第2話 もう一つの通学路

   *

 蓉子は走っていた。

 住宅を囲う塀の上に飛び乗り、木の枝を足掛かりに屋根の上へ。そこから反対側の庭へと飛び降り、また走る。

 彼女のような華奢な少女が二階建ての家屋の屋根から飛び降りたりすれば、普通は骨折して動けなくなるのだろうが、そこはそれ。

 妖気全開で落下の速度を殺している蓉子にとっては、小さな段差を飛び越えたのとさほど変わらない。

 同時に幻術を使って自らの異常性を認識されないようにしているため、文字通り人間離れした彼女の動きが普通人の目に止まることもなかった。

 街中で騒ぎを起こせば保安局のお世話になりかねない。

 人間が問題を起こせば警察が出張ってくるように、妖怪の世界でも秩序を乱すものは法によって取り締まられるのだ。

 実際、父親が保安局関係者な蓉子はそのことを痛い程よく理解していた。

 故に、彼女は隠すのだ。

 幸いと言うのも微妙なところだが、幼い頃から悪戯の常習犯であった蓉子はその犯行を隠す術にも長けている。

 ――問題はない。

 ただ一つあるとすれば、それは彼女の鞄を持つのとは反対の手。その手が未だ優斗の首を掴んでいるということくらいだろうか。

 それはもう、問答無用で引きずられている。

 更に蓉子が跳躍するごとに、壁に叩きつけられたり枝葉に肌を傷つけられたりと踏んだり蹴ったりである。

 このときもしも優斗に意識があったのなら、そんな悲惨な状況になる前に蓉子の手から抜け出し、その場で彼女を折檻していたことだろう。

 だが、現実の彼は長く頚動脈を圧迫されたことによって、強制的に意識を手放させられていた。

 今頃は三途の川を挟んで、今年の始め頃に病気でこの世を去った母親との早すぎる再会を果たしているのかもしれない。

 蓉子がそのことに気づいたのは、予鈴10分前。

 乗るはずだった電車の横を走って追い越し、学園の最寄り駅の少し手前で線路から歩道へと戻ったときだった。

 ここまで来れば後は普通に歩いても十分に間に合う。そう思って、妖気による強化を解除した彼女は自分の手の中でぐったりとして動かなくなっている幼馴染の少年を見て悲鳴を上げた。

 優斗が目を覚ましたとき、そこは見慣れた学園の教室だった。

 彼は自分の席に座っており、目の前には適当に開かれた教科書が教師の目を欺くためのバリケードとして立てられている。

 意識がぼんやりしていることからいつものように授業中に眠ってしまったのかと思ったが、それにしてはやけに身体が痛かった。

 確か朝飯を食っていて、後ろから蓉子に首を掴まれたんだったな。

 その後の記憶が無く、気がつけば学園で居眠りをしているときの体勢になっていた。この事実から導き出される結論は一つ。

 ――あいつ、俺を気絶させたまま引きずってきたのか。

 容易に至ったその推論に、優斗は思わず溜息を吐いた。

 抱えてきた、でもなければ背負ってきた、でもない。そう、引きずってきたのである。

 遅刻ギリギリの状況で蓉子に自分を気遣う余裕があったとも思えないし、そう考えるとこの身体の痛みにも納得がいくというものだ。

 裂傷や擦過傷等による痛みをほとんど感じないことから一応治療はしてくれたのだろうが、まったく無茶苦茶な娘である。

 カッターシャツの上から二の腕あたりを擦りながら、優斗はまた一つ溜息を漏らす。

 治療が必要だったということは、自分はそれなりに洒落では済まないダメージを負ったのだろう。それは彼が着ている服にも言えることで、触れた指先の感覚からそこに小さくない裂け目があることが分かる。

