*
「卒業旅行?」
あの卒業式から数日経ったある日。
特にすることもなく、部屋でごろごろしていた僕に、いつもの如く突然やってきたまりあが言った最初の一言がそれだった。
「そ。卒業旅行。楽しいと思うんだけどな」
「そりゃ、別に構わないと思うけど」
騒ぐのが好きなまりあらしい提案だ。
まあ、僕自身、少し息抜きをしたいと思っていたところだからちょうどいいんだけど。
「お、瑞穂ちゃんにしては珍しく即答したね。じゃあ、早速適当に声掛けてみるか」
そう言うと、まりあは来たときの勢いのまま部屋を出て行こうとする。
どうやら用件はそれだけだったらしい。
と、そのとき外から軽く扉がノックされ、紫苑がティーセットを持って入ってきた。
「あら、まりあさん。もうお帰りになるのですか?」
「ええ、ちょっと用事が出来たもんで。そうだ、紫苑さまもご一緒にいかがですか?」
「はい?」
「卒業期念に旅行に行こうって、今瑞穂ちゃんと話してたんです」
「まあ、それは楽しそうですわね。それで、どちらへ行かれるおつもりなんですの?」
紫苑は机の上にティーセットを置くと、にこにこと笑みを浮かべて僕の隣に腰を下ろした。
「周りを山と海に囲まれた気候の穏やかな都市です。えっと、何て言ったかな……」
まりあはど忘れしたのか、顎に手を当てて唸っている。
「素敵なところのようですね。わたくしもぜひご一緒させていただきたいですわ」
「ええ、もちろんですよ。けど、まりあ。この時期ってどこも予約で一杯なんじゃないの?」
「ああ、それなら大丈夫。知り合いがやってる旅館、週末でも空いてるって言ってたから」
「そう。じゃあ、手配のほうは任せたから」
「オッケー。せっかくだから、後適当に何人か声掛けてみるね」
そう言うと、まりあは紫苑から受け取った紅茶を飲み干して立ち上がった。
本当はこのとき気づいているべきだった。
紫苑とのことが一段落して、どこかホッとしてしまっていたのだと思う。
そして、出発を明日に控えたある週末の夜……。
電話でまりあにそのことを言われた僕は思わず叫んでしまったのだった。
*
乙女は僕に恋してる in shion after 〜卒業旅行〜
*
――3月8日 PM06:22。
海鳴市藤見町 高町家リビング――。
『温泉?』
話を聞いた知佳は少し不思議そうにそう聞き返した。
「ええ。商店街の福引で当てたんですが、よかったら一緒にどうですか?」
「えっと、それって、ふたりっきりってことだよね」
内心かなり緊張しながら誘った恭也に、そう聞き返した知佳の声は何かを期待しているものだった。
「え、ええ。ペアチケットだと書いてありますし、……その、ダメでしょうか」
「ううん。ちょうどのんびりしたいなって思ってたところだから」
「では、今度の週末にでも」
「うん。楽しみにしてるね」
弾んだ声でそう言った知佳は本当に嬉しそうだった。
泊り掛けの外出だけに断られるかもしれないと思っていた恭也だったが、そんな彼女の声を聞いて誘って良かったと心から思うのだった。
「さてと、急いで準備しないとな」
ともすれば緩みそうになる顔をごまかすようにそう口に出すと、恭也は携帯電話をしまって立ち上がった。
*
――3月12日 AM11:31。
海鳴市 駅前ロータリー――。
改札を潜ったところで、僕はまた一つ溜息を漏らしていた。
今日はまりあが企画した卒業旅行の当日。
まりあはあれから一通り親しい人たちに声を掛けていたようだ。
最終的に僕らの他に貴子さんと妹二人もメンバーに加わっての決行となった。
しかし、そのことを前日の夜まで知らせてこなかったのは確信犯としか思えない。
紫苑も知っていて黙っていたみたいだし、これまでのことを考えると気が重い。
まあ、まりあが他にも誰か誘うって言った時点で、気づかなかった僕も悪いんだけど。
そんなことを考えつつ、改めて自分の格好を見てみる。
今日の僕の服装は全体的に明るめな春をイメージした色彩で纏められている。
ただ、それら全部が女物で。
それに、目線を下げれば偽物とは思えない立派な二つの膨らみがあるというのは……。
「どうしたのですか?お姉さま」
「あ、奏ちゃん。別に何でもないのよ」
少し心配そうに見上げてくる奏ちゃんに、僕は慌ててそう言った。
「お姉さまが元気がないと、奏は悲しくなってしまうのですよ〜」
「ありがとう。でも、大丈夫よ。久しぶりの長旅でほんの少し疲れてしまっただけだから」
そう言って微笑んでみせた僕はたぶん、優しいお姉さまの顔をしていたと思う。
紫苑はときどき忘れているみたいだけど、僕はこれでもれっきとした男なんだ。
その僕が死んだおじいさまの遺言で恵泉女学院に通うことになってから早10ヶ月。
何とか無事に卒業することが出来たわけだけど、それですべてが終わったわけじゃなかった。
恵泉を卒業して、とりあえず女装に女言葉で過ごす日常からは解放された。
けれど、僕をお姉さまと呼んで慕ってくれるこの娘は、周防院奏は今もここにいるのだ。
勇気のない僕は未だ彼女に本当のことを言えずに嘘を吐き続けているんだ。
「……瑞穂さん、何をお考えになっているのかお顔に出てらっしゃいますわよ」
そんな僕に、紫苑は少し困ったような笑みを浮かべてそう言った。
「まったく、瑞穂ちゃんはうだうだ考え過ぎなんだよ。せっかくみんなで旅行に来たんだから、今は忘れてパーッと騒ごうよ!」
