幻想退魔録 最終章
風と太陽の祭壇
* * * * *
風の流れの向こうにようやく見えた光。だが、その光を抜けた先に楓たちが辿り着いたのは、先程ほたるが倒れていたのとほぼ同様の構造をした空間だった。
一瞬、戻ってきてしまったのかと思ったが、そこにほたるを襲った怪物の姿はない。
何より空気が違っていた。先の空間が邪気と呼んでも差し支えないほど禍々しい気配を放っていたのに対して、今彼女たちが目にしている空間にはまるで神殿のような荘厳で神聖な気が満ち満ちている。これほど清浄な気に満たされた場所であれば、先のような邪悪な存在に襲われることもないだろう。
この雰囲気に呑まれたおかげで、二人が本来味わうはずだった絶望感をほとんど感じずに済んだのも僥倖だった。
「少し休もうか」
負ぶっていたほたるに一声掛けると、楓は身体を休めるべくその場に腰を下ろした。
「ここ、何なんでしょうね」
床にぺたんと座り込み、ほたるはきょろきょろとあたりを見回す。未だ気を抜ける状況ではないものの、楓が幾分緊張を解いたことで余裕が出来たのか、彼女もこの場所の異常さに気づいたようだ。
「さあ、でも、天宮町の中の何処かじゃないかな。流れている霊脈の質が同じだからね」
「霊脈って何ですか?」
「あー、まあ、その土地柄を表す気の流れみたいなものかな。知り合いの風水師に散々聞かされたもので、そういうのにはちょっと詳しいんだ」
「ふーん、そうなんですか」
「うん。それより、今は少しでも休んで体力を回復させたほうが良いよ。正直、これからどうなるか分からないから」
失言に気づいて慌ててごまかすも、その後に余計なことまで言ってほたるを不安にさせてしまった。
「そうですね……」
それきり俯いて黙り込んでしまうほたるに、楓は内心で頭を抱える。自分の仕事に他人を巻き込んだことなど初めてではないが、どうにも彼女が相手だと素に戻ってしまうのだ。
セオリーに則って行動するのなら、薬なり霊術なりでほたるを眠らせてその間に状況を打開し、然る後に彼女の記憶から事件に関する事柄を消去するべきなのだが。
実際、楓はこれまでの事件で関わった人々に対して、そのように処理してきた。表社会で平凡に暮らしている彼らにとって、裏を知ることは決して利点にはならないからだ。
だというのに、ほたるに対しては何故かそれが出来ない。
忘れられることが怖いのか。たった一日、一緒に過ごしただけの自分を友達と呼び、親身になってくれた彼女。
純粋で真っ直ぐで、夏の向日葵のような笑顔の眩しい女の子。
そんな彼女を巻き込んでしまった事に、楓は今更ながら罪悪感で胸が潰されてしまいそうだった。
「ごめん……」
自惚れだと理解していても、つい謝罪の言葉が口をついて出てしまう。幾ら経験を積んでいても彼女もまだ二十歳を過ぎたばかりの若輩だ。先の見えない状況に、弱気になるなというほうが無理というものだろう。
「何がですか?」
「いずみさんのこと、すぐ近くにいたのに助けられなかったから」
「そんなの、楓さんのせいじゃありませんよ」
「それに、今度はほたるちゃんまで巻き込んだ。わたしに関わらなければ、こんなところに飛ばされて怖い思いをすることもなかったのに」
弱々しく呟かれた楓のその言葉に、ほたるが勢いよく顔を上げた。
「それ、本気で言ってるんですか?もし、そうだったらあたし、怒りますよ」
「えっ?」
「楓さんにどんな事情があるかなんて知らないし、聞くつもりもないですけど、自分に関わらなければ良かったなんて、そんな寂しいこと言わないでください。あたし、楓さんのこと……」
ほたるは怒っていた。自分は彼女のことを友達だと思っているのに、当の本人は関わらなければ良かったなどと言う。それが堪らなく寂しくて、許せなかったのだ。
「……そう、だね。わたし、どうかしてたよ」
「分かってくれれば良いんです。それと、ごめんなさい、怒鳴ったりして」
「良いよ。おかげで目も覚めたから」
目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながらそう言うほたるに、楓は軽く答えると立ち上がった。
「ちょっとそのあたりを見てくる。ほたるちゃんはまだ休んでて良いから、その代わりここから動いちゃダメだよ。後、何かあったら迷わず呼ぶこと。良いね」
「もう、わたしそんなに子供じゃありませんよ」
「そうだね。じゃあ、子供じゃないほたるちゃんはきちんとわたしの言う事を守って待っていられるよね」
「楓さん!」
「あはは、行ってきます」
眉を吊り上げて怒るほたるから逃げるように近くの壁まで歩くと、楓は慎重にその壁面へと手を触れた。手のひらに伝わるひんやりとした石の感触。磨き上げられた大理石のように滑らかなその手触りは、明らかに人工物だ。
天然の岩壁に群生していたようなヒカリゴケはここには見られず、代わりに等間隔に設置された燭台のようなものに霊術によるものと思われる明りが灯されている。
誰かが掃除でもしているのだろうか。屈んで指先で床を擦ってみたが、こんな洞窟の中だというのに、積もっている埃はほんの僅かだ。
霊術師が秘密の地下工房を持っているなど、そう珍しいことでもないのだが、楓にはどうにも腑に落ちない。
