『聖りりかる』








第26章 〜他愛なき衝突〜







 朝、高町家。



ドタドタドタッ



 埃一つない丁寧に掃除されたフローリングの床を、荒々しい音を立てながらレーメが走る。その形相からは怒りがありありと見てとれ、その視線は何かを探すように忙しなく屋内を行き来していた。その眼が捉えんとしている標的は、例によって例の如く……まあ、いつも通りに『何か』をやらかしたナルカナであることは、事情を知る者達にとって当然のことであり、その彼女がレーメからの追求を逃れる為に既に逃げているであろうことは、彼女の性格を考えれば事情を知らずとも分かりそうなものである。幸いにも高町家の面々は全員が既に起床し、一日の準備を始めている時分であり、レーメの蛮行による影響はさして出てはいなかった。

 とはいえ、この行為が余人にとって迷惑である事が変わるわけではない。珍しく寝起きが悪くなっている望は、朝っぱらから忙しないレーメに対するフラストレーションを沸々と溜めこんでいた。

「………元気だね、レーメちゃん」

「…目的がある時は意識をハッキリさせやすいらしい。今は俺の方が寝醒め悪くなってる」

 なのはと並んで歯を磨く望が、普段より二段ほど低音で答える。濁り果てて据わりきったその眼に、今朝がた誰もが小さく悲鳴を上げたのが流石にショックだったらしい。

「にゃはは……」

「まぁ、そろそろ静かにさせようかとは思うけどね」

「お、お手柔らかにね……あ、そだ! レーメちゃん、ナルカナさんならなのはが起きた時にさっさと出かけちゃってたよ?」

「またかあやつめぇ!」

 屋内を万遍なく蹂躙していたレーメの両足は、洗面所から告げられたなのはの情報によってその場での地団駄に運動をシフトチェンジさせる。当然そんな動きでレーメ自身のフラストレーションを発散させることなどできよう筈もなく、



どごん!!




 ほかの住人にとって迷惑にしかならないその行為は、望からのオーラフォトンがふんだんに籠められた拳骨で中止させられる運びとなった。



「……いいなぁ…」








〜〜〜〜〜






「それじゃみんな、今日のご予定は?」

 朝食の席、桃子から発された極まり文句に近い言葉を皮切りに、それぞれの予定情報を交換してそれを己が予定の内に組み込む。この場に居合わせないナルカナの予定と、頭と同サイズのたんこぶを作って机に突っ伏しているレーメのスケジュールは、保護者である望が代理として通達しておいた。普段と大した変化の無い予定を簡潔に予定表に書き込み、メモ帳をパタンと閉じる事で予定の総括と通達を行う。

「……という事で、今日は士郎さんと一緒にフルタイムで入るつもりだから。貴方達は先にお夕飯食べておいてね」

「俺達は翠屋に行かなくても?」

「ええ、恭也も美由希も今日は大丈夫よ。学生らしい放課後を満喫しなさいな……じゃ、行ってくるわね。なのは、途中まで一緒に行きましょうか」

「はーい! 行ってきまーす!」

 桃子はそう告げると、なのはを伴って自宅を出る。ここ最近は親子間でのささやかなスキンシップが増えているようで、このような事が多くなっていた。

 なのは達を見送り、美由希と恭也、そして望(と、後レーメ)が家に残される。美由希は比較的のんびりしても大丈夫なので、食後の余裕からか優雅に冷蔵庫からヨーグルトを取りだしていた。蓋の裏を舐めながら、小さくぼやく。

「アルバイトだって十分に学生らしいと思うんだけどなー……って恭ちゃん、今日って確か…?」

 地味に小遣いの稼ぎ口が失われた事を愚痴りつつ、ふと何かに気づいたかのように恭也を見遣る。見られた恭也もしたり顔で頷き、困ったように眉根を寄せた。

「ああ、示し合わせたかのように休講日だな」

 目玉焼きに胡椒を振りながら、思案顔で恭也が呟く。ここまで巡りあわせが悪くなるものなのかと首をひねるも、残念ながら厳然たる事実として『暇』の一文字が彼の前に立ちはだかっていた。やれ修行だそれ勝負だと大凡の少年少女とかけ離れた青春を送った恭也には、どうにも世間一般における娯楽というものが理解し辛い。
 
 最近でこそ忍という恋人ができたものの、あちらもやはり『逸般人』というジャンルにカテゴライズされる為、世間への隔たりは依然として大きいままである。

 普段であればその忍嬢を逢引に誘うところであるが、残念ながらあちらは普通に講義がある。

「で、結果として純粋な暇人が出来上がった……と」

「…うぐぐ……ふ、普段であれば随分と講義が詰まっておったろう。示し合わせたかの様に休むものなのか?」

「…あー…………」

 ようやくの復活を遂げたレーメが呟いた疑問に、恭也が何処となく嫌そうな顔をする。珍しい反応を見せる恭也の様子に、レーメだけでなく望と美由希も興味を抱く。その場に居合わせた全員の視線を感じた恭也は渋々と口を開いた。