「まりあさんのようにあまり物事を考えなさ過ぎるのもどうかと思いますが、わたくしもその意見には賛成ですわ」
まりあ、貴子さん……。
「そうですね。せっかく皆で来たのだから、もっと楽しまないともったいないですよね」
「では、そろそろ参りましょうか」
そう言って顔を上げた僕に、紫苑はにっこりと笑って手を差し出してきた。
僕はその手を少し恥ずかしそうに取りながら、それをごまかすように皆を見回して聞いた。
「じゃあ、どうしましょうか。このまま旅館へ行ってもいいですけど」
「あ、あの、先にお昼にしませんか?わたし、お腹空いちゃって……」
由佳里ちゃんが恥ずかしそうにそう言って手を挙げる。
「まあ、由佳里ちゃんったら。そうね、ちょうどお昼の時間だし、みんなもそれでいいかしら?」
「あたしは別にいいよ。行ってみたいお店もあったことだし」
「わたくしも異論はございませんわ」
僕の声に、まりあと貴子さんがそう答える。
「紫苑さんと奏ちゃんは?」
「わたくしは瑞穂さんと奏ちゃんと一緒なら、どこへでも参りますわ」
「奏もお姉さまたちと一緒なら、きっとどこへ行っても何をしても楽しいのですよ〜」
にっこりとそう言う紫苑に、奏ちゃんのはしゃいだ声が続き、それで僕らの行動は決定した。
*
――3月12日 PM00:14。
海鳴商店街 喫茶翠屋店内――。
この日、この店で一つの事件が起きた。
それはある意味、平和なこの町らしい、だが、これまでにない種類のものだった。
いつもの昼のピークに際して、手伝いをしていた美由希はその現場を目撃することとなる。
彼女が飛び交う注文に対応すべく、必死にフロアを動き回っていたときだった。
何度目かの新たな来客を告げるドアベルに、そちらを振り向いた美由希は思わず息を呑んだ。
そこには六人ほどの少女がいたのだが……。
――こんなきれいな人がいるんだ……。
美由希の視線は先頭に立つ二人の少女へと釘付けになっていた。
他の店員や客たちも同じらしく、あれほど賑わっていた店内が嘘のように静まり返っている。
そんな皆の反応をまるで気にしたふうもなく、先頭の一人が近くの店員へと声を掛けた。
「あの、六人なのですけれど」
「あ、は、はい。どうぞ、こちらへ」
声を掛けられたその店員は慌ててそう言うと、彼女たちを席の一つへと案内する。
「さすが、紫苑は余裕ですね」
「淑女として恥ずかしくないよう心がけているだけですわ」
そんな会話を交わしながら、二人の少女は足取りも優雅に席へと座る。
後に続く四人は驚いていたり苦笑を浮かべていたりと様々だ。
彼女たちは店のメニューの中から人気の高いものを中心に幾つか注文すると、小一時間ほどランチタイムを楽しんで帰っていった。
「すごい人たちだったね」
「ほんと、紅茶を飲む仕草一つにも気品があふれてるっていうか」
昼のピークを過ぎた頃、手の空いた店員たちの間ではその話題で持ちきりだった。
そこへ所用で店を空けていた恭也が戻ってきて、何事かと尋ねる。
「あ、恭ちゃん。すごかったんだよ!」
「なんだ、それじゃ分からんだろうが。ちゃんと順を追って説明してくれ」
興奮冷めやらぬ様子で詰め寄ってくる美由希に、恭也は少々面食らったようにそう言った。
彼としては自分は一番忙しい時間帯に抜けたわけで、そのことに関して何か小言の一つでも言われるものだとばかり思っていたのだ。
そんな恭也の内心に構わず、美由希は今しがた帰った客のことについて話し出した。
「つまり、とても立ち振る舞いの美しい女性客たちだったんだな」
まるで要領を得ない妹の話しに、恭也は僅かに表情を顰めつつそう言った。
「恭ちゃん……。相変わらず淡白っていうか、もっとこう、何かないの?」
「知るか。っていうか、実際に見ていないからな。おまえの説明だけではよく分からん」
悲しそうに見てくる美由希に、恭也は素っ気無くそう返すと脇を通り抜けようとした。
「美由希」
「何?」
「俺は夕方から明日に掛けて出掛けるから、その間の鍛錬はちゃんと一人でやっておくんだぞ」
「恭ちゃん、どっか行くの?」
「野暮用だ。レンと晶には今晩と明日の朝昼の俺の分の食事は必要ないと伝えておいてくれ」
そう言うと、恭也はエプロンを取りに店の奥へと行ってしまった。
後には不思議そうに顔を見合わせる店員たち。
そして、美由希は不審げに眉を顰めつつ、フロアへと出て行く兄の背中を見つめていた。
*
――3月12日 PM03:08。
海鳴市月守台 某温泉旅館ロビー――。
チェックインを済ませ、先に送っておいた荷物を受け取ると、僕らはそれぞれ部屋に入った。
さて、問題の部屋割りだけど、まず僕と紫苑と奏ちゃんで一部屋使うことになった。
それはいい。
いや、本当は男の僕と奏ちゃんとが同じ部屋で寝るっていうのはかなり問題なんだけど。
紫苑とはその、まあそういう関係だからいいとして、問題はもう一つの部屋のほうだった。
最近は大分改善されたとはいえ、まりあと貴子さんが同じ部屋というのは何かともめそうだ。
由佳里ちゃん、苦労してないといいんだけど……。
そんなふうに隣室の心配をしていた僕に、荷物を置いた紫苑が話し掛けてきた。
「瑞穂さん」
「あ、はい。何でしょう」
「お夕飯の時間までまだだいぶありますけれど、瑞穂さんはどうされるおつもりなのですか?」
