*
立川いずみは逃げていた。
そこはどことも知れない闇の中……。
自分がなぜ追われているのか、その理由も分からないままただひたすらに走っている。
明りと呼べるものなど何もなく、右も左も……それどころか前も後ろも分からない。
ただ、自分を追ってくる『何か』から少しでも遠ざかろうと、彼女は必死に走っていた。
しかし、生まれつき体の弱い彼女がいつまでも走っていられるはずもない。
やがて恐怖から足が縺れ、そのまま冷たい闇の中に転んでしまう。
急速に背後に迫る気配に、いずみは震えながらも最後の望みを掛けて手を伸ばす。
その手が何かに触れたとき、不意に闇を光が照らし、そこで彼女の意識は途絶えた。
*
第1章 狙われた少女
*
エアコンの効いたバスの車内から降りると途端に刺すような陽射しに身を焼かれる。
都会ではほとんど聞くことの無くなった蝉時雨が、喧しい程耳を打つ。
……そこはそんな田舎町。
バスを降りた女性は陽射しを防ぐように手をかざしつつ、眩しそうに目を細めた。
……うーん、さすが。すごいナチュラルだ。
何やら感心しつつ、きょろきょろとあたりを見回す女性。
駅も近く、道路もきちんと舗装されているけれど、そこはやはり田舎だった。
少し遠くに目をやれば深緑に彩られた山々が見て取れる。
飽きない景色ではあるが、かと言ってこの暑さでは長く観賞している気にもなれない。
再び視線を戻して探索を開始する。
今女性がいるのは町の玄関口とでも言うべき場所だった。
寂れているわけではないが、真夏の炎天下ともなればさすがに利用するものも少ないようだ。
そもそも今日は平日である。
先程から何度も述べているように日はまだ高く、学生であれば授業を受けている時間帯だ。
そんな時間にこんなところにいるということは、女性は気ままな旅人か。
そう考えると、彼女の持っている割と膨らんだボストンバックにも頷ける。
女性はその荷物を少し重たそうに足元に下ろすと、近くのベンチへと腰を下ろして思わず顔を顰めた。
この炎天下、そんなことをすればたちまちお尻を火傷してしまう。
仕方なく立ち上がると、女性はバッグを肩に掛け直して歩き出した。
……熱中症になる前にさっさと旅館に行こう。仕事前に一眠りしたいし。
そう考えると、自然と足は宿場の集まる方向へと向かうものだ。
「こんにちは!」
女性は目当ての宿を見つけると、元気に挨拶して玄関を潜った。
*
――姫川郡天宮町――ひめかわぐんてんぐうちょう――……。
その日本海に面した山間の小さな町は、古来より温泉街としてそれなりの繁栄を築いていた。
街中には新旧様々な旅館が立ち並び、シーズンにはそのほとんどが満室になるという。
中でもここ、天宮温泉旅館は江戸時代から200年続いている由緒ある温泉旅館だった。
――建物は立派な日本家屋。
規模としてはさほど大きくもなく、今は女将と数人の従業員で切り盛りしているという話だ。
女性が玄関を潜ってロビーに入ると、女将らしい若い女性と中年の男性が何やら話をしているところだった。
「ですから、何度も申し上げているじゃありませんか。思い当たる節なんてありませんよ」
女将はどうやら何度も同じことを聞かれているらしく、辟易した様子でそう答えている。
「そういわれましても、我々としても仕事なものでして。何とかご協力願えませんか」
「はぁ、そう言われましてもねぇ……。本当にわたくしには何のことだかさっぱりで……」
申し訳なさそうにそう言う女将に、男性は落胆の色を隠せない様子だった。
「では、今日はこれで失礼します。どうも、お忙しいところをありがとうございました」
男性は丁寧にそう礼を述べて腰掛けていたソファから立ち上がると、脇に控えていた若い女性を伴って出ていった。
途中、その男性と目が合ったが、女性は軽く会釈するだけで特に声を掛けたりはしなかった。