 蓉子の幻術のおかげで外見こそ全く無事に見えるものの、実際は最早修繕不可能。次の可燃ゴミの日には透明なゴミ袋の中でその無残な姿を曝すことになるだろう。

 彼女のものであろう一本の銀髪。指に絡められたきらきらと煌くそれを弄りながら、三度溜息を漏らす優斗。

 裏の世界に身を置く彼は、不測の事態に備えていつも予備の服を一着持ち歩いている。だが、まさかその予備を身内の暴挙が原因で使うことになろうとは……。

「まったく、幾ら急いでたからって、人間一人を引きずってることにも気づかないとはな」

 今日何度目かの溜息にたっぷりと呆れを含ませながらそう言って、優斗はテーブルの上に置かれたホットサンドに手を伸ばす。

「だから、ごめんって言ってるじゃない。っていうか、それあたしのだよ」

「細かいことは気にするな。それよりこれ、どうしてくれるんだ」

 昼食の一部を奪われた蓉子は当然抗議したが、優斗はそれをあっさり流すと逆にボロと化したカッターシャツを示してそれの責任を追及してくる。

「しょうがないでしょ。あたしの妖術じゃ石油繊維の復元なんて離れ業、出来ないんだから」

「被せた物体の時間を移動させられる風呂敷とか持ってないのか?」

「あたしはドラ○もんかっ!?

 真面目な顔をしてふざけたことを言う優斗に、速攻でツッコミを入れる蓉子。

「まあ、冗談はさておき、今すぐにとは言わないから本気で弁償してくれないか」

「うー、やっぱそうしないとダメ?」

「余計な出費は優奈が煩いんだ。小遣いから出すのも痛いしな」

 言いながら蓉子から奪ったホットサンドを食べる。

「あたしだって、そんなに余裕あるわけじゃないんだけどな」

 きれいに焼き色の着いたトーストとそれに挟まれたスパイシーチキン&オニオンスライスが咀嚼されるのを横目で見ながら、蓉子はそう言って優斗の前に置かれた稲荷寿司の皿へと手を伸ばした。