「そうですね。せっかくですから、少しこのあたりを探索してみましょうか」
僕は荷物の中から来るときに持ってきたハンドバッグを取ると、奏ちゃんに声を掛けた。
「奏ちゃん。わたしと紫苑さんは少し散歩してくるけれど、奏ちゃんも一緒にどうかしら」
「はいなのです。あ、でも、奏、お邪魔ではないですか?」
元気にそう返事してから、奏ちゃんは少し遠慮がちに僕のことを見上げてくる。
ああ、奏ちゃん。そんな表情をしたらまた……。
僕がそう思っている間にも紫苑はいつものようにふらふらと奏ちゃんに近づくと、むぎゅっと音がしそうな勢いで抱きしめていた。
「ふみゅ〜、し、紫苑お姉さま……。苦しいのですよ〜」
「奏ちゃんは本当にかわいいですわね」
じたばたともがく奏ちゃんを抱きしめて、紫苑は甚くご満悦のようだった。
「でも、本当にいいのですか。その、お二人は恋人同士なのでしょ?奏、デートの邪魔はしたくないのですよ〜」
何とか紫苑の腕から抜け出した奏ちゃんは、僕たちの顔を見比べながらそんなことを言った。
「あ、えっと、それはね……」
奏ちゃんの口から出た恋人という言葉に、あたふたとごまかそうとする僕。
――三学期も終わりに近づいた頃。
退院した紫苑が朝の教室で登校してきた僕に抱きついたのが発端だった。
その場には一緒に登校した圭さんと美智子さんはもちろん、他にも数人の目撃者がいて。
彼女たちによって噂は瞬く間に学院中に広がり、卒業式を迎える頃には晴れて性別を越えたカップルとして学内公認の仲となっていたのだった。
今までそういう話題に縁も感心もなかっただけに、自分が渦中の人になると恥ずかしい。
「奏ちゃん。妹が姉に遠慮するものではありませんわよ」
「で、でも……」
「それにデートというのなら、寧ろ奏ちゃんは外せませんわ。ね、瑞穂さん」
そう言ってにっこりと微笑みかけてくる紫苑に、僕は少し困惑しながら頷いた。
「え、ええ、そうね。奏ちゃん、三人で出掛けましょう」
「は、はいなのです!」
困惑顔を出来るだけ優しい表情に変えてそう言った僕に、奏ちゃんは満面の笑顔で頷いた。
それにしても、いつもながら紫苑は余裕だな。
鏑木を背負って立つ身として、僕ももっと見習わないと……。
*
――その頃、まりあたちの部屋では……。
「まさか、まりあさんと同じ部屋で寝ることになるとは思いませんでしたわ」
部屋の隅に荷物を置きながら、貴子がさも嫌そうな顔をしてそう言った。
「しょうがないでしょ。部屋が二つしか取れなかったんだから」
「そうは言いますけれど。大体……」
貴子はそこで声を潜めると、そっとまりあの耳元に唇を寄せて続けた。
「瑞穂さんは男性でしょう。紫苑さまはともかく、周防院さんまで一緒の部屋というのは……」
「何言ってんのよ。あの瑞穂ちゃんに浮気するような甲斐性があると思う?それも紫苑さまの見てる前で」
「そ、それは、……確かになさそうですけれど」
「でしょ。あたしとしては寧ろ、抑えが効かなくなった紫苑さまが瑞穂ちゃんに襲い掛からないか心配だわ」
「まさか、紫苑さまに限ってそんなことあるはずがありませんわ」
「分からないわよ。紫苑さま、あれでなかなか大胆だから」
まりあはニヤリと笑ってそう言うと、軽く身支度を整えて立ち上がった。
「まりあお姉さま、どちらへ?」
「探索。まだ夕飯まで時間あるし」
「あら、わたくしもご一緒させていただいてもよろしいかしら?」
「いいわよ。由佳里も一緒に行く?」
「あ、はい。ぜひ、お供させていただきます」
こうして三人は連れ立って出掛けることになったのだが……。
*
「でも、まりあお姉さまと貴子さまって実は結構仲良かったんですね」
「ぬわっ。な、何言ってんのかなこの子は」
何気なく言った由佳里の一言に、まりあが眉を顰めてそれを否定する。
「そうですよ上岡さん。わたくしたちはこの通り。ただ、少々関係の改善に成功したというか」
「わたしとしては、お二人の間で諍いが減ったのなら嬉しいです。それだけまりあお姉さまの不機嫌な顔を見なくて済みますから」
そう言うと、由佳里はチラリとまりあのほうを見た。
まりあは居心地が悪いのか、一人でずんずんと歩いていってしまっている。
「君枝さんも同じようなことを言っていましたわ」
「はぁ、君枝お姉さまがですか?」
「ええ、会長には笑っていてほしいだなんて、歯の浮くような台詞を臆面も無く」
「嬉しそうですね。貴子さま」
少し恥ずかしそうに頬を染めて言う貴子に、由佳里はどこかまりあ然とした楽しそうな笑みを浮かべてそう言った。
それを見た貴子は内心、やはりこの娘は御門まりあの妹なのだなと思った。
「二人とも何やってんの。早くこないと置いてっちゃうわよ〜!」
こちらを振り返ってそう言ったまりあはもう大分先まで行ってしまっていて、二人は慌てて後を追いかけた。
だが、歩みを速めた貴子は柄の悪い通行人とぶつかってしまい……。
*
――3月12日 PM03:58。
海鳴市月守台 バス停付近――。
「このあたりってあんまり来ることないけど、結構賑わってるんだね」
バスから降りると、知佳はあたりを見渡してそう言った。
ほとんどが観光客だろう。ここから見えるだけでもかなりの数の人が通りを行き交っている。
二人が泊まる旅館は土産物などの店が軒を連ねる通りを抜けたところにあるようだった。
「行きましょうか」
恭也は荷物を背負い直すと、そっと彼女に手を差し出した。