燭台に掘り込まれている術式は現在用いられているどの形式とも異なるもので、詳しいものが見ればそれだけで何かあると思わずにはいられなかった。強いて近いものを挙げるとすれば、古代に失われた神聖文字だが、そんなものが現代まで可動状態で残っていれば、とっくに退魔協会に発見されて管理下に置かれていることだろう。
誰かが秘密裏に復活させたということなのか。となると、ここは少なくともその時代に造られたものということになるのだが、それにしてはきれい過ぎはしないだろうか。
ぐるりとあたりを見回して、楓はうーんと唸る。想像することは幾らでも出来るが、どれも確信には至らない。情報が不足しているのだ。
考えていても仕方ないか。それにいつまでもこんなところにいるのにも限界がある。少々乱暴ではあるが、霊術を使って天井をぶち抜いてそこから外に出よう。その後でここが崩壊するかもしれないが、そんなのは自分の知ったことではない。
かなり高い天井を見上げて、楓が半ば本気でそんなことを考え始めた頃だった。突然、フロアの一角が光り出したかと思うと、床に小さな円陣が浮かび上がり、そこから一人の少女が姿を現した。
いずみが消えた際の出来事を連想させるその発光現象に、ほたるが身を竦ませながら楓を呼び、呼ばれた楓はすぐさま彼女の下へと賭ける。
そして、現れた少女はきょろきょろとあたりを見回して楓たちを見つけると、何か慌てた様子でこちらへと走り寄ってきた。
「あ、あの、上から飛ばされてこられた方たちですよね?」
よほど慌てていたのか少女は楓たちの前で立ち止まると、乱れた息もそのままに質問をぶつけてくる。ここの関係者なのだろうか。しかし、神社などで見かける巫女の格好をしたその少女は見たところ、十に届くか届かないかといった年齢だ。
何やら事情を知っているらしい彼女へと楓が警戒の目を向けていると、少女はそれを察したようで慌てて名乗ってきた。
「申し遅れました。わたくし、こちらの祭壇の管理代理を務めさせていただいておりますマリアシルフィードと申します。以後、お見知りおきを」
そう言って少女、マリアはぺこりと頭を下げた。
「わあっ、かわいい!」
子供っぽく愛らしいその姿に、ほたるが黄色い声を上げて少女に抱きつく。抱きつかれたマリアは突然のことに驚いて目を白黒させている。
「ほたるちゃん。気持ちは分からないでもないけど、いきなりはダメだよ。ほら、彼女、困ってるでしょ」
「えっ、あ」
楓に苦笑しながらそう指摘され、腕の中の少女を見たほたるは慌てて彼女を解放した。
「ふぅ、びっくりしました……」
抱きしめられて乱れた着衣を整えながら、マリアはそう言って安堵の息を漏らす。
「ご、ごめんなさい。あなたがあんまりにもかわいかったものだから、つい……」
「はぁ」
「まあ、女の子はかわいいものを見ると、発作的に抱きしめたくなる生き物らしいからね。君も女の子なら、そのあたり理解は出来るんじゃないかな」
気まずそうに謝るほたるの頭をぽんぽんと撫でながらそう言う楓に、マリアは何と答えたものかと困ったようにあいまいな笑みを浮かべる。
「とはいえ、やっぱり初対面の相手にいきなり抱きつくのはよくないよね。ここは一つ、お詫びにほたるちゃんのかわいい姿を見てもらうということで」
「ちょ、楓さん!?どうしてそうなるんですか」
「人に迷惑を掛けたときはきちんと謝ってお詫びをするものだよ」
「だ、だからって、どうしてあたしが恥ずかしい目に遇わなきゃいけないんですか!?お詫びするならもっと他に方法があるでしょ」
「あれ、わたしはほたるちゃんのかわいい姿を見てもらうって言っただけだよ。それともほたるちゃんはわたしに何か恥ずかしいことをしてほしいのかな」
くすくすと笑いながらそんなことを言う楓に、ほたるは顔を真っ赤にして沈黙してしまった。
「あ、あの、わたくしは別に気にしておりませんので。どうか、そのようなことは……」
こちらも少し顔を赤くしながら丁重に断るマリア。楓は一人だけ楽しそうだ。
「それで、さっきの質問に対する答えだけど。……っと、その前に、そちらにだけ名乗らせるというのも失礼だよね」
「は、はぁ……」
何事もなかったかのようにそう言って話を進める楓に、マリアは呆気に取られたように間抜けな声を漏らす。
「わたしは桐生楓。観光関係の記事を中心に書いてるフリーライターかな」
「へぇ、楓さん。ジャーナリストさんだったんですか?」
「他にも雑多な仕事を引き受けたりもしてるけどね。ほら、ほたるちゃんも自己紹介」
「あ、はい。天宮ほたるです。さっきはごめんね。仲良くしてくれると嬉しいな」
楓に促されて一歩前に出ると、ほたるはそう言っておずおずと手を差し出す。
「こちらこそ。わたくしなどでよろしければ、ぜひ」
差し出された手を見て嬉しそうにそう言うと、マリアは小さな手でそれを力一杯握った。ほたるもそれに応えて握り返し、二人の間に友情が芽生える。
「そろそろ良いかな。出来ればこっちの質問にも答えてもらえるとありがたいんだけど」