「まあ、ほとんど毎朝毎晩人の家に飯食いに来るくらいだからな」

「チャラにしてくれる?」

「次の夜、俺のほうが主導権を握っても良いんならな」

「あ、う……」

 優斗がニヤリと笑みを浮かべてそう言うと、蓉子は途端に顔を真っ赤にして呻き声を漏らした。

「まあ、蓉子には優奈たちのことで何かと世話になってるからな。ほんの3ラウンドほど好きにさせてくれるだけで良いさ」

「普通それって丸一晩だよね?」

「何を言うかな。おまえのときは大抵5回は下らないだろ」

 文句を言う蓉子に少々呆れ混じりにそう返すと、優斗は二切れ目のホットサンドへと手を伸ばす。

「まあ、あれのときは完全に理性が飛んじゃってるからねぇ」

「分かってるなら……いや、良いか。下手に我慢して溜め込んでも身体に悪いしな」

「そういうこと。まあ、仮に燃えきれなかったとしても大丈夫なように、金曜の夜にしてるんだけどね」

「だな」

 二人は赤い顔に苦笑を浮かべ合うと、お互いに相手の皿から食物を取って口へと運ぶ。自分が頼んだものよりも先に相手の皿に手を伸ばすのは最早いつものことである。

「…………」

「…………」

 一瞬の沈黙。交差する視線が火花を散らし、そして……。

   *

 壮絶な争奪戦の果てにホットサンドの最後の一切れを手にした優斗は、それを口に放り込むと不意に真面目な顔になった。

 そのままの表情でしばしもぐもぐと口を動かす。

 蓉子はそんな彼の様子を、対面の席からホットサンド3切れを代償に手に入れた狐うどんの汁を啜りながら見つめている。その表情もまた、真剣なものだった。

 彼等の近くで昼食を摂っていた数人の生徒たちが、急変した二人の雰囲気に何事かと箸を止め、そちらへと視線を向ける。

 自分たちへと視線が集まるのを感じながらも優斗はもぐもぐと咀嚼運動を続け、蓉子は即席にしては悪くない出汁の味を楽しみながら汁を啜る。

 やがて、食パンを構成する小麦が唾液に含まれる消化酵素によって分解され出すと優斗はようやくそれを嚥下して立ち上がった。

 同じタイミングで丼を空にした蓉子も席を立ち、二人はカウンターに食器を返すとそのまま並んで食堂を後にする。

「ねぇ」

 纏う空気はそのままに、隣を歩く優斗に蓉子がそっと話し掛ける。優斗は無言でそれに頷くと、右手を首の後ろへと回した。

 昼休みの廊下に、二人以外の人の姿はなく、つい先程まで聞こえていたはずの食堂の喧騒も今はまったく聞こえてこない。

 そこにあるのは不自然なまでの、静寂だった。

 蓉子が足を止めると同時に優斗が背中に差していた剣の柄を握り、一歩踏み出す。それとほぼ同時に、数メートル先の曲がり角から何かが飛び出してきた。

「女の子?」

 そう、それは女の子だった。

 赤い。……いや、正しく真紅と表すべき深遠のアカをその髪に宿した少女……。

 この学園の制服を着ていることから生徒なのだろうが、少なくとも二人には見覚えのない顔だった。

 少女は何やら慌てた様子で二人の脇を通り抜けると、そのまま何処かへ走り去ってしまう。

 徒事ではないその様子に、二人が顔を見合わせたのも束の間。少女を追うようにして曲がり角の向こうから現れたものを見て、優斗は迷わず蒼牙を抜刀した。

 勢いに任せて振り下ろされた太刀に空気が切り裂かれ、同じタイミングでふわりと舞った紫色の影が僅かにぶれる。

「……っ……!?