「?」
「その、はぐれるといけないので」
差し出された手を不思議そうに見る知佳に、恭也は少しそっぽを向いてそう言った。
そんな彼の様子をかわいいと思いつつ、知佳は満面の笑みを浮かべてその手を握る。
「恭也君、今日は何だか積極的だね」
「そうでしょうか」
「うん。だって、いつもは恭也君のほうから手をつないでくれたりしないじゃない」
前に回って上目遣いに見上げてくる知佳に、恭也は柄にもなくドキドキしてしまう。
「それは、その、……済みません」
「いいんだよ。だって、今はこうして手をつないでくれてるんだもん。嬉しいよ、とっても」
そう言って微笑む彼女は本当に嬉しそうで、恭也は思わずつないだ手に力を込めた。
知佳はそれに少し驚いたような顔をして、それからそっと目を閉じて握り返してくる。
「行きましょうか」
「うん」
再びそう声を掛ける恭也に知佳は頷き、二人は手をつないだまま旅館へと足を向ける。
二人の間にはまるで春の陽射しのような、暖かで穏やかな空気が流れていた。
そんな二人の空気をぶち壊すかのように、柄の悪い男の声が通りに響き渡った。
「舐めてんのか、コラぁ!?」
恭也たちが商店街の中程に差し掛かったころだった。
とある土産物屋の前で、見るからに悪そうな三人組が女性に絡んでいるのが見えた。
「ですから、ぶつかったことに関しては先程きちんと謝ったではありませんか!」
絡まれている女性たちの中で、一番気の強そうな女性がそう言って男たちを睨みつける。
「誠意ってもんが感じられねぇんだよ。なんだ、その目は。お高くとまってんじゃねえぞ」
「では、どうしろとおっしゃるのですか」
不機嫌を隠そうともせず、女性は男たちを挑発するような視線を送る。
そこへ連れらしい別の女性が割って入り、爆弾を投下した。
「ちょっと、貴子。こんなの相手にすることないって。さっさと行きましょう」
「んだとぉ、このアマ!」
女性の露骨な一言に、男の一人が切れて腕を振り上げた。
二人の後ろに隠れるようにしていた少女が悲鳴を上げ、一人がその娘を庇うように身構える。
そして、今正に男の腕が振り下ろされようとしたとき、誰かがそれを掴んで止めた。
「恭也君!」
たった今まで隣にいたはずの恋人の動きに、知佳が小さく声を上げる。
「それくらいにしておくんだな」
「何だおまえ。怪我したくなかったら引っ込んでろ!」
きつい視線を向けてそう言う恭也に、腕を掴まれた男は顔を顰めて怒鳴る。
しかし、よほど強い力で捕まえているのか男の腕はびくともしなかった。
「この、放しやがれ!」
じたばたともがく男の腕を押さえたまま、恭也は女性たちへと声を掛ける。
「行ってください」
「え、で、でも」
戸惑う女性たちに大丈夫だと言うと、恭也は男たちを威圧するように見る。
そんな彼に小さく頭を下げると、女性たちは足早にその場を去っていった。
「この野郎、ふざけた真似しやがって!」
「この落とし前はきちんとつけさせてもらうぜ。顔貸せや!」
口々にそう言うと、男たちは恭也を路地の奥へと連れていった。
*
「あの人、大丈夫かな」
男たちに連れられて路地の奥へと入っていく青年の背中に、まりあが心配そうにそう呟く。
「心配いらないと思うよ。彼、強いから」
不意に背後から掛けられた声に、三人が振り返るとそこには一人の女性が立っていた。
「あの、今の人の知り合いですか?」
「うん。そうだよ」
「心配ないって、相手は三人もいたのですよ?」
女性の言葉に、貴子が怪訝そうな顔をする。
「大丈夫。だって、彼は……」
女性が何かを言いかけたところで、その表情がパッと笑顔に変わる。
「恭也君、こっちだよ!」
路地の奥から出てきた青年に向かって女性が手を振った。
「……恭也、って、まさか」
女性が口にした青年の名前に、まりあが少し驚いたような顔をして彼のほうを見た。
「やっぱり、あんた。不破恭也でしょ。士郎おじさまの子供の」
こちらへとやってきた青年、恭也に向かってまりあがそう声を掛ける。
「まりあお姉さまの知り合いだったんですか?」
「うん。昔、ちょっとだけ一緒に遊んだことがあるんだ。ねえ、覚えてないかな?」
懐かしそうにそう言って恭也の手を取るまりあ。
恭也も思い出したのか、微かに表情を緩めると少し困ったようにまりあを見た。
「覚えている。覚えているからとりあえずこの手を離してもらえると助かるんだが」
「あ、ああ、あたしったらつい」
先程の女性から冷たい視線を向けられて困っている恭也を見て、まりあは慌てて手を離した。
「とりあえず、どこか落ち着けるところへ移動しませんか?お話はそちらで」
周囲の視線を気にしつつ、そう言った貴子に、他の者たちも頷き、五人は近くの喫茶店へと入った。
*
――3月12日 PM05:11。
海鳴市月守台 某温泉旅館ロビー――。
「あ、帰ってきた。瑞穂ちゃん。こっちこっち」
付近の探索を終えて戻ってきた僕たちに、まりあがそう声を掛けてきた。
「ちょっと、まりあ。他のお客さんもいるんだから、ロビーで大声を出すのは感心しないわよ」
「いいからこっちおいでよ。懐かしい顔が見れるよ」
まりあは腰掛けていた椅子から立ち上がると、そう言って僕を手招きした。
それに少し眉を顰めつつ、僕はまりあたちのいるほうへと歩いていった。
「久しぶりだな。と言っても、君のほうは覚えていないかもしれないが」