「……一限目の教授と三限目の教授が夫婦だったんだが、一限目の教授が四限目の教授との不倫関係だった事をパパラッチ系のサークルに透破抜きされてな。取材班が夫である三限目の教授に突撃取材を敢行したら……その……三限目の教授が二限目の教授に誘われてスワッピングパーティーに行った事が芋づる式に……な?」



「「「…………わぁ……」」」

 言葉も無い、とはこのことか。尋ねた事を後悔しながら、この場になのはが居合わせなかった事に安堵しつつ、これ以上は聞くまいと口を閉ざした。

「…しかしまぁ」

 一息入れた望が仕切り直し、恭也は今日の予定について再び思索を巡らせる。









「…………どうすっぺかぁ」

「何故なまる」






〜〜〜〜〜






「ほんじゃま、行ってきまーす!」

 美由希の声が玄関から聞こえ、ついに家の中には暇人共だけが残される。その中心たる恭也は未だに何のアイデアも浮かんでいないらしく、首を捻っては戻してを繰り返していた。

「…で、いい加減答えも出ないなら……とりあえず動いてみたらいいんじゃないですか?」

 流石に不憫に思った望が助け舟を出す。その言葉を受けた恭也も、他に何も浮かばないとあれば断る理由などない。幸いにも動きやすい服装のままだったので、思考もそこそこに三人はそのまま道場へと足を運んだ。



 きしり、と僅かな音を立ててレーメが道場へと足を踏み入れた。道場という体を成している以上、その雰囲気は当然のように『和』一色に染め上げられている。キイキイと足音を響かせて出入口から近い側の隅に陣取ると、マナー違反を自覚しながらも座布団と茶菓子一式を用意する。一息つく為に淹れた緑茶から立ち上る湯気の濃さに、まだまだ終わらない寒さを改めて実感した。多少温暖になったとはいえ、まだ暦は春の幕開けを刻んだままである。日陰の寒さは推して知るべし…ましてや道場の造りであれば、それは一入の物がある。

「……まあ、尤も…」



 この寒さには、さらに『別の理由』が存在している事をレーメは見抜いているのだが。



「…何度か吾らも使いはしたのだが、此処は本当に人を鍛える場所なのか?」

「それが目的だから『道場』という名前がついてるんだがな」

「言うておれ。『コレ』が道場だと宣うならば、全国の道場など只の紙木細工になり下がるであろうに……それとも、一々この異常性を指摘せねばならぬのか?」

 足音ひとつ立てずに道場に入った恭也と望を一瞥し、恭也の弁を鼻で嗤う。その表情に望と恭也は顔を見合わせ、苦笑いを向け合った。




 そう、この道場は大凡一般的と思われる道場とは、根幹から違っていた。




 御神の業を修める以上、その造りが一般の道場と同じでは御神の修行に耐える事など不可能である。だからこそこの道場は、基礎からしてとんでもない補強を行っていた。地盤強化は無論のこと、この規模の道場では到底利用しないような鉄筋コンクリートを杭基礎として打ち、御神の動きにも耐えきる造りを実現させる為に衝撃分散に優れた形式を取っている。異常なまでの床の冷えは基礎に利用しているコンクリートの冷たさから来ていた。更に壁は全面に渡って、漆喰の中に直接厚手の鉄板を仕込んである。当然ながら只の鉄板など使用している筈もなく、その鉄板は玉鋼を鍛造して剛性と柔軟さを併せ持たせた特注の品である。流石に天井に同じ物を利用する事は自重や屋根裏の関係などから見送られたが、それでも幾分薄めの鉄板を仕込んでいる。そんな事情が絡み合って、普段から使用しているこの道場そのもののタフネスは、魔獣でも飼うのかと言わんばかりのものであった。

 だがしかし、この道場を何よりも異常たらしめているのはその『床板』にある。



 全面『鶯張り』



 この一言に全てが集約されるであろう。

 元来、士郎が恭也達に伝授している古武術『永全不動八門一派・御神真刀流小太刀二刀術』は御神の裏とされる不破の一族の元、暗殺術の極みとして昇華されて現代にその形を刻み込んだ。その流派の基礎にして絶対の条件である『相手に気取られない』事を至上の命題として、基礎以前の段階でその身の隅々に渡るまで徹底的に『御神の剣士』を叩き込む。御神の教えを受ける者が床板を鳴らすことは、それだけで懲罰の対象となり、また己の未熟を周囲に教えることになる。これほど効率的な修行も無いだろうが、いかんせんこの造りには色々な方面に無茶がかかっている。

「実に恐るべきはその狂気を成しえる左官大工であろうなぁ……」

「子供ながらに、父さんの人脈の強さには俺も驚いたモンさ」

「造りはともかく、恭也さんもそこまで『仕上がってる』とは思いませんでしたけどね」

「……まぁ、道場に入って初日から趣旨を理解して足音消した望君も大概じゃないかな」

「研鑽の積み方が詰まる処まで詰まれば、得てして結果は似た物になるってことでしょう」

「そんなもんか……」

「古流同士のぶつかりともなれば、主戦は肉弾体捌き云々よりも頭脳と眼の先読み合戦になろう。命を削りあう互角の戦いに、体術の要素が重きを置いた例(タメシ)があったか?」