「あの、お泊りですか?」
「あ、はい。先日予約しておいたものですが」
「済みません。どうも、お待たせしてしまって」
「いえ、構いませんよ」
慌ててカウンターへと入る女将に、女性はそう言ってにっこりと微笑んだ。
「では、こちらにお名前と連絡先を……」
そう言って女将が台帳を開いたとき、不意に玄関から明るい声が飛び込んできた。
「ただいま〜っ!」
「ほたる、裏に回りなさいっていつも言っているでしょう」
姿を見せた活発そうな少女に、女将が咎めるようにそう言った。
「だって、こっちのほうが近いし便利なんだもん。って、あれ?お客さん」
「こんにちは。君はここの娘さんかな」
そう言って微笑む女性に、ほたると呼ばれた少女は少しぼーっとした視線で彼女を見た。
「ほたる。ほら、ちゃんとお客様にご挨拶なさい」
「え、あ、はい。あたし、女将の娘で天宮ほたるって言います」
母親に促されて、何だかあたふたした様子でぺこりと頭を下げるほたる。
「ほたるちゃんか。かわいい名前だね」
「あ、ありがとうございます」
柔らかな微笑を浮かべてそう言う女性に、ほたるは顔を赤くして俯いてしまった。
「ところで、女将さん。先程警察の方が見えられていたみたいですけど、何かあったんですか?」
「え、ええ、まあ……」
何気ない調子でそう尋ねた女性に、女将は僅かに表情を曇らせつつ言葉を濁す。
「警察の人、今日もまた来てたの?」
「ほたる、お客様がいらっしゃる前であまりそういうことを言うものではありませんよ」
「だって……」
不服そうな娘を視線で黙らせると、女将はチラリと女性のほうを見た。
「このところ何かと物騒でしょ。それで警察の方が巡回ついでに注意して回っているんですよ」
「なるほど。……っと、記入でしたよね。えっと、ペンペン」
何でもないというような女将の言葉に、女性も頷いてポケットを探り出す。
「あ、よろしければこれどうぞ」
「ありがとう」
差し出されたサインペンを軽く礼を言って受け取ると、女性は台帳の紙面にそれを走らせる。
ペンを渡したほたるは後ろで手を組みつつ、女性の肩越しにその手元を覗き込んだ。
*
――東京都○○区2−11−8 桐生楓。
*
「ありがとう」
もう一度礼を言ってペンを返すと、女性――楓はその場を離れようとした。
その背中へと、思わずほたるは声を掛けて呼び止めてしまった。
「あ、あの……」
少し俯いてもじもじしているほたるの様子を見て、楓は一つ頷いた。
「じゃあ、ついでに部屋まで案内してくれるかな」
「は、はいっ!」
楓がにっこりと微笑んでそう言うと、それに顔を赤らめながらもほたるは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、ほたる。お願いね。くれぐれも粗相のないように」
「分かってるって。さ、こっちです」
そう言うと、ほたるは旅館の一室へと楓を案内する。
そこは海を見渡せる中々に良い部屋で、通された楓はその景色に思わず感嘆の息を漏らした。
「……いい眺めだね」
「でしょ。お夕飯の時間までにはまだ少しありますから、ゆっくりしててくださいね」
そう言って部屋を出ていこうとするほたるに、楓は振り返って声を掛けた。
「ところで、ここに立川いずみさんって女の人が泊まってると思うんだけど」
「はい。いずみさんのお知り合いですか?」
楓の口から出た人物の名前に、ほたるが不思議そうに聞いてくる。
「彼女の両親とうちの父親が知り合いでね。わたしが天宮へ行くって言ったら、ついでに娘の様子を見てきてくれって頼まれたんだ」
「そうなんですか。あ、でも、今はいずみさん寝てると思いますよ」
「具合、良くないの?」
「それもあるけど、何か悪い夢を見たとかで昨夜はあんまり眠れてないんですって」
ほたるの説明に、楓は僅かに表情を顰めた。
