トライアングルハート〜天使の羽根の物語〜

  第2章 summer night memories

  11 揺れる心

   *

 ――HGSが治る。ティナは確かにそう言った。

 変異性遺伝子障害病とは、その名が示すように遺伝子の先天的な障害によって起こる疾患だ。

 その症状は発熱・頭痛といった一般的なものから念動力の発現に至るまで実に多彩である。

 これらに対する完全な治療法は残念ながらこの世界ではまだ確立されていない。

 そもそも、HGS自体が数年前に初めて報告された症例なのだ。

 患者は多くの薬剤を服用し、専用の機械による調整を受けなければならないのが現状である。

 だが、見落としてはいないだろうか。

 先にも述べたように、HGSは遺伝子疾患である。

 特異な症状にばかり目が行きがちだが、その本質は他の遺伝子疾患とさほど変わらない。

 そこにこそこの疾患の完治への糸口があるのではないだろうか。

 遺伝子疾患とは遺伝情報を構成する4種類の塩基の配列の乱れによって生じるとされている。

 だが、HGS患者の遺伝子には、通常ではあり得ない第5の塩基が存在している。

 これが各種機関の発達に影響を及ぼし、結果として一部が非常に高い機能を示すのだ。

 問題なのは、それらの情報の全てが必ずしも優性ではないということだった。

 仮にすべてのDNAが第5塩基の影響を正しく受けていれば、その個体は問題なく成長する。

 無論、健康体としてだ。ティナのように天使と呼ばれる存在はこれに該当する。

 だが、そうではない場合。つまり、部分的な影響しか受けていない場合の個体はどうなるか。

 その答えがHGSである。

 身体の一部だけが高い機能を得た場合、他とのバランスが取れずに変調を来たすことがある。

 では、これを改善するにはどうすれば良いか。即ち治療法である。

 受精卵から生後数ヶ月の期間であれば、通常の遺伝子治療による調整が可能だ。

 しかし、知佳のように既に身体が完成しつつある患者ではそういうわけにもいかない。

 ここで注目すべきは、第5塩基が本来のDNAには含まれないということである。

 生命体にはその内部環境を一定に保つ恒常性保持機能と呼ばれるものが存在する。

 これを一時的に強化することで、第5塩基を異物として排除させるのだ。

 その後、同機能を用いて抜けた穴を埋め合わせれば普通に健康な一般人の出来上がりである。

「それで、どうする?調整するんなら、わたしのほうはすぐにでも準備を始めるけど」

 そう言われて言葉に詰まる知佳。その顔には迷いがあった。

 彼女の提案に従えば自分はこの先誰かを助けられるかもしれない力を永遠に失うことになる。

 それはリスティの一件以来、この力で人の役に立ちたいと頑張ってきたことへの否定だった。

「少し、考えさせてもらっても良いかな」

「おいっ!」

 そう言って部屋を出て行こうとする知佳を真雪が呼び止めようとする。

 この妹が何を考えているか分かるだけに、真雪は声を荒げずにはいられないのだ。

 だが、その手をティナが押さえた。

「こらっ、ティナ。放せ!」

「今は一人にさせておいてあげましょ。きっと、知佳にも思うところがあるだろうから」

「ンなこと知るか。大体、あいつはまだガキなんだ。放っておいたらろくなこと考えやしねぇ」

 じたばたともがく真雪をスルーして、ティナは知佳へと小さく手を振った。

 それに軽く頭を下げて感謝の意を示すと、知佳はリビングを出て自分の部屋へと向かう。

 部屋に入った知佳は、扉に鍵を掛けてカーテンを閉めるとベッドの上にその身を投げ出した。

 仰向けになって大きく四肢を伸ばす。

 投げ出された足の間から下着が覗いているが、誰も見ていないので気にしない。

 学校の授業の時以上に集中して話を聞いていたせいか、知佳はすっかり疲れてしまっていた。

 先にキッチンに寄って取ってきた氷砂糖を一つ摘まんで、口の中へと放り込む。