放っておいたらいつまでも握手していそうな二人に苦笑しつつ、楓がやんわりと間に割って入る。言われて我に返ったマリアは、慌てて手を離すと恥ずかしそうに俯きながらそれに頷いた。
そんな姿もツボにはまったのか、ほたるは彼女を抱きしめたそうにうずうずしているが、さすがに先程と同じ展開になると分かっているので必死に抑えている。その様子に苦笑を深めるも、すぐに真剣な表情になると楓は自分たちがこちらに飛ばされてから今に至るまでの状況をマリアに説明した。
尤も、そう多くのことが分かっているわけではない。突然、自分たちのいた部屋に陣が展開され、気づけば洞窟の中に倒れていたのだ。楓は意識を失う直前に陣の全容を見ることが出来たが、そこから導き出される結論はいずみのときのそれとさほど変わらなかった。
話を聞いたマリアは難しい顔で何やら考え込んでいたが、楓の話が終わるといきなり二人に向かって深々と頭を下げてきた。
「申し訳ございません。お二人がこちらに強制転移させられたのは、わたくしどもの不手際によるものです」
「……詳しく聞かせてもらえるかな。そもそも、ここはどういう施設で、君は具体的に何をする人なんだい?」
少女に目線の高さを合わせると、楓はなるべく優しい口調でそう尋ねる。問われたマリアは少し怯えていたようだったが、楓のそんな態度に安堵すると、軽く居住まいを正してそれに答えた。
そもそも、この祭壇を含む地下施設はこの土地の霊脈を管理するためのものであり、現在はマリアと彼女の双子の妹との二人で代理管理をしているのだという。このシステムがいつからあるのかは彼女たちにも分からないが、少なくともそれのおかげでこの地方が長らく天災を免れてきたのは事実だった。
ところが、近年の開発によってその均衡が崩された。精霊の恩恵を忘れた人間の手によって土地は荒らされ、濁流となった霊脈に次第に管理が追いつかなくなっていったのだ。
今では数箇所に断裂すら生じている有様だ。
このままではこの地方はそう遠くないうちに大きな災厄に見舞われることになるだろう。これを何とかすべく、マリアは暫定的な管理者権限を行使して霊脈の再構築を行おうとしたのだが、彼女の扱えるレベルでは完全に修復することは叶わなかった。
現状は断裂した箇所を空間ごと縫合することで無理矢理既存の流れを維持している状態なのだが、これが不安定なために時々周囲のものを無作為に引き寄せてしまうのだ。今回、楓たちはこれに巻き込まれた形になる。
「正式な管理者であればこのような事態にはならないのでしょうけれど……」
そう言ってマリアは、疲れたように溜息を漏らす。実際、その表情には濃い疲労の色が浮かんでいた。
「事情は分かったよ。でも、それじゃあ、どうして退魔協会に助力を求めないの。この地方に駐在官はいないみたいだけど、それならそれで協会本部に申請すれば一も二も無く人員を派遣してくれるだろうに」
「そ、それは……」
至極尤もなことを言う楓に、マリアが言葉に詰まる。だが、楓は既に凡その事情を察してしまっていた。
「それじゃ、質問を変えようか。わたしたちより先にここに飛ばされてきた人はいないかな。特に昨日の夕方以降、二十歳前後の線の細い女性とか」
「立川いずみ様のことでしょうか?」
「いずみさんを知ってるの!?」
マリアがいずみの名を口にした途端、それまで黙って話を聞いていたほたるが勢いよく彼女に詰め寄った。
「え、ええ、ほたる様がおっしゃるいずみ様が、わたくしの存じておりますいずみ様と同一の方かは判断しかねますが、昨日の夕刻、こちらに来られた女性の方は確かにそう名乗られました」
「やった!」
ほたるの剣幕にやや圧倒されながらもそう答えるマリアに、彼女の目に希望の色が宿る。
「そ、それで、そのいずみさんは今どこに?」
「先程お食事を摂られておりましたので、今は入浴の最中かと」
「こんな地下にお風呂があるんだ。それって、やっぱり温泉なのかな?」
マリアの入浴という言葉に、楓が興味を示す。霊脈の近くに源泉があるものなら、そこから染み出す湯には高濃度の霊気が溶け込んでいる可能性が高い。もしかしたら、この身を蝕む呪い染みた現象を解消することが出来るかもしれないと期待を寄せるのも、無理からぬことではあった。
「源泉から湧き出たものを溜まるに任せているだけではありますが、それだけに効能は確かですよ。いかがです?いずみ様がお探しの方なのかご確認いただいたほうがよろしいでしょうし、お二人も入っていかれては」
「楓さん、行きましょう!」
ほたるはほたるで、姉貴分の無事を確かめたくて躍起になっているらしく、楓の腕を掴んで今にも駆け出しそうだ。
「では、ご案内いたします。お二人ともこちらへ」
そんな二人の様子に小さく笑みを零すと、マリアは彼女たちを先導するように祭壇の間から延びる洞窟の一つへと足を向けた。
「そういえば、さっき霊脈とか退魔協会がどうとかって言ってましたけど、楓さんってもしかしてその筋の人なんですか?」
「うっ、そんなこと言ってたかな」
洞窟を歩きながら思い出したようにそう聞いてくるほたるに、楓は思わず言葉に詰まった。
「とぼけないでください。あたし、記憶力には自信があるんですから。それで、どうなんです?」
「酷いな、ほたるちゃん。わたし、そんなに人相が悪いのかな」