「どうします?様子を見に行きたいんでしたら、お部屋まで案内しますけど」
「いや、寝ているところを邪魔しても悪いし。夕食は皆一緒で宴会場だよね?」
「はい。6時から大広間ですよ」
「立川さん、夕食には起きてこれそうだった?」
「それはたぶん大丈夫だと思いますよ。体そのものはそんなに悪くないみたいでしたし」
「じゃあ、そのときに紹介してもらえるかな?」
「わかりました。じゃあ、あたしは宿題やらないといけないのでこれで」
そう言ってぺこりとお辞宜をすると、ほたるは部屋を出ていった。
……はぁ、かわいい子だったな。
遠ざかっていくほたるの気配を感じつつ、楓はそっと溜息を漏らす。
年は15、6歳だろうか。
明るい感じの笑顔が似合いそうな少女だ。
自分も男として出会っていたら、速攻で口説いていたことだろう。
――桐生楓は退魔師である。
その武器は相手の妖気を自らの体内に取り込み、浄化するという特異体質だ。
楓はその体と簡単な霊術を用いて、これまでに幾つかの事件を解決してきていた。
その過程で取り込んだ妖気が原因で、楓は女性の体になってしまったのだった。
……あれから既に6ヶ月。
そろそろ戻らないと自分が男だったことを忘れてしまいそうで怖い。
そう思っていた矢先、父親が今回の仕事の話を持ってきた。
依頼人は父の知り合いで、依頼内容は娘を除霊してほしいというものだった。
所謂お払いという奴で、簡単だが場合によっては高収入を得られるというおいしい仕事だ。
ただ、稀に本物が混じっていることもあり、そうした場合は割りに合わない事のほうが多い。
楓はとりあえず詳しい話を聞くために、依頼人である娘の両親に会うことにしたのだが。
*
――立川いずみ、19歳。
生まれつき体が弱く、幼い頃から原因不明の体調不良により入退院を繰り返してきた。
現在は、姫川郡天宮町の天宮温泉旅館にて静養中――。
*
鞄の中から取り出した除霊対象者の大まかな情報に目を通し、楓は少し考え込む。
一緒に入れておいた依頼状にはこの類の仕事としては破格の依頼料に加えて宿泊費を含めた必要経費のすべてを依頼人が負担する旨が記されていた。
最初これを見たとき、楓は直感的に何かあると感じた。
一人娘が可愛いという親の気持ちは分からないこともないが、幾ら何でもこの金額は異常だ。
しかし、今までの払い師にも同じ額を払ったと言われれば、楓は口を閉じるしかない。
代わりに気になったことを尋ねると、夫妻は顔を曇らせつつそれに答えてくれた。
――以前にも何度か払い師に頼んだことはある。
だが、その誰もが思ったような成果を上げられずに終わっているのだという。
「で、おまえは引き受けたのか?」
自分の部屋で旅支度をしていた楓に、父親が背後からそう声を掛ける。
「ほっとくわけにもいかないでしょ。それに天宮には治癒の秘境と言われる温泉があるんだ。そこへ行けばわたしのこの体も元に戻せるかもしれないし」
「まあ、そうなったら母さんは悲しむだろうな」
「うっ、……で、でも、わたしは元々男だったんだし」
「今のその姿を見てると、とてもそうは思えないんだがな」
「誰のせいでこうなったと思ってるの!」
「おまえが仕事でヘマったからだろ」
「あ、え、っと、それは……」
「まあ、これも運命だと思って諦めな」
はっはっはと笑いながらそう言うと、父親は部屋を出ていった。
……思い出しただけで頭が痛くなってくる。
母親は母親で、可愛いからこのままでいいと言って真面目に治そうとしないし。
はぁ、まったくうちの両親は何を考えてるんだか……。
自分の置かれた境遇を嘆くように、楓は盛大に溜息を漏らした。
*
――午後6時。
大広間にて食卓に着いた楓は、そこに並べられた料理の数々に思わず感嘆の声を上げていた。
海と山、両方の幸をふんだんに使った会席料理の数々がそこにはあった。
