
龍一「うっ、ゴールデンウィーク中には新しい連載を開始するからそれまで待って」
咲耶「しょうがないわね。ちゃんと書くのよ」
龍一「へいへい」
咲耶「それでは、今回はこのあたりで。ここまでお付き合いいただいた方、お読みいただきありがとうございました」
龍一「今後も読者の方に楽しんでいただけるものを作れるよう精進していきますのでよろしくお願いします」
ではでは。
遂に完結してしまった…。
美姫 「お疲れ様でした〜」
最後の羽根が舞っていくシーンは良いな〜。
美姫 「かなりお気に入りのシーンよね」
うんうん。あれは、良いよ。
と、連載、お疲れさまでした。
美姫 「次の連載も楽しみに待ってますね」
ではでは。