「はぁ、なに言ってるんですか?」
「だって、その筋の人って言ったら893の人じゃない。わたしって、そんなに柄の悪いように見えるのかなって」
「楓さん、態と言ってますね?」
あくまでとぼけようとする楓に、ほたるの目がすーっと細められる。
「あたしは真剣に聞いてるんです。そりゃ、楓さんは良い人だし、あんな奴らと同じだなんて思えないですけど……」
「何かあったの?」
退魔師をやーさんと一緒だと言うほたるに、楓は漏れそうになる苦笑を隠してそう尋ねる。いや、大体のことは話に聞いて知っているのだが、ここはあえて吐き出させるのがほたるの精神衛生上良いと思ったのだ。
除霊を専門とする霊媒師はどうか知らないが、表社会に出張ってくる退魔師など、大抵は見た目に仰々しいだけのインチキだ。いずみの両親も最初のうちはそういう輩に随分と金を騙し取られたようで、後にきっちりと制裁を加えている。当然、そんな連中のする除霊や解呪に効果があるはずもなく、中にはそれらの行為に託けて彼女にいかがわしいことをしようとするものまで出る始末。
これに激怒したほたるはそのインチキ退魔師を実力で排撃し、以後そういった輩からずっといずみを守ってきたのだ。
歩きながら延々と愚痴を零す少女に、楓はとりあえず自分は違うとだけ言っておく。連中を擁護する気など毛頭無いが、自分も同類などと思われては堪らないからだ。
それにしても……。
湿気を帯び始めた空気に、温泉特有の匂いに混じって微かだが邪気を感じる。しかも、これは楓にとって覚えのある気配だ。
自然と表情が険しくなる彼女に、前後を歩く二人の少女は気づかない。いや、例え気づいたとしても、その目を見てしまえば声を掛けることなど出来はしなかっただろう。
噴き出しそうになる殺気を必死に押し殺しながら、気取られない程度に歩調を速める。だが、唐突に洞窟の奥で殺気が膨れ上がった瞬間、楓は傍らにほたるがいることも忘れて駆け出していた。
「ちょ、楓さん、いきなりどうしたんですか!?」
驚いたように声を上げるほたるを振り切り、遅れてそれに気づいたマリアの横を駆け抜ける。
「……っ!?」
慌てて呼び止めようとしたマリアだが、彼女もこの殺気に気づいたのか、血相を変えるとすぐに楓の後を追って走り出す。
「もう、何なのよ」
洞窟を抜けると同時に、楓は問答無用で湯煙の向こうに立つ影へと小刀を投げ放った。確認するまでもなく、その相手は邪気と殺気の塊だ。
だが、これで仕留められるなどとは毛ほども思ってはいない。彼女が想定する敵は、そんな見え見えの不意打ちに掛かるようなかわいげのあるものではないのだ。
案の定、敵はくるりと踵を返すと腕の一振りで飛んで来た小刀を払い落としてしまった。
「ほう」
こちらに振り返ったその人物は何やら意外そうに片眉を上げると、品定めをするようにじろじろと楓の身体を眺め出した。
「不躾な男だね。女性の身体をそんなふうに見るものじゃないよ」
「ふむ、そういうものか」
「そうだよ。尤も人間ではない貴様には理解出来ない概念かもしれないけどね」
沸々と沸いてくるものを胆力で押さえつけながら、楓は皮肉げな笑みを浮かべてその男を見返す。
「分かるか。いや、そうだな。時に人間の退魔師よ。貴様、何故ここにいる。ここは不可侵領域とやらではなかったのか」
「答える義理はないと思うけど、強いて言うならそこの彼女を貴様の魔の手から護るためかな」
そう言って湯の辺に倒れているいずみを見る。先程の殺気に当てられて気絶したのか、裸身に薄い羽衣一枚纏っただけの姿で横たわる彼女に動く気配はない。
「言っておくが、先に手を出してきたのはその娘のほうだぞ。寧ろ非はそちらにあるのではないのか?」
「それだって、貴様が彼女の裸を見たからじゃないのか!?」
「バカを言うな。こんな貧相な娘の裸など誰が好き好んで見たりするものか!」
「っ、貴様ぁ!?」
いずみに対して酷い暴言を吐いた男に、限界近くで押さえ込んでいた楓の怒りが爆発した。本人が聞いていたかなど問題ではない。女性のコンプレックスをずけずけと口にした男の無神経さに、楓は同じ女性として我慢ならなかったのだ。
懐から素早く小刀を取り出し、三本纏めて投げる。更に続け様に二本、合計五本の小刀が男の急所を目掛けて飛ぶ。
「しゃらくさいわ!」
男はまたしても腕の一振りでそれらを叩き落すが、楓はその瞬間に素早く印を結ぶと、完成した術式を発動させた。
「何っ!?」
刹那、彼女の足元に溜まっていた湯が爆発した。気の扱いに精通した退魔師は体内を巡る経絡の流れに沿って霊気を流すことで、身体の機能を飛躍的に高めることが出来る。楓はそれを脚部に限定して行うことで、一時的に人間の限界を超えた瞬発力を得たのだ。
驚愕に目を見開く男の脇を抜けて一足飛びにいずみの元へと掛ける。男は目を凝らしてその姿を捕捉しようとするが、楓のほうが僅かに速い。
着地と同時に屈んで気絶したままのいずみを抱き抱える楓。その無防備な背中へと男が長く伸ばした爪を振り下ろそうとするが、それより早く水面に立ち上がった小刀の一つから伸びた半透明の鎖が男の腕を捕らえて拘束した。