僕がテーブルへと近づくと、同席していた男性が席を立ってそう声を掛けてきた。
身長は僕と同じか、それより少し高いくらいだろうか。
年齢もたぶん同じくらいなんだろうけど、落ち着いた雰囲気のせいかだいぶ年上に見える。
こんな感じの人を僕は一人だけ知っている。
会ったのはもうずいぶん前で、けれど、確かな面影を残している一つ年上の男の子。
名前は確か……。
「もしかして、恭也さんですか?」
「覚えていてくれたか」
驚く僕に、恭也さんは無表情の中に微かな喜びを浮かべてそう言った。
「やっぱり。変わりませんね。その雰囲気。また会えて嬉しいです」
「君はその、ずいぶんと綺麗になったんだな」
嬉しそうにそう言った僕に、恭也さんは何だか複雑な表情を浮かべてそう言った。
「喜んでいいのか、微妙なところですね」
「いいんじゃないか。今の君は女性なんだろう?」
「まりあから聞いてるんですね。出来れば、そういうことでお願いします」
「分かった。……しかし、君もいろいろと大変だったんだな」
「ええ、本当に……」
同情するような恭也さんの言葉に、僕はしみじみと頷いた。
「楽しそうですわね。瑞穂さん」
「恭也君も。わたしにだって、あんなこと言ってくれないのに……」
後ろで少し拗ねたような紫苑と、もう一人は誰だろう。
金髪にも見えるきれいな髪を長く伸ばした女性がこちらに少し冷たい視線を送ってきていた。
内容が内容だけに途中からひそひそと話していたのだけど、それがいけなかったんだろう。
僕は慌てて恭也さんから離れると、チラリと彼女たちのほうを見た。
紫苑はいつものこととして、問題は恭也さんの連れのほうだよね。
まりあ、彼女には説明しなかったのかな……。
「えっと、紫苑さん、奏ちゃん。こちら、わたしの旧い知り合いで、不破恭也さんです」
「あ、いや、不破は父の旧姓で、今は高町なんだ」
僕の紹介に、恭也さんが少し慌てたようにそう訂正を入れる。
あれ、何かまずかったかな。
不破って言ったあたりで、恭也さんが微妙に反応したような気がする。
それにしても、士郎さん。再婚したんだ。後で恭也さんに詳しく聞いてみようかな。
「まあ、そうでしたの。はじめまして。わたくし、十条紫苑と申します」
「す、周防院奏なのですよ〜」
優雅に一礼する紫苑と、わたわたとした様子で頭を下げる奏ちゃん。
奏ちゃんは男の人に慣れてないのかな。少し緊張しているみたいだ。
「高町恭也です。よろしく」
恭也さんは少しぎこちない感じのする笑顔を浮かべてそう言うと、小さく二人に会釈した。
「ところで、恭也さん。そちらの方は恭也さんの恋人ですか?」
先程のフォローも兼ねてそう聞いた僕に、突然まりあが身を乗り出してきた。
「そうなのよ。恭也ったら、自分を好きになる女性なんているはずないとか言ってたくせに、ちゃっかり彼女つくっちゃってるんだから。それもこんなきれいな人。隅に置けないわね」
「まりあ、はしたないわよ」
「だって、あの恭也に彼女が出来てたのよ。瑞穂ちゃんだって、興味あるでしょ?」
「それは、まあ……」
言いよどみつつ、僕が恭也さんたちのほうを見ると、二人は顔を赤くして小さくなっていた。
気のせいか、さっきまで緊張して縮こまっていたはずの奏ちゃんが期待にキラキラと瞳を輝かせているように見える。
そういえばこの娘、男女の恋愛とかそういう話題に目がなかったっけ。
紫苑もいるし、ごめんなさい恭也さん。僕には止められそうもないです。
そう思って僕が心の中で手を合わせていると、徐に紫苑が口を開いた。
「ねえ、みなさん。お話もよろしいですけれど、先にお風呂に入りませんか?」
「ええ。あたし、紫苑さまのためにいろいろ聞きたいのを我慢して待ってたのに」
「まりあお姉さま。先程までさんざんお二人のことを質問攻めにしてたじゃありませんか」
紫苑の提案に頬を膨らませるまりあに、横から由佳里ちゃんが突っ込みを入れる。
「うっ。しょうがないな。まあ、あたしもちょうど温泉に入りたかったところだし」
「うそばっかり」
「由佳里〜。あんまり生意気だと、後でいろいろ人には言えない目に合わせちゃうわよ」
ニヤリと笑みを浮かべて由佳里ちゃんににじり寄るまりあ。
「お、お姉さま〜」
「まりあ。それくらいにしておきなさい。由佳里ちゃんが怖がっているでしょ」
慌てて僕の後ろに隠れる由佳里ちゃんを見て、僕はまりあにそう言った。
「ちぇ」
まりあはつまらなそうに舌打ちしたけれど、それ以上由佳里ちゃんに絡んだりはしなかった。
「では、とりあえず一度部屋に戻りましょうか」
紫苑が一同を見渡してそう言い、誰からも異論が出ないのを確かめると僕たちは席を立った。
*
「あの、恭也さん。ちょっといいですか?」
部屋へと戻る途中、僕は恭也さんにそう声を掛けた。
「少し二人で話しませんか?昔のこととか、いろいろ聞きたいこともありますし」
「ああ、俺は別に構わないが……」
恭也さんはそう言ってチラリと知佳さんのほうを見た。
「いいよ。行ってきても。久しぶりに会ったんだから、いろいろ積もる話もあるんでしょ」
「済みません」
「いいって。その代わり、浮気とかしたらダメだからね」
済まなそうに頭を下げる恭也さんに笑顔でそんなことを言うと、知佳さんは自分の部屋へと入っていった。
「折を見てわたしから事情を説明しておいたほうがよさそうですね」