それらは見た目の美しさもさることながら、食通の彼女が思わず言葉を失くしてしまうほど美味だった。
一品一品をじっくりと味わうように、ゆっくりと箸を進める楓。
そうして5分ほどが過ぎた頃、ほたるが一人の女性を連れて大広間に入ってきた。
「こんばんは、っていうにはまだ早い時間かな。桐生さん、いずみさん連れてきましたよ」
「ありがとう。それと、わたしのことは楓でいいよ」
箸を止めてそう言う楓に、ほたるは少し頬を赤くして頷いた。
「じゃ、じゃあ、楓さん……」
「うん。やっぱりそっちのほうがしっくりくるね」
赤い顔のほたるを他所に、一人納得すると、楓は彼女の後ろで戸惑ったような顔をしている女性へと声を掛けた。
「あなたが立川いずみさん?」
「え、あ、はい」
「はじめまして。桐生楓です」
「あ、これはご丁寧にどうも」
立ち上がって頭を下げる楓に、慌ててその女性も頭を下げる。
「どうして名前を知っているか、ですよね?」
「ええ……。あの、どこかでお会いしたことありましたっけ」
「こうして会うのは初めてですよ。立ち話も何ですし、お話は食べながらにしませんか?」
笑顔でそう言って席を勧める楓に、いずみは戸惑いながらも勧められるままに着席する。
「じゃあ、あたしはこれで」
「待って」
そう言ってそそくさとその場を離れようとするほたるの服の裾をいずみががっしりと掴んだ。
「わたし、初対面の人と二人きりっていうのはちょっと……」
「え、でも、あたしもご飯食べないといけないし」
「だったら、ほたるもここで食べればいい。わたしの分、分けてあげるから」
「え、えっと……」
いずみに縋りつかれて少し困った顔をしながら、ほたるはチラリと楓のほうを見た。
「わたしはいいよ。大勢のほうが楽しいし、町のこととかほたるちゃんに聞きたかったから」
「ありがとうございます。それじゃ、おじゃましますね」
そう言ってほたるは厨房から自分の分の食事を持ってくると、二人の間に腰を下ろした。
「さて、どうしてわたしが立川さんのことを知っているかってことですけど」
3人が席に着いたのを見て楓がそう口を開いた。
「いずみさんのご両親と楓さんのお父さんとが知り合いなんですよね」
「そうそう。それで、天宮に行くって言ったらあなたの様子を見てくるようにって頼まれて」
「はぁ、あの人たちは何を考えてるのかしら……」
二人にそう説明を受けたいずみは、思わず右手で額を押さえて溜息を漏らした。
「まあまあ、ご両親も立川さんのことを心配してわたしに頼んだんだと思うし」
「すみません、わざわざ声を掛けていただいて。両親には今夜にでも連絡しておきますから」
「別に気にしなくていいですよ。元々、こっちに来る用事もありましたから」
そう言って笑う楓に、つられるようにいずみも小さく笑みを零す。
そんな二人の様子を見て、ほたるが急に何かを思いついたようにぽんっ、と手を打った。
「そうだ。楓さん、明日の予定はもう決まってるんですか?」
「明日?ううん、特には何も。適当に町を見て回ろうかとは思ってるけど」
「じゃあ、あたしが案内します。地元ですから、隠れた名所とか知ってますし」
「いいの?じゃあ、お願いしようかな」
「はい。任せてください。いずみさんも、よかったら一緒にどうですか?」
「そうね。偶には外に出て日に当たらないといけないし、体の具合が悪くなければ」
「決まりですね。明日は補修もないし、朝からじっくりと案内出来るよ」
本当に嬉しそうにそう言うほたるに、楓といずみは思わず顔を見合わせた。
*
その後の食事をしながらの会話は賑やかなものだった。
女三人寄れば姦しいとはよく言ったものである。
いずみも久しぶりにほたる以外の友人を得たようで、楽しい一時を過ごすことが出来た。
でも……。
「じゃあ、わたしはそろそろ部屋に戻りますから」