 次の瞬間、優斗は両手で握った剣を強引に押し込むと、一足飛びで蓉子のすぐ傍らまで後退した。

 右腕に纏わり着く軽い痺れ感に、思わず顔を顰める。

 一瞬見えた白刃の煌きにとっさに左手を柄へと添えたが、完全に受けきることは出来なかったようだ。

「来るぞ!」

 唖然とした様子でそれの姿を凝視している蓉子へとそう声を掛け、優斗は両手で蒼牙の柄を握り直す。

 相対するは、毒々しい紫色をした魔法使いが着るようなローブ。

 ゆったりとした袖の奥に手を隠し、だらりと両腕を垂らしている姿はまるで無防備のようでその実まったく隙がない。

 促された蓉子は半ば本能的に構えると、その身に宿した妖気を解放した。

 優斗が再び踏み込みながら蒼牙を振り下ろし、それに合わせるようにローブの右の袖が小さくぶれる。

 一瞬見えたのは蒼白い光を纏った一本の鎖。だが、そこに先程と同じ白刃の煌きはない。

 それに驚きつつ、優斗は刀身に絡みついた鎖を伝説の威力を以って断ち切った。

 一瞬遅れて金属質の硬い何かが床へと落ちる音。

 ローブ姿の何物かは鎖を引き戻すような素振りも見せず、そのまま続け様に二度左手を振って何かを投げてきた。

 放たれたのは飛針と呼ばれる投擲武器の一種。それが6つ、二人の肩と太股、足首を目掛けて飛んでくる。

 だが、蓉子はそれをまったく避けようとはしなかった。

 優斗が小太刀形態へと変化させた蒼牙を両手に一振りずつ握り、それを素早く二度振るう。

 それだけで本当は12本放たれていた不可視の針のすべてが床へと叩き落され、同時に蓉子の右手から帯状の炎がローブへと向かって伸びる。

 だが、相手はまるで動じることなく再び腕を振るうと、袖の奥から紫色の光を放って蓉子の炎を相殺してしまった。

「さすがにこの学園に侵入してきているだけのことはあるな」

「感心してる場合じゃないでしょ。どうするのよ」

 暢気にそんなことを言う優斗に、蓉子が幾分焦りを含んだ声で尋ねる。

「今さっき飯食ったとこだからな。急激な運動は身体に悪いって思わないか?」

「あたしだって、無駄にカロリー消費したくないわよ。午後から古文だし、温存しとかないと」

「じゃ、決まりだな」

 蓉子の答えに一つ頷くと、優斗は徐に蒼牙を二本とも投擲した。

 相変わらず目の前のローブに隙はなく、半端な攻撃では通用しそうにない。

 現に投げられた小太刀は二本ともローブの左右の袖に弾かれ、廊下の壁と天井に一本ずつ突き刺さった。

 だが、これで良い。

 二本の小太刀がしっかりと刺さったのを見ると、優斗は無数にあるその真名の一つを紡いだ。

「破界せし双炎の牙」

 刹那、静寂の世界に二つの亀裂が走る。

 壁から生えた二本の柄を中心に広がった蒼白い炎が瞬く間に壁を、床を、天井を埋め尽くす。

 一切の熱を伴わないそれはだが、確実に、この世界を構成する壁を焼き、焦がし、燃やし尽くす。

 炎が消えた後、そこにはもう当たり前のように、いつも通りの学園の喧騒があるだけだった。

 戦闘の痕跡など、何処にも見当たらない。

 あの魔法使いだか死神だかを連装させる紫ローブの姿もだ。

「行くぞ」

 炎が消えると同時に回収した蒼牙を懐へとしまい、呆然と立ち尽くしている蓉子にそう声を掛ける。

「ちょっと、行くって何処によ?」

「見回りだよ。まだ近くにいるかもしれないからな。一般人と接触して騒ぎにでもなったら面倒だ」

 自分を置いて歩き出す優斗に慌てて追いつき、返ってきた答えに蓉子は軽い呆れを覚える。彼は保安官としての義務を免罪符に、午後からの授業をエスケープするつもりなのだ。

「あんな得体の知れない紫ローブなんて、ほっときなさいよ。大体、このあたりはあんたの管轄じゃないでしょうが」

 無駄だと分かりつつも、とりあえず正論を出して止めに掛かる。

 案の定、優斗は聞こえないふりを決め込むと屋上へと続く階段を上っていった。

「……はぁ、別にあたしに言い訳なんてしなくても良いのに」

 逃げるように去っていく優斗の背中を見て、蓉子は呆れたように溜息を漏らす。

 でもまあ、あんなのが学園内にいるのは確かに問題よね。

 先程の戦闘から仮にもう一度遭遇したとして、優斗一人で対処するのは聊か骨が折れるだろう。

「しょうがないわね」

 誰にともなくそう言うと、蓉子は早足で彼の後を追っていった。




   * * *  スキル解説  * * *

名称:破界せし双炎の牙

種別:真名解放

ランク:B(E〜S/eは最下級、Sは最上級、Xは判定不能)

最大使用回数:1(補充可能)

解説:

刀身から霊的な炎を発生させ、対象を燃やし尽くす蒼牙の特殊能力の一つ。

優斗が対霊戦闘時の切り札の一つとして蒼牙に覚えさせたもので、隔離空間を内側から破壊することからこの名を与えられた。

実際は事前に刀身に吸収させておいた炎を増幅して解放するだけなのだが、その威力は上記の通り凶悪極まりない。

ただ、一度使用するごとに補充しなければならない上、攻撃が広範囲に及ぶため使い所は難しいと言わざるを得ないだろう。

主な使用者:草薙優斗



  あとがき

龍一「あれ?」

蓉子「ちょっと、何よこれ」

龍一「おかしいな。プロットでは全力全開での優斗と蓉子の追いかけっこになるはずだったんだが」

蓉子「何気にあたしが酷い人になってるじゃない」

龍一「いや、これは不幸な事故って奴だろ」

蓉子「あんたがそうなるようにしたんでしょうがっ!」

龍一「うぎゃあぁあぁあぁっ!?

蓉子「さて、いきなり謎の敵が登場して、脈絡ないことこの上ない今回のお話。時期的には7月の頭くらいなのよね」

龍一「人を炭化させておいて普通に話を進めるなよ」

蓉子「うわっ、グレーマウンテンゴーレム?」

龍一「いや、聞かれても意味分からんから」

蓉子「まあ、そのあたりはどうでも良いから」

龍一「うむ。次回は今回ちょっとだけ出てきた女の子が再登場する予定だ」

蓉子「赤い髪と目の子っていったら、彼女よね」

龍一「この邂逅が何をもたらすのか。よろしければ次回もお付き合いください」

蓉子「それじゃあ、また次回で〜」

   *

 

 





優斗の扱いが…。
美姫 「うーん、自業自得?」
いや、違うだろう。
美姫 「そうかしら? 前話でのんびりしてたし」
言われてみれば、そんな気も…。
美姫 「次回はあの女の子の登場みたいね」
果たして、少女の出現は何を意味するのか。
美姫 「次回も待ってます」
ではでは。



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