 疲れたときは甘いものに限る。

 これなら手を汚さずに済むし、寝転がったままでも食べられるので尚良い。

 一人で考えると言った割にはいきなり横着モード全開の知佳だった。

 冷静に物事を考えるのには心を落ち着ける必要があるのだろう。

 HGSが治ると聞かされて、一番衝撃を受けたのが当の彼女であることは想像に難くない。

 真っ暗な部屋の中で一人天井を見つめていると、いろいろなことが思い出される。

 この力のせいで自分は家族にも厭われ、独り寂しい幼年期を過ごした。

 怖がられ、心無い言葉に傷つけられたことも一度や二度ではなかった。

 でも、この力のおかげで2年前の夏には海で溺れていた子供を助けることが出来た。

 出生の真実を知って、自分はいらない子だと泣き叫んでいたリスティを止めることが出来た。

 自分を苦しめるだけの存在だったこの力で、誰かの役に立てるかもしれないのだ。

 それは知佳の中でとても大きな意味を持つことだった。

 手にしたのは僅かな自信。

 そのおかげで、おぼろげながら自分の目指すべき場所が見えてきたような気がしていた。

 だが、心は揺れる。

 ずっと憧れていた普通の女の子としての幸せが、手を伸ばせば届くところに今はあるのだ。

 ――ダメ、全然考えがまとまらないよ。

 頭を抱えて立ち上がると、知佳は気分転換をするために部屋を出た。

 テレポートで屋根の上へと移動して腰を下ろす。

 階下の喧騒を聞きながら、知佳は遠い何処かへと視線を向ける。

 この空の下の何処かにもHGSの人がいて、確実にその特異な症状に苦しめられている。

 そう思うと、治るかもしれない機会に恵まれた自分は幸運なのだろう。

 望んで得られるものではない。

 だからこそ、この機会を逃してはならないと頭では分かっているのだが……。

「知佳。そこにいるの?」

 悩んでいると下から自分を呼ぶ声が聞こえた。

「あ、うん。いるよ〜!」

 答えながら知佳が声のしたほうを見ると、咲耶が苦労しながらこちらに登ってきていた。

「待ってて。今、そっちに行くから」

「あ、危ないよ!」

 慌てて止めようとするが、そのときには既に咲耶は屋根の縁に手を掛けていた。

「よいしょ、っと。隣、良いかな?」

「ここまで来て、座ってから聞かれても困るんだけど」

「ダメ?」

「ううん。って言うか、ダメって言っても降りないでしょ」

「うん」

 冗談めかしてそう言った知佳に、咲耶は満面の笑顔で頷いた。即答である。

「咲耶って、ときどきちょっと強引だよね」

「心配なんだよ。知佳、すぐに無茶しようとするから」

 そう言って、咲耶は横から知佳に抱きついた。

「きゃっ!?な、何」

「だって、こうして捕まえてないと何処かにいっちゃいそうなんだもん」

 言いながら抱きしめる腕に力を込める咲耶。

「わ、わたし、何処にもいったりしないから」

「信じられないよ。大体、今回のことだって知佳は治療を受ければ良いのに」

「うん。そうだね……」

 痛いところを突かれ、途端にじたばたしていた知佳が大人しくなる。

「わたしは知佳が頑張ってるの知ってるし、その気持ちも分かるつもりだよ」

 大人しくなった知佳の頭を胸に抱きながら、優しい調子で咲耶は言う。

 自分の力で誰かの役に立ちたい。それはとても純粋で真っ直ぐな想いだ。

 例えその力が異能のものであったとしても、その尊さは等しく変わらないと咲耶は思う。

「でもね。それってとても難しいことだよ」

 咲耶の口調が変わる。

「助けられなくて、辛い思いをすることだってきっと少なくないはずだよ。最初のうちはそれでも頑張れるかもしれないけど、長く続けていれば必ず限界を感じるときが来る。そうなったとき、知佳はまだ優しいままでいられる?助けようとすること自体が辛くなって、そうしたいって気持ちまで失くしちゃったらそれはとても悲しいことだよ」