そう言って席を立ついずみを見て、ほたるもすっと立ち上がる。
「送りますね」
「ありがとう。ごめんね、いつも」
「どういたしまして。それじゃ、楓さん。あたし、いずみさんを部屋まで送ってきますから」
「うん。おやすみなさい、いずみさん」
「おやすみなさい……」
小さく呟くようにそう言うと、いずみはほたるを伴って楓の部屋を出ていった。
食事を済ませた後、周囲に迷惑を掛けてはいけないということで移動したのだった。
「楽しい人ですよね」
「え?」
「楓さん。それに、笑顔がすごく優しい……」
廊下を歩きながら、どこかうっとりした様子でそう話すほたる。
「ほたるは楓さんのこと、好きになったみたいね」
「え、そ、そんなんじゃないよっ!」
「ほたる、顔真っ赤。そんな顔で否定しても説得力ないわよ」
「だ、だって、楓さんは女の人だよ。そりゃ、美人だし、憧れちゃうけど、そんなんじゃ……」
「わたしはほたるが幸せになれるなら、相手が同性でも気にしないけど……」
ぼそりと怖いことを言うと、いずみは部屋の鍵を取り出してドアを開けた。
「ありがとう。それじゃ、明日……」
「うん。お休みなさい」
慌ててそう挨拶すると、ほたるは逃げるようにその場を後にした。
――桐生楓さん。悪い人じゃないみたいだけど、それでもたぶん……。
そっと親友の背中を見送ると、いずみは室内に戻って再びドアに鍵を掛けた。
そのままゆっくりとベッドサイドに近づき、鞄から携帯電話を取り出す。
バッテリーの残量を確認して、ゼロになっているのを見ると5分だけ充電して電話を掛けた。
最初は連絡しないことへのお説教で、その後に思い出したかのように具合を聞いてくる。
そして、話がお払いのことに及ぶと、いずみの機嫌はいよいよ悪くなった。
「またそんな無駄なことにお金使って、いい加減にしないとうちの家計が破綻するわよ」
「無駄なこととは何だ。これでも父さんたちはおまえのことを心配してだな」
「よく言うわよ。わたしがそういうの嫌っているの知ってるくせに」
「しかし、このままではおまえの体が……」
「いいから放っておいて。どの道、わたしはもう……」
勢いに任せて言ってはいけない事まで言ってしまいそうになったとき、不意に電話が切れた。
――どうやらバッテリーが無くなったらしい……。
乱れた呼吸を整えつつディスプレイを見ると、電池切れを示すランプが点滅している。
――偶然……。
いや、こうなることを予想して、いずみは最初から僅かしか充電しなかったのである。
何事にも保健は必要だと思うから、彼女は普段からそういう準備までしている。
とりあえず、使えなくなった携帯電話を再び鞄の底に押し込める。
ちなみに、それとは別に緊急用のものを一つ持っていることは両親にも知らせていない事実である。
と、そのときドアが軽くノックされ、いずみは億劫そうにしながらそれに応対する。
「――誰……」
と言っても、自分を訪ねてくるものなど旅館の従業員以外では二人くらいしかいないのだが。
「楓です。いずみさん、今少しよろしいですか?」
*
――そして、翌日。
楓たちはそれぞれに朝食を取り終えると、軽く身支度を整えて街へと繰り出した。
今日も空は快晴……。
暑くなるということで、楓とほたるは帽子を被り、いずみは日傘を差している。
3人が向かっているのは町の北側にある山だった。
山登りと言ってもさほど傾斜がきついわけではない。
中腹には滝もあり、この季節でも比較的涼しく過ごせるのだという。
昨夜のうちに話し合った結果、景色の良い所ということでほたるが提案したのがそこだった。
早い時間から出発したこともあり、楓たちは昼過ぎには山頂へと辿り着いていた。
「はぁ……、これはすごいや……」
楓は思わず柵に両手をついて身を乗り出した。
――眼下に広がる天宮の街。