「ああ、そうしてくれると助かる」
苦笑しながらそう言った僕に、恭也さんは少し冷や汗を浮かべて頷いた。
「じゃあ、どうします?屋上にでも出ますか」
「そうだな。どちらかの部屋というのも後々問題になりそうだからな」
「勘弁してくださいよ。ただでさえ、女装させられてて気苦労が絶えないんですから」
「ああ、分かってるさ」
顔の前で片手拝みする僕に、恭也さんは少し笑いながらそう言った。
*
――瑞穂たちが戻ってくる少し前。
談笑するまりあたちを置いて、貴子は一人部屋へと戻ってきていた。
少し気分が優れないようで、ベッドに腰掛けた彼女の顔色は悪かった。
――父は、亡くなりました。
何気なく聞いたまりあに対する恭也のその答えは、貴子の想像を絶するものだった。
聞いた本人はもちろん、その場にいた三人の少女たちは皆一様に驚きに表情を凍りつかせていた。
彼女たちは誰も未だそれほど近しい人の死を経験してはいなかったから。
「……ごめん。悪いこと、聞いちゃった」
珍しくしおらしく謝るまりあに貴子は一瞬驚いたが、それも無理のないことだと思った。
「いえ、もうだいぶ前のことですから。それに、父は無駄に命を落としたわけではないんです」
「どういう、ことですの?」
「父はボディーガードだったんです。と言っても、ほとんどある人の専属だったんですが」
そう言うと、恭也は少し遠い目をして続けた。
「その人の家族があるとき爆弾テロに遭いまして、父さんはその人の娘を庇って死んだんです」
「その娘さんというのは」
「いえ、知佳さんではありません。ですが、俺にとって大切な人の、家族の一人です」
貴子の言わんとするところを察して、恭也は小さく首を横に振った。
「父さんは自分の護りたいものを護り抜いて、その結果生きることが出来なかったけれど、そのおかげで彼女は今も生きていて、俺たちと一緒の時間を過ごすことが出来た。そういう意味では感謝しているんだ。それに、同じ道を選んだものとして尊敬もしている」
そう言った恭也さんにとって、士郎さんの死はもう過去のことなのだろう。
けれど、決して忘れることなく、前に進むことが出来ているんだ。
初めて会った頃から大人びているとは思っていたけれど、やっぱりすごい人だ。
僕がそんなことを考えていると、不意に背後で扉が閉まる音がした。
「貴子さん」
振り返ると、そこには貴子さんが立っていた。
何か気分が悪いとかで部屋で休んでるってまりあが言ってたけど、風にでも当たりに来たのだろうか。
「あの、高町さん。先程は失礼いたしました」
「いえ、気にしてませんから。それより、お体のほうはもうよろしいんですか?」
申し訳なさそうにそう言って頭を下げる貴子さんに、恭也さんが気遣わしげに声を掛ける。
「はい。少し驚いてしまっただけですから」
「済みません。他人からしてみれば、あまり気持ちの良い話ではありませんでしたよね」
「いいえ、とんでもない。高町さんはお父さまのことを誇りに思われてらっしゃるのでしょう」
「はい。傍若無人というか、無茶苦茶な人でしたけど、あの背中には未だ遠く及びません」
そう言ったときの恭也さんは本当に誇らしげで。
彼にとって士郎さんがどれだけ大きな存在だったか伺えた気がした。
*
――3月12日 PM06:12。
海鳴市月守台 某温泉旅館大宴会場――。
「……主よ、今から我々がこの糧をいただくことに感謝させ給え。アーメン……」
「アーメン……」
恭也さんと知佳さんを除く全員でお祈りをして、宴会が始まった。
「それじゃ、いっただきま〜す!」
「いただきます」
まりあの元気な声に続いて、他の面々も改めて手を合わせると、それぞれ箸を取った。
しかし、結局誰も温泉には行かなかったのか、浴衣姿になっている人は一人もいない。
まりあが例のボードゲームを持ってきていたらしく、皆で遊んでいたのだそうだ。
それにしても、まりあ。わざわざ旅行にまで持ってくることもないだろうに……。
呆れたような僕の視線には気づいていないのか、楽しそうに料理に箸を伸ばしているまりあ。
由佳里ちゃんは郷土料理らしい煮物に舌鼓を打ちつつ、品評を述べている。
「海が近いからかしら。お刺身も新鮮で美味しいですわね」
「あ、紫苑さんもそう思います?」
サーモンのお刺身に頬を緩める紫苑に、僕も同じものに箸を伸ばしつつ相槌を打つ。
「……瑞穂さん」
「はい?」
「ここにはわたくしたちだけなのですから、紫苑、と呼んでくださってもよろしいじゃありませんか」
「え、えっと、それは……」
拗ねたように頬を膨らませる紫苑に、僕は少し困った顔になってしまった。
たぶん、あっちのを見てうらやましくなったんだろうけど……。
「はい、恭也君。あ〜ん、して」
「い、いえ、みなさんが見てますし、恥ずかしいですから……」
「ダメだよ。元々こういうことするつもりだったんだから」
そう言って箸を差し出す知佳さんはとても楽しそうだ。
「あの、あまり毒気を振り撒かないでいただけますか。わたくしたちは一人身なのですから」
「ひょっとして、うらやましいの?男嫌いの貴子の台詞とは思えないわね」
これみよがしに溜息を漏らす貴子さんに、まりあが茶化すようにそう声を掛ける。
「あら、わたくしは別に世の中のすべての男性を嫌っているわけではありませんわ」
そう言うと、貴子さんは恭也さんのほうを見た。
「高町さんのような方でしたら、わたくし……」