「む…確かに。というか、本当に君達はいくつなんだ……?」

「れでぃーに歳を訊くでないわ小童め!」

 軽い言葉を交わしながら、ストレッチとウォームアップをこなす。が、やはり床が軋む音は一切しない。それでもこの場に居合わせる者はそれが当然の事だと思っている為、あくまでも会話は雑談の域を出なかった。



 ちなみに、完全な余談ではあるが

『床がギイギイ鳴っちゃうからそろそろ建て替えかもだよ、お父さん!!』

 とは、この家の末娘の言である。





〜〜〜〜〜





「……シッ!」

 望が膝を叩き、それを合図に恭也も小太刀のサイズに削られた木刀を手に取る。軽く握りを変えながら、リーチと重心を確かめる。一番馴染む点をそこそこに見極め、恭也は望に向き直った。

「じゃ、一本十秒を三セットかな?」

「え」

「え?」

 恐らくは、と言うよりも確実に、望にその気は無かったのだろう。勝負を持ちかけられた事を、完全に呆けた表情で聞き返す。

「……戦らないのか?」

「…………戦りたいんですか?」

「ああ」

「即答かぁ…」

 自分としては軽く身体を解して、残りは『ビバだらだら』を決め込もうと思っていただけに、完全な不意打ちを食らった気分ではある。一方の恭也は魔法という未知を踏まえても尚、その底を見せない望が胸を貸してくれるものだと思い、地味に闘志を燃やしている。

 その思いの片鱗を感じたのであろう、望は大きく息を吐くと共にスイッチを切り替えた。道場にあった竹刀を二本手にとって、恭也へと向き直る。

「様子見に、三分一本勝負にしましょう。その後にでも」

 そう言い放ち、軽いステップを踏んで床の強度を確かめる。トントンと床板を叩く軽い音がしながらも鶯が鳴かないのは、流石と言うほかに言葉が無い。そんな望を一瞥し、向き合う恭也はただ一言。


「是非も無し…!」


 全身から溢れる歓喜と闘気を抑えきれずに、そう応えた。





〜〜〜〜〜





「考えてみれば、君とまともに戦うのはこれが初めてか」

「確かに、初対面のアレはちょっと違うし、修行の時間も最近はなのはちゃんの特訓がメインでしたからね」

 お互いが手合わせの為の距離を取り、軽く言葉を交わす。特段、決着以外は何かのルールに則る訳でもないので、それぞれに自由な位置を取っている。望は全体を見渡せる隅に陣取り、恭也はオールマイティを旨に道場の中央にその身を置く。その様子を無感動に見つめながら、レーメは緑茶を一啜り。

「三分経つまで吾は口出し無用で良いのか?」

「……そうだな。お互いが我を忘れてそうなら止めてくれ」

「うむ、心得たのだ。キョウヤもそれで良いな?」

「無論だ。よろしく頼む」



 戦いの線引きを交わし、恭也の言葉を最後に、道場に静寂が訪れる。恭也は小太刀を横に構え、やや重心を後ろに置いた受動的な構えを取りながら間断なく望を見据える。対する望は右の竹刀をだらりと下げて、左は逆手持ちにして切先を大きく上に向ける。やや姿勢が低いが、先制とカウンターの両方に応用の効く……言いかえれば、先読みの撹乱に有効な構えを取っている。道場の隅に身を置いたことから、恐らくはカウンター狙いであろう。それを理解しながら、恭也は敢えてカウンター狙いの姿勢を望に晒す。それが望への挑発であることは誰の目にも明らかだ。


 耳が痛くなるほどの静寂の中、ただ時間だけが過ぎる。極限の集中状態による感覚時間の引き延ばしと、己の脈拍が告げる正確な時間の経過。

 対峙するだけで既に汗が噴き出す。

 たった数秒の間に喉が干上がる。

 それでも眼光が緩む事はなく、その鋭さを更に増して相手へと容赦なく叩きつけていく。


 それほどの緊張に投じられる、無慈悲の一石。決闘に於けるコイントスよろしく、その一音は道場内にいやに大きく響き渡った。




ぱりっ




 レーメが噛み砕いた煎餅の音を合図に、二人の影が道場から掻き消える。互いの得物が叩きつけられる轟音が、道場内に炸裂した。



今回は恭也が暇な時間を得たという所か。
美姫 「で、結局は鍛練になる辺りが何とも言えないわね」
まあな。今は望という相手もいるしな。
美姫 「二人の試合は途中までだったけれどね」
いや、どうなったのか気にはなるが。
美姫 「それよりも休講になった理由も気になっちゃうわよね」
だよな。この後、そっちはそっちでどうなったのか気になってしまった。
美姫 「まあ、これは気にしても仕方ないでしょうけれどね」
ですよね。ともあれ次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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