その向こうには夏の陽光を受けてきらめく紺碧の海……。
見上げれば空は青く、果てしなくどこまでも続いている。
旅館の部屋から眺める海も見事だったが、ここでのそれは正に絶景と言えるものだった。
「気に入ってもらえました?」
「最高だよ。ありがとう、ほたるちゃん」
少し不安げに聞いてくるほたるに、振り返ると楓は満面の笑顔でそう言った。
「はぁ……」
まるで少年のようにキラキラしたその表情に、ほたるは少しあてられてしまった。
「ねえ、ほたるちゃん。あれって何かな?」
そう言って楓が指差した先にあったのはさほど珍しくもないアイスクリームの屋台だった。
「え、ああ、屋台ですね。今年も出てたんだ」
「毎年来るものなの?」
「ええ、今のところはそうですよ。楓さん、食べたいんですか?」
「うん、ちょっとね」
「じゃあ、あたし買ってきますね」
そう言うと、ほたるは返事も待たずに屋台のほうへと駆けていってしまった。
「ほたる、嬉しそうですね」
「わっ、いずみさん、いたの?」
「朝からずっと一緒でした」
ぼそりと少し拗ねたようにそう言ういずみに、楓は小さく苦笑した。
「まあ、冗談はさておき、本当に楽しそうだよね」
「あなたと一緒にここに来れたことが嬉しいんですよ、ほたるは」
「本当にそうだったら、嬉しいですね」
「本当ですよ。だって、わたしはあの子にああいう笑顔をさせてあげられないから」
「それって、どういう……」
どこか寂しそうに漏らしたいずみの言葉に、楓がその意味を聞こうとしたとき、
「お待たせ。アイス、バニラといちごとありますけど、どっちにします?」
3人分のアイスを抱えてほたるが戻ってきた。
「じゃあ、わたしはいちごを」
「バニラで」
楓がいちご、いずみがバニラを選び、それぞれ受け取って食べる。
ほたるも手元に残ったいちごに口をつけながら、これからどうするかを二人に尋ねた。
「とりあえず、時間的にはお昼でしょ。アイス、先に食べたの失敗だったかな」
コーンをサクサクしながら楓が言った。
「甘いものは別腹……。それに、ほたるは育ち盛りだから大丈夫」
「そうでもないよ。この間も体重が……って、何言わせるの!」
「第二次性徴機における脂肪の蓄積は女性が妊娠・出産する上で重要なことなのですよ」
「真面目な顔して変なこと言わないでください」
真っ赤になりながら自分の胸元を腕で隠すほたる。
「それで、どうします?」
「そうですね。ほたるも気にしているようですし、お昼は少し軽めにしておきましょうか」
話もまとまり、3人は少しだけ下山して蕎麦屋で昼食を取った。
「おばちゃん、ざる3つ!」
顔馴染みらしい蕎麦屋の女性店主に、ほたるが元気に注文する。
清水で打った蕎麦はなかなかのもので、楓も素直に賛辞を述べている。
午後は一番暑い時間帯を滝の側で涼しく過ごし、夕方になってから山を降りることになった。
水の冷たさに小さく悲鳴を上げながら、川岸近くで跳ねる魚と戯れるほたる。
そこへ、楓が懐から取り出したワイヤーを投げて、空中に身を躍らせた魚を絡め取った。
「すご〜い、楓さん。どうしてそんなこと出来るんですか?」
リールでワイヤーを巻き取る楓に、ほたるが目をキラキラさせながら詰め寄ってくる。
「これはまあ、特技みたいなものかな。離れたところにある物を摂るのに便利でしょ」
そう言って楓がリールを手の中に納める頃には捕まえていた魚もちゃんと川に戻していた。
「あれ、逃がしちゃうんですか?」
「ちょっと、やってみたかっただけだからね。ありがとう、もう行っていいよ」
近くをくるくると回っていた魚に楓がそう声を掛ける。
と、その魚はまるで彼女の言葉を理解したかのように一回転して下流のほうへ泳いでいった。
「今の魚、楓さんの言葉が分かったんでしょうか」
「さあ、わたしは魚類の言語は分からないし。ただ、通じてたらいいなとは思うよ」