鎖を振り解こうとする男を尻目に、楓は踵を返すと二度地面を蹴った。霊気で強化された彼女の脚力を以ってすれば、それだけで十分に相手との距離を取ることが出来る。
そうして、入り口近くにまで後退したところで、ようやく追いついてきたほたるにいずみを預けると、楓は改めてその男を見据えた。
男は既に拘束から脱しており、あたりに水の粒子で編まれた鎖の残滓を漂わせている。今回はそれで事足りたとはいえ、一瞬の足止めにしかならないという事実に、彼女は思わずぎりっ、と奥歯を噛み締めた。
「ほたるちゃん、いずみさんをお願い。マリアシルフィードさんは二人を護りながらさっきの祭壇のところまで後退してください。わたしがあれの相手をします」
「そんな、無茶です!」
懐から新たな小刀を取り出しながらそう言う楓に、マリアが悲鳴のような抗議の声を上げる。
「承知しているよ。でも、ここは言うことを聞いて。あれは、わたしの、……僕の敵なんだ」
人の身で敵う相手ではないと言うマリアに、楓はそれでも退かない。彼女にとって、目の前の男は元凶であり、倒さなければならない敵なのだ。
「では、せめてわたくしも」
「ほたるちゃんたちを誰が護るの?それに、悪いけど、わたしは自分が戦う姿を他人に見られたくはないんだ」
そう言うと、楓は三人を護るように一歩前へと出た。それを見て男がニヤリと唇の端を吊り上げる。
「人間の退魔師よ。よもや貴様一人で俺と戦うつもりではあるまいな」
「聞いてなかったのか。それとも耳が遠いのかな」
「青いな。だが、それも若さ故の特権か。よかろう、貴様のその自信、俺がこの手で打ち砕いてくれる!」
「能書きはよいからさっさときな。でないと、後悔するぞ」
「ふん、その言葉、そっくりそのまま貴様に返すぞ!」
軽い言葉の押収に続いて楓が小刀を放ち、男の手から邪気の塊が飛ぶ。両者は二人のちょうど中間で激突して弾け、それが合図となった。
「走って!」
我に返ると同時にマリアがそう叫び、だが、ほたるは呆然としたようにその場から動こうとしない。
「どうされたのですか!?早くここから離れないと戦いに巻き込まれてしまいますよ」
「ダメ」
「ほたる様!」
「楓さんを一人残してなんていけないよ。だって、楓さん言ってたもの。自分の戦う姿を見られたくないって。それってつまり、あたしたちには見せられないような何かをするってことじゃないの?」
「そ、それは……」
ほたるのその言葉に、マリアは思わず言葉に詰まった。
「あたし、何となく分かるんだ。人が離れてく感じっていうか、そういう直感みたいなもの。上手く言えないけど、今の楓さんから目を離しちゃいけない気がするの」
そう言って目を凝らすほたるの顔に、怯えや恐怖といった感情の色は見られない。ただ、大切な何かを見失わないように必死に追いかける姿は、まるで憧れの人に恋焦がれる少女のようでもあった。
空間に響く金属の砕ける音。その破片さえも大気の流動を操ることで散弾とする楓の攻撃を、男の腕から放たれた突風が吹き散らす。
攻防は一進一退。だが、ほたるたちがいることで、隠し玉を出せない楓は、無尽蔵とも思える男の邪気を用いた攻撃に徐々に押され始めていた。
「やるではないか、人間の退魔師よ!さすが、大きな口を叩くだけのことはあるということか」
「桐生楓だ。貴様こそ、相変わらずそのろくでもない邪気の量はどうにかならないのか」
「何?」
楓の言葉に、男の動きが一瞬止まる。その隙を衝いて、男の足元に術式を込めた小刀を三本打ち込みながら、楓は言葉を続ける。
「忘れたとは言わせないよ。半年前、貴様がこの身に打ち込んでくれた霊呪。その目には映っているんだろう」
言葉とともに以前対峙したときと同じ術式を男の足元で発動させ、その身体を宙に舞わせる。下から打ち上げられるような衝撃を受けた男は中空で体勢を立て直すと、追撃に放たれた楓の小刀を白刃取りの要領で受け止めて着地した。
「まさか、いや、今の霊術。それにこんな戦い方をする退魔師などそういるものでもないか」
男はそう言うと、しげしげと楓の姿を眺めた。
「しかし、随分と様変わりしたものだな。いや、美しくなったというべきかな」
「それはどうも。貴様に言われても嬉しくも何ともないけどね!」
「はっはっは、何を怒っているかは知らぬが、そんな美しい顔では迫力に欠けるというものよ」
「やかましい!」
愉快そうに笑う男へと楓は憤怒の表情でそう叫ぶと、持っていた小刀をすべて投げつけた。そこかしこで爆音とともに水柱が上がり、男の姿を水の向こうへと隠す。だが、男は余裕を見せ付けるかのように、悠然と構えるだけで反撃してこない。
それに業を煮やした楓は、懐に手を入れるとついに切り札を切った。
鋼糸を放って散らばっていた小刀を回収する。その数は五本。そう、陰陽五行を司る五紡星を描くのに必要な数と同じである。楓は回収した小刀の柄に鋼糸がしっかりと巻き付いているのを確認すると、それを再び男に向けて放った。
別々の方向へと飛んだ小刀が水面に突き刺さり、男を中心に五紡星の光が浮かび上がる。
「なっ!?あれは、略奪結界」
虚無を連想させる白の五紡星に、マリアが驚愕の声を上げる。