 言い聞かせるように、あくまで優しい調子で咲耶は言う。

 だが、彼女に抱きしめられている知佳には、そこに隠された感情が伝わってしまう。

 ――咲耶、泣いてるの……。

 彼女の胸元から顔を上げた知佳は、その横顔に光るものが伝うのを見て呆然とした。

 苦しみによって優しさを失うことは悲しいことだと知佳も思う。

 だが、咲耶の言ったそれには、ただの言葉以上の実感とでもいうべき重みが感じられた。

 自分と1つしか違わない年のはずのこの少女に一体何があったというのだろうか。

「やだな。わたし、何で泣いちゃってるんだろうね」

 見られていたことに気づいた咲耶は、恥ずかしそうにそう言うと指で涙を拭おうとする。

 知佳はそれを軽く手で制すると、首を伸ばして彼女の頬に唇を寄せた。

 驚く咲耶の頬に柔らかい感触が触れる。

「えっと、咲耶はわたしのために泣いてくれたんだよね。なら、この涙はわたしのものだよ」

 唇を離すと知佳は、赤くなった顔にはにかむような笑みを浮かべてそう言った。

 それにつられるように、呆気に取られていた咲耶の顔にも笑みが浮かぶ。

「ダメだよ、知佳。わたしには恭也君がいるんだから」

「わたしにだって、耕介お兄ちゃんがいるもん。だから、おあいこだよ」

 そう言って笑い合う二人。

「じゃあ、その耕介さんのためにも知佳はやっぱり治療を受けないとね」

「あ」

 何気ない調子で言われたその言葉に、知佳は思わずハッとした。

 そうなのだ。

 恋人がいる今の知佳にとって、その将来は最早自分一人のものではない。

 耕介のことだからそれで縛ったりはしないだろうが、それでも一緒に歩いていく未来だ。

 ――それなのに、わたしは自分のことばかり考えて決めようとしていたんだ。

「わたし、恋人失格かも……」

「そうかもね」

「うう……、どうしよう」

 溜息を吐いて肩を落とす知佳に、咲耶はフォローするどころか逆に煽るような言葉を投げる。

「一人で考えるって言ったのは知佳だよ。それに、今相談しても耕介さんは答えをくれない」

「うん。それは分かるよ。耕介お兄ちゃん、そういうとこには厳しい人だから」

「でも、このままじゃ埒が明かないのも確かなんだよね」

 頷く知佳に、咲耶はそう言って小さく溜息を漏らす。

「ねえ、知佳。誰かの力になりたいっていうその考え自体は悪くないと思うよ」

「うん」

「でも、それって自分の幸せを犠牲にしてまですることじゃないよ。知佳は女の子なんだから」

「そんなの理由にならないよ。わたし、もうずっと護られてばかりなんて嫌なの」

「そうやって自分を犠牲にして頑張って、また周りの人たちに迷惑を掛けるの?」

 少し突き放すような咲耶のその言葉に、知佳は小さく呻いて押し黙る。

「誰かを護ったり、幸せにしたりしたいって思うなら、まずは自分が幸せにならなきゃダメ」

「でも、わたしは……」

「デモもストライキも認めません。良いから知佳は耕介さんと幸せになることだけ考えて」

 半ば強引にそう言うと、咲耶は知佳を解放して立ち上がった。

「良い、自分を犠牲にしてなんて二度と考えちゃダメ。そんなことしても誰も救われないよ」

「そんなこと……」

「分かってないよ。だって、本当に分かってるなら、そんなことは言わないはずだよ」

 睨むように見下ろしてくる咲耶に、知佳も立ち上がって睨み返す。

「分かった。そんなに言うんなら、体験させてあげる。ただし、後悔しても知らないからね」

「えっ、それって、どういう……」

「言葉通りだよ。知佳は今夜自分の選ぼうとしている選択の結果を見ることになる」

 困惑した様子で聞く知佳に、そう言うと咲耶は屋根の上からベランダへと飛び降りた。

 突然のことに、思わず悲鳴を上げそうになる知佳。

 だが、彼女の見ている目の前で、咲耶は危なげなく両足での着地を決めて見せた。

「じゃあね」

 呆然とする知佳に軽く手を振って、咲耶は中へと入っていった。

   *




  あとがき

龍一「まず、医療関係者の人ごめんなさい」

知佳「いきなりどうしたの?」

龍一「いや、冒頭のあれについての謝罪を」

知佳「ああ、良い子は信じないようにって字幕が出そうなあれね」

龍一「一応それらしいことを書いていますが、実際の医療において可能かどうかは知りません」

知佳「恒常性保持機能っていうのは本当にあるものだけどね」

龍一「ああ。低下すると身体に変調を来たすので要注意だな」

知佳「更年期障害とかに見られるんだよね」

龍一「と、その話はこれくらいにして。結局、どうするんだ?」

知佳「さぁ、どうするんだろ」

龍一「自分のことじゃないか」

知佳「決めるのは作者さんでしょ」

龍一「と、とりあえず次回だな」

知佳「だね」

龍一「というわけで、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました」

知佳「次回も頑張って書かせますので、良かったら楽しみにしててくださいね」

二人「ではでは」

   *

 

 





悩む知佳。
美姫 「やっぱり、そう簡単には答えを出せないみたいね」
ああ。だが、咲耶は何をするつもりなんだろうか。
美姫 「ああ〜〜ん、余計に気になるわ〜」
決断を迫られるだけでなく、まだ何か起こりそうな。
美姫 「次回が待ち遠しいわね」
うんうん。次回も楽しみにしてます!
美姫 「待ってますね〜」
ではでは。



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