「ダメだよ、貴子さん。恭也君はわたしの彼氏なんだから」
「ええ、分かってますわ」
余裕の表情で食事を続ける貴子さん。どうやらからかっていただけらしい。
それにしても……。
「あの、紫苑さん?」
「…………」
「……紫苑」
「はい、何ですか?」
呼び方を変えた途端に嬉しそうな顔をする紫苑に、僕はそっと溜息を漏らした。
「帰ったらおしおきですからね」
「まあ、瑞穂さんたら……」
顔を赤くして俯く紫苑はその、なかなか可愛いと思う。
「……貴子の気持ち、ちょっとだけ分かった気がするわ」
「でしょ。これはもうわたくしたちも早く良い人を見つけるしかありませんわね」
まりあの言葉に貴子さんが頷き、二人は顔を見合わせて溜息を漏らす。
「奏はお姉さまたちが幸せなら、それで良いのですよ〜」
「でも、女の子同士ってのも大変だと思うけど、そこがまた良いよね」
こちらは何かずれた感想を言っている妹二人。
とりあえず、今は考えないことにしよう。二人とも楽しそうだし。
その後しばらくの間、二組のカップルによって甘い空間が形成されていたことは言うまでもない。
*
「んじゃ、今度こそ温泉にレッツゴー!」
食後のお茶の時間も終わり、一息ついたところでまりあが元気にそう言った。
「まりあ、あんまり騒がないでよ。何度もいうけれど、他のお客さんもいるんだから」
「分かってるって。由佳里、奏ちゃん。一緒に入ろ」
「はいなのです」
「わ、わたしはちょっと遠慮したいかな」
由佳里ちゃんは夕飯前のまりあの言葉を警戒しているのか、少し顔を引き攣らせつつそんなことを言う。
「いいから由佳里もおいでって。背中、流してあげるから」
「え、遠慮しときます!」
「もう、そんな警戒しなくても何もしないのに」
慌てて首を横に振る由佳里ちゃんに、まりあが憮然とした様子でそうぼやいた。
「そんなこと言って、何もしなかったことがあるのかしらね」
「うっ、も、もう、瑞穂ちゃんは一々煩いんだから。行くわよ、二人とも!」
ジト目でそう指摘する僕に、まりあはそう言うと逃げるように席を立った。
「お姉さまはどうされるのですか?」
「わたしは後で入るから。奏ちゃん、先に入ってらっしゃい」
期待するような眼差しで聞いてくる奏ちゃんに、僕は申し訳なく思いつつそう答えた。
奏ちゃんは少し悲しそうな顔をしたけれど、すぐに笑顔になると頷いて部屋を出ていった。
「奏ちゃん、いい子ですわね」
「ええ……、そうですね。あの子は、いつも一生懸命だから」
「瑞穂さんも、立派にお姉さんしてらっしゃいますわ」
「紫苑……」
そう言って優しく微笑む紫苑に、僕は何て言えばいいのか分からなかった。
奏ちゃん、僕に心配させないようにって、気丈に振舞っているけど、本当は寂しいんだよね。
そんな奏ちゃんのために、僕がしてあげられることはあるだろうか。
――恵泉に在学中の頃からずっと考えていたことだった。
僕にとって奏ちゃんは大切な、かわいい妹だから。
「さて、わたくしもみなさんと一緒に温泉に入ってくることにいたしますわ」
「あ、はい。いってらっしゃい」
「瑞穂さん、覗いたりしたらダメですからね」
「し、しませんよ。そんなこと」
顔を真っ赤にしてそう言う僕に、紫苑は楽しそうに笑うと部屋を出ていった。
「もう……」
*
憮然とした顔の瑞穂を残して部屋を出ると、紫苑は旅館の大浴場へと向かった。
それにしても、先程の瑞穂さんのお顔はかわいらしかったですわね。
自分にからかわれて赤くなった瑞穂の顔を思い出し、紫苑は思わず笑みを零した。
根が素直なために、あのような反応ばかりしてしまう瑞穂が紫苑は甚くお気に入りだった。
尤も最近は余裕が出てきたのか、こちらが恥ずかしい思いをさせられることも少なくない。
まあ、瑞穂は相手が本当に嫌がることはしないので、それで傷つくということはないのだが。
そんなことを考えながら紫苑が廊下を歩いていると、まりあが角から顔を出して手招きしてきた。
「紫苑さま、こっちです」
「まりあさん、何ですの?」
「露天風呂。今ならあたしたち以外、誰もいませんからのんびり出来ますよ」
「まあ、それは幸運ですわね。では、わたくしもそちらに混ぜていただいてもよろしいかしら」
「ええ。そのつもりで呼びに来たんですから。さ、早くいきましょう」
そう言ってなりあは紫苑の手を取ると、露天風呂のあるほうへと歩いていった。
*
――こん、こん……。
紫苑が部屋を出てからしばらくして、僕は知佳さんが泊まっている部屋のドアを叩いた。
「あ、は〜い。どちらさまですか?」
そう言ってチェーンロックが掛かったままのドアを開ける知佳さん。
「あ、えっと、瑞穂さん、だったっけ」
「はい。少しお話したいのですけど、今よろしいですか?」
「恭也君ならいないよ。何か用事があるとかで、ついさっき部屋を出ていったから」
「あ、いえ、わたしがお話したいのは恭也さんじゃなくて、知佳さんなんですけど」
少し困った顔でそう言う僕に、知佳さんは不思議そうにしながらもドアを開けてくれた。
「ちょっと待ってね。今、お茶淹れるから」
「あ、お構いなく」
一応そう言ってみたけれど、ポットでお湯を沸かす知佳さんに止める様子はない。
とりあえず、座って待っていると、じきに紅茶の良い香りが漂い出した。
「それで、お話って?」