「ロマンチストなんですね」
「そんなんじゃないけどね」
そう言って、楓は腰掛けていた岩から腰を上げる。
「水、冷たいみたいだね」
「はい、とっても気持ちいいですよ。水着、持ってきてないから泳げないのが残念ですけど」
裸足でぱしゃぱしゃと水辺を歩きながら、ほたるは心底残念そうにそう言った。
「あまり滝壺では泳がないほうがいいよ。流れが渦を巻いていて危険だから」
「そうですね。わたしも小さい頃は友達とよく泳いでましたけど……」
「大人たちに見つかって怒られたんだね」
「はい、こっぴどく」
そう言ってチロリと舌を出すほたるが可愛くて、楓は思わず視線を逸らした。
そんな二人の様子を、いずみは体を休めるために入った木陰から微笑ましそうに見ている。
楽しい時間はあっという間に流れ、帰りは長めの影を伴っての下山となった。
「あれ、こんなところに神社ってあったんだ」
山を下っている途中、行きには気づかなかった鳥居の存在にほたるが首を傾げる。
「誰もいないみたいだし、古くなってて危険だから近づかないほうがいいよ」
「そうですね。あまり遅くなってもいけませんし、早く山を降りましょう」
軽く注意を促す楓に、ほたるも頷いて鳥居の前から離れる。
「…………」
「いずみさん?」
何故かじっと鳥居の奥を見つめているいずみに、ほたるが不思議そうに声を掛ける。
「早くいきましょう。何だか嫌な雲も出てきましたし」
「……そうですね」
楓にそう言われて空を見上げると、確かにそこには今にも雨を降らせそうな黒い雲があった。
いずみは軽く頭を振って考えを打ち切ると、二人と一緒に急いで山を降りるのだった。
*
――夕刻。
降り始めた雨に追い立てられるように、3人は旅館へと駆け込んだ。
「もう、天気予報じゃ雨なんて降らないって言ってたのに……」
バスタオルで濡れた髪の毛を拭きながら、ほたるが一人そうごちる。
「まあ、山の天気は変わりやすいって言うし、ついでだからお風呂入っちゃえば?」
「そうですね。……いずみさんは?」
「わたしもいただくわ。体、冷やすといけないし……」
「じゃあ、あたし準備してきますね」
そう言うと、ほたるは階段を上がって自分の部屋へと行ってしまった。
「いずみさん、体のほうは大丈夫ですか?」
「ええ、でも、少し疲れました……」
「部屋まで送りますよ」
「ありがとうございます」
少し辛そうないずみに楓がそう言って肩を貸し、二人はいずみの部屋へと向かう。
「じゃあ、また後で」
そう言っていずみの部屋の前で別れ、楓が立ち去ろうとしたときだった。
「きゃぁぁぁっ!」
「いずみさん!?」
不意にドアの向こうから聞こえたいずみの悲鳴に、楓は慌ててドアに飛びついた。
ここは古い造りの旅館で、オートロックなんてハイテクなものは存在しない。
いずみが鍵を掛ける前だったことも幸いし、楓はすぐにドアを開けて中に入ることが出来た。
だが、そこに部屋の主である彼女の姿はなかった。
*
――いずみが消えた。
雨に煙る夕闇の中、知らせを受けた警察は一連の失踪事件との関連も含めて捜査を開始した。
一方、いずみの消えた部屋に妖魔の気を感じた楓は一人廃墟と化した古い神社へと向かう。
不気味な稲妻とあるはずのない灯火に照らされる中、荒れ果てた境内で彼女が見たものとは……。
*
――次回、幻想退魔録 第2章 魔天回廊
*
「……さしあたっては特に。強いて言うのなら、普通の生活をしてみたかったです……」
*
新連載の投稿、ありがと〜。
美姫 「男から女へとなってしまった楓を主人公に、どんなお話が始まるのかしらね」
うんうん。攫われたいずみも心配だしな。
美姫 「一体、この事件の真相は!?」
いずみの体調不良と関係があるのか、ないのか。
美姫 「次回も楽しみにしてますね」
ではでは。