「俺の存在を根こそぎ奪い取るつもりか。だが、貴様も忘れたわけではあるまい。かつての貴様もその技で俺に敗れたということをな」
強烈な脱力感に襲われながらも男は涼しい顔でそう呟くと、次の瞬間、くわっ、と目を見開いた。途端に楓へと流れ込む邪気の量が倍増し、それに気づいた楓が慌てて術式を解除しようとする。だが、すべては遅すぎた。
膨大な邪気の直撃を受けた楓は、数メートル後方の岩壁に背中から叩きつけられるとそのまま動かなくなった。
「楓さんっ!?」
楓が倒されたのを見てほたるは堪らず悲鳴を上げると、とっさに抱えていたいずみを放り出して駆け出した。
「ちょ、ほたる様!?って、わわわっ」
慌ててほたるを止めようとしたマリアだったが、倒れてきたいずみの下敷きになってそれどころでは無くなってしまった。その隙に楓の下まで辿り着いたほたるは、すぐさま彼女の腕を取って脈を確かめる。
「よかった、ちゃんと生きてる……」
戦闘行為と今の衝撃を受けたショックで激しく乱れてはいるものの、生命に別状がないと分かるとほたるは一度大きく息を吐いた。夏場の水難救助のために母から叩き込まれた知識がほたるを冷静にさせていた。
「ほう、大したものだな」
そんな少女の様子に、感心したように言葉を漏らす男へと、ほたるは振り返ってきつい視線を向けた。睨みつけていると言っても良いだろう。
「ちょっとあなた、何てことをしてくれたんです。あたしの楓さんに傷でも付いたらどうするんですか!?」
「いや、俺たちは殺し合いをしていたのだぞ。それ以前にそれはおまえのものなのか?」
眉を吊り上げて怒るほたるに、男は律儀に突っ込みを入れる。だが、怒り心頭のほたるには逆効果だった。
「それに、いずみさんだって、あなたが現れなければあんなことにはならなかったんです。あなたなんて、あなたなんて……」
怒りが、憎しみが心を塗り潰し、少女を黒く染めていく。そして、黒い少女はその衝動のままに、相手を滅するための呪詛を吐こうとする。だが、それは意識を取り戻した楓によって止められた。
「はい、ストップ!」
「楓さん、気が付いたんですか!?」
「おかげさまでね。でも、ほたるちゃん、君がその先を言ってはいけないよ。例えあれが本当に存在する価値も無い害悪だったとしても、そんな感情のままに滅びを願ってはダメだ。そんなことをしたら、君まで黒く染まってしまう。わたしはそんなほたるちゃんを見たくはないよ」
諭すように優しい声でそう語り掛ける楓に、ほたるの中で渦巻いていたものがゆっくりと小さくなって消えていく。それを感じた楓は満足そうに笑って一つ頷くと、そっと彼女の頭を撫でた。
「そう、それで良い。負の感情に支配され、衝動のままに何かを壊してしまうなんて、ほたるちゃんには似合わないからね」
「えへへ」
頭を撫でられたほたるは少し顔を赤くしながらも嬉しそうに頬を緩めている。だが、そんなほのぼのとした空気も長くは続かなかった。
「おまえら、俺をおちょくっているのか。ああ、そうなんだな」
凄まじい怒気とともに放たれた男の言葉に、ほたるが怯え、楓の表情にも緊張が戻る。
「悪かったね。完全に忘れてたよ」
「楓さん……」
「大丈夫、ほたるちゃんはわたしの傍から離れないで」
「き、貴様ら……。許さんぞ!」
一層増した怒気をそのまま叩きつけるかのように、男の手から邪気の衝撃波が放たれる。だが、楓は鋼糸を走らせて描いた五紡星の盾によって、正面からそれを防いで見せた。
「小癪な!」
攻撃を防がれたことに対する苛立ちを隠すことなくそう吐き捨てると、男はそのまま邪気の出力を上げていく。それに楓も負けじと踏ん張るが、常識的に考えれば妖魔を相手に純粋な力比べで、人間である彼女が勝てるはずがなかった。同じ人の姿をしていても内包する力の量はそれこそ桁違い。加えて向こうは周囲への被害を気にする必要がないため、その力を存分に振るうことが出来る。だが、楓にはほたるがいた。後ろに護るべきものがいるとき、正しく信念を持つ退魔師はその力を最も強く発揮することが出来るのだ。
「大丈夫、わたしは負けない。ほたるちゃんを護るためなら、わたしは闇の眷族にだって打ち勝ってみせる!」
「戯言を!」
大気が鳴動し、両者の間で空間が歪むほどの力と力の激突が生まれる。
「万物を司る五行の星よ、雷と成りて我に魔を退ける閃光を与えよ。……神明衝雷!」
星が輝き、閃光と成る。楓の手より放たれたそれは、歴史に残るほどの膨大な邪気と真っ向から激突し、そして……。
* * * エピローグ * * *
まだ朝靄の立ち込める時間、戦闘の余波で半ば露天風呂と化した地下の温泉に、楓の姿があった。
岩盤を吹き飛ばすほどの爆発の中心にいたにも関わらず、惜しげもなく曝された彼女の肢体に目立った外傷は見られない。背中の岩壁にぶつけた箇所が痣になってはいたが、それも温泉に溶け込んだ高濃度の霊気の癒しによって、ほぼ消えかけていた。
今回の事件というか、事故も無事解決し、その過程でいずみを苦しめていた彼女の状態にも解消の目処が立った。怨敵であるあの男を仕留め損ねたのは残念ではあったが、こちらに怪我人が出なかったのは僥倖だったと言える。