カップに紅茶を注ぎながらそう聞いてくる知佳さんに、僕は思い切って口を開いた。
「わたし、いえ、僕、実は男なんです」
「はい?」
僕の告白に、知佳さんは一瞬ぽかんとして、それからまじまじと僕の顔を見た。
無理もない。
事情を知っている紫苑ですら、時々僕が男であることを忘れてしまうくらいなのだ。
「冗談、だよね?」
引き攣った笑みを浮かべてそう聞いてくる知佳さんに、僕はゆっくりと首を横に振った。
そして、僕が女装することになった経緯を掻い摘んで説明する。
「そ、それは、大変だったんだね……」
「ええ。でも、最初は理不尽だと思いましたけど、今では恵泉で過ごせた10ヶ月をとても大事に思っているんです。わたし自身、成長出来ましたし、素敵な友人たちとも出会えたから」
そう言って渡してくれた紅茶に口をつけた僕は随分とすっきりした顔をしていたと思う。
「そう。でも、どうしてそのことをわたしに?」
「知佳さんは恭也さんの恋人でしょ。今日一日わたしが彼の側にいたことでいろいろ不愉快になられたんじゃないですか?」
「あ、それは、まあ……」
「わたしとしてはそういう誤解でお二人にご迷惑をお掛けしたくなかったものですから」
僕はそう言ってカップを皿に戻すと、じっと知佳さんの目を見た。
「信じていただけますか?」
「うん。信じるよ」
知佳さんは僕の目をまっすぐに見つめ返すと、口元に優しい笑みを浮かべてそう言った。
「でも、すごいね。どこからどう見ても女の子にしか見えないよ」
「はぁ、一応、バレないように努力してますから」
感心したようにそう言う知佳さんに、僕は曖昧な微笑を浮かべてそう答えた。
男としては寧ろ落ち込むべきところなんだけど。はぁ、慣れって怖いな……。
余談だけど、知佳さんも学生時代はずっと女子学園だったそうだ。
その頃の友人たちと比較しても僕の女性としての立ち振る舞いは引けを取らないとか。
本当に僕、更正出来るんだろうか……。
*
――3月13日 AM10:31。
海鳴市 駅前――。
「じゃあ、恭也さん。知佳さん。また来ますね」
駅まで見送りに来てくれた二人を振り返って、僕は軽く手を振りながらそう言った。
「ああ。今度はこっちから行くかもしれないが」
「そのときは、案内しますよ」
そう言って笑う僕に、知佳さんがそっと近づいて耳打ちしてきた。
「もし、そのとき側にわたしがいなかったら、瑞穂さんが見張っておいてね」
「僕は虫除けですか?」
冗談めかしてそう返した僕に、知佳さんは何も言わずにこにこと笑いながら離れていった。
「瑞穂ちゃん、紫苑さま。そろそろ時間ですよ!」
「では、またお会い出来る日を楽しみにしてますわね。ごきげんよ」
「さよなら」
それぞれに別れの挨拶を交わし、僕たちは改札を潜った。
*
東京へと戻る列車の中で、僕は今回の旅行の間の出来事を思い返していた。
一泊二日という短い時間ではあったけれど、とても充実していたと感じている。
やっぱり、皆と一緒だったからかな。
恵泉では当たり前のように感じていたけれど、卒業してそれは違うんだって思い知らされた。
楽しい時間は本当にあっと言う間に過ぎて、だからこそ終わってしまうと思うと少し寂しい。
そんな僕の想いがまた顔に出ていたのか、対面に座る貴子さんが声を掛けてきた。
「お姉さま、どうかなさったのですか?」
「いえ。ただ、ほんの少し寂しいと思って……」
「寂しい、ですか?」
「ええ。今回の旅行は本当に楽しかったですから。そんな時間が終わってしまうのかと思うと、少し寂しくて」
そう言って窓の外へと目を向けた僕に、貴子さんは珍しく優しい声で否定の言葉を口にした。
「寂しくなんてありませんわ。それは確かに今のこの時間は終わってしまうでしょう。ですが、楽しいと感じたその時間を共有したわたくしたちまでが消えてしまうわけではありませんもの」
「貴子さん……」
「幸か不幸か、わたくしたちは浅からぬ縁で結ばれているようですし」
そう言ってチラリとまりあのほうを見た貴子さんは本当に楽しそうだった。
「そう、ですね……」
そんな貴子さんの笑顔を見て、僕は自然に笑うことが出来ていただろうか。
楽しい思い出は心の中に残したまま、僕たちはまた新しく始めるんだ。
それが楽しいものになるかどうかは本人次第……。
そうやって積み重ねていくことで人生っていうのは作られていくのだと思う。
――願わくば、これから始まる新しい時間が皆にとって幸福なものでありますように……。
* * * おわり * * *
あとがき
この物語は処女(オトメ)はお姉さま(ボク)に恋してるととらいあんぐるハートとのクロスオーバーとなっています。
紫苑ルートの卒業式後の話で、もしも昔に瑞穂とまりあが恭也と出会っていたらというIFな世界のお話。
本当はもっと瑞穂と紫苑のラブラブぶりを書きたかったのですが、そういった展開はまた今後ということで。
では、今回はこのあたりで失礼します。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
* * *
おとボクととらハのお話〜。
美姫 「紫苑とのラブラブと知佳とのラブラブ」
二組によるラブラブな話が随所に!
美姫 「ラブ度がいつもの2倍、2倍」
とっても面白かったですよ〜。
美姫 「うんうん、本当に面白かったわね」
それでは、今回はこの辺で〜。
美姫 「じゃ〜ね〜」