楓が温泉で疲れを癒している頃、いずみはマリアに付き添われて祭壇の前に立っていた。
いずみを苦しめていたもの。それは、彼女自身の霊気だった。先天的に膨大な霊気を内包しているいずみは、定期的にそれを排出しなければ身体に不調を来たしてしまうのだ。
一方、霊脈の混乱に乗じて施設内に邪気の侵入を許してしまったマリアは、本格的に祭壇の正当な管理者の必要性を痛感してしまっていた。
そんな二人に楓が提案したのが、その管理者の座にいずみを据えてはどうかということだった。
聖性の強いいずみの霊気を霊脈に流せば、それは断裂したラインの修復へと働く。一方の彼女も持て余していた霊気を使うことで、今後体調不良に陥ることも無くなって一石二鳥である。
問題があるとすれば、いずみが霊的なことに対して全くの素人であることと、彼女がこちら側に関わることで危険に曝されるかもしれないということだった。
これに関してはマリアが指導することになり、何かあったときには彼女とその妹が全力でいずみを護るということで、話は一応の落ち着きを見せたのだが。
「ふぅ……。結構きついわね、これ……」
初めてのお勤めを終えたいずみは、組んでいた指を解いて祭壇の前から退くと、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながらそう言った。
「お疲れ様です」
「ありがとう。それで、こんな感じで良かったのかしら」
労いの言葉を掛けるマリアにお礼を言いながら、いずみは早速初仕事の出来栄えを彼女に尋ねる。自分が霊的なことに関わるのは正直、複雑ではあるが、引き受けたからにはきちんとその役目を果たしたいと思うのが立川いずみという女性だった。
「初めて霊脈に触れられたのですよね?それにしては、上々かと」
「そう……」
「焦らず、これから少しずつ慣れていかれれば良いのですよ。さあ、お疲れでしょう。今日のところはこれくらいにして、汗を流しに参りましょう」
下された評価に軽く肩を落とすいずみに、マリアは優しくそう語り掛けると、彼女の手を引いて奥の温泉へと足を向けた。
「お疲れ様」
掛け湯をして湯に足を着けるいずみへと楓が労いの言葉を掛ける。
「ええ、本当に疲れました。楓さんはあんな難しいことをいつもされてるんですね……」
そう言って尊敬の眼差しで見てくるいずみに、楓は思わず苦笑する。
「わたしは簡単なものしか使えないけどね」
「雷帝召還までお使いになられたお方が何をおっしゃいます。といいますか、ぶっちゃけありえない威力でしたよ、あれは」
「あ、あははは……」
崩落した岩盤の向こうに見える空と海を眺めながら、そう言って溜息を吐くマリアに、楓は笑うしかない。実際、彼女自身の霊気は質こそ最上級のものではあるが、その内容量は一般的な退魔師と比較してもかなり少ないのだ。
そんな楓が、司祭代理を務めるマリアをして仰天させるほどの霊術を行使出来たのは、偏にこの空間の性質によるものだった。
霊脈に極端に近く、そこから漏れ出る霊気は質量共に最上級。そして、楓の外気を取り込む特異体質は、周囲を汚染する邪気さえも清浄な気に反転させて相手に返していた。
「つまり、わたしはただの浄化槽で、取り込んだ気に志向性を持たせて放出してただけなんだけど」
「それはそれで、あなた様の人としての常識を疑ってしまいますが、まあ、この際構いません。それよりも」
そう言ってマリアは崩落した岩盤を指差した。その表情は厳しく、楓も反射的に居住まいを正す。
「元に戻せとはさすがに言いません。ですが、せめて隠蔽工作くらいは手伝ってください。この場所は協会にも秘密なのですから」
「分かった。今日の昼にはここを発つから、向こうに着いたら一番に根回しをしておくよ」
「お願いします」
本当に真剣に頼み込んでくるマリアに、楓も真面目な顔になって頷くと、出来る限りの手を尽くすと約束した。
この祭壇の存在が明るみに出れば、オカルト業界の歴史に少なくない影響を及ぼすのは間違いないだろう。それに、今の退魔協会の内情を考えると、ここの技術が特定の誰かの手に渡るのは、楓にとってあまり面白いことではない。
世の中には知らなくても良いこと、知らないほうが良いことというのは多々あるものだ。と、不意にそれまで黙って二人の話を聞いていたいずみが楓に声を掛けた。
「楓さん、帰られるのですか?」
「え、ああ、そうですね。一応、ここでの目的は果たしましたし、仕事しないといけませんから」
寂しそうに聞いてくるいずみに、楓は冗談めかして貧乏なんですよと言いながら、申し訳なさそうに彼女へと頭を下げた。
「……500万」
「はい?」
「今回のわたしの除霊に対して父が支払った金額です。受け取っているのでしょ。というより強引に前払いで渡されましたね」
「なっ!?」
「あの人たちはわたしのことになると湯水のようにお金を使いますから。財布の紐はわたしが握っているのです」
呆気に摂られる楓に、いずみはしれっとした表情でそんなことをのたまった。
「わたしはまあ、良いです。でも、ほたるのことはどうするのですか?気づいているのでしょ、あの子の気持ちに」
「…………」
「こんなふうに言ったらほたるは怒るでしょうけれど、あの子はわたしを護るために今までずっと自分を犠牲にしてきたんです。それが今回のことでようやく解放されて……。だから、これ以上、あの子に悲しい思いをさせたくはないのです」
いずみは言う。冷静な彼女を知るものが見れば驚くほど饒舌に、まるで抑圧されていたものが爆発したかのように激しく、感情を吐露する。
「いずみさん」
「受け止めてあげてくれませんか。あの子の想いを……」
「わたしは退魔の、裏の人だよ。そんなわたしに彼女を託すなんて、どうかしているよ」
「ほたるは、わたしもそんなことを気にしたりはしませんわ」
「勝手なことばかり言わないでくれないか。そっちが良くても、わたしがダメなんだ」
やや語気を荒げてそう言うと、楓は逃げるように温泉を出ていった。
*
駅前。
燦々と降り注ぐ陽光を受けながら、一人の女性がバスを待っている。旅人である彼女は今回の旅の目的を果たし、これから家族の待つ町へと帰るところだ。
来たときよりもほんの少しだけ重くなったリュックを肩に掛け、遠くに見える山々へと視線を向ける。だが、その目はもっと遠い何処かを見ているようでもあった。
不意に女性の背後に誰かが立った。
彼女の人より鋭敏な感覚が、振り返らずともそれが小柄な少女であることを教えてくれる。
いや、例えそんなものがなかったとしても、今の女性にはそれが誰だか分かってしまったことだろう。
突然に吹き抜けた風に、運ばれた香りが彼女の鼻腔を擽る。ほら、その匂いだけで女性にはそこにいる少女が誰なのか分かってしまった。
女性は振り向かない。
そこにいるのが誰だか分かってしまったから。振り返ってしまったら、人外の血に塗れたこの手で彼女を抱きしめてしまいそうで、怖かったのだ。
「どうして何も言わずに行っちゃうんですか?」
だが、少女は女性に声を掛けた。
「酷いじゃないですか。あたし、まだちゃんと答えてもらってないですよ」
声を震わせて、今にも泣きそうな様子でそう言う少女に、女性は前を向いたまま口を開く。
「……いずみさんから聞かなかったかな。伝言、頼んでおいたんだけど」
「ええ、だから来たんです。知ってます?あたし、こう見えて結構諦めが悪いんですよ」
女性の明らかな拒絶の言葉にも、少女は笑ってそんなことを言う。ただ、その声は震えたまま、表情も泣き笑いのようになってしまっていたが。
「わたしは、君の想いには答えられない」
「…………あたしのこと、嫌いですか?」
「っ!」
思わず振り返りそうになるのをぐっと堪え、女性は出掛かった言葉を飲み込んだ。
二人の前にバスが停まり、ドアが開く。
「……じゃあ、元気で」
短い別れの言葉を残してバスへと乗り込む女性の背中に、少女が手を伸ばす。
だが、伸ばした手は僅かに届かず、無情にも閉じられたドアが二人の間を隔てた。
少女は伸ばした手を力無く下ろすと、走り出したバスをその姿が見えなくなるまで見送った。
それは悲しい別れの一コマ。だが、少女の目には既に新たな決意の光が宿っていた。
「……楓さん。あたし、必ず会いに行きますから」
決意も固くバスの走り去った方角を見据えてそう言うと、ほたるは踵を返して歩き出した。
まずは宿帳の確認。それから、旅支度も始めないと……。
夏の空は青く、海は碧い。
そして、少女は吹き渡る風の如く、何処までも自由だった。
* * * 幻想退魔録 END * * *
あとがき
どうも、安藤龍一です。
この物語は特異体質の退魔師である桐生楓が元の身体に戻る方法を探す傍ら、関わることになった一つの事件を通して出会った人々と心を通わせていくというものです。
ファンタジー物が多い自分の作品の中では珍しく(友人談)、主人公が剣を振るわないお話でもあります。
そして、百合です。
いえ、楓は元は男性なので、微妙に違うかもしれませんが。
さて、中編と呼ぶにはいささか長い気もしますが、わたしとしては音夢草子に続く中編となる今回の作品、いかがでしたでしょうか。
お気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが、恋愛要素を含むわたしの作品の中では今のところ唯一、主人公とヒロインがカップルにならなかった作品です。
他にもいろいろと試した実験作だったので、反響が怖かったり(汗)。
楓は結局、元には戻れませんでしたし(爆)。
今後、楓とほたるの二人がどのような道を進んだのかはとりあえず、読者の想像にお任せします。
ともあれ、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。小説自体はまだまだ書き続けていきますので、よろしければまた読んでやってください。
では、また次回作でお会いしましょう。
* * * * *
祝、完結。
美姫 「こういうラストも良いわね」
色々と想像を掻き立てられる。
美姫 「とりあえずは、無事に事件も解決したし?」
だな。まあ、逃がしたり、元に戻れなかったりはしたけれどな。
美姫 「兎にも角にも、まずは完結おめでとうございます」
うんうん。そして、投稿ありがとうございました。
美姫 「それでは、今回はこの辺で」
ではでは。