トライアングルハート〜天使の羽根の物語〜
第2章 summer night memories
12 天使が見せた悪夢
*
――夢を見ている。
幸せな夢。
今より幾らか成長したわたしが小さな赤ん坊をあやしている。
その様子を優しい表情を浮かべて見ているエプロン姿の大柄な男性。
周りには今と変わらないバスケ好きの親友に、すっかりきれいになった猫又の女の子。
二人のお姉ちゃんと、よく似た双子の羽根持ち姉妹。
皆一様に笑顔で、わたしたちを心から祝福してくれているのが分かる。
降り注ぐ日の光は暖かく、そこには優しさが満ちていた。
わたしにも本当にこんな未来が来るのかな……。
――それは、あなた次第だよ。
不意に声が聞こえた。
誰……?
視線を感じて振り向くと、そこには今と同じ姿のわたしが立っていた。
いつか見た夢のように目が合った瞬間、わたしの視界から光が消える。
気がつくと、そこは何処かの火災現場だった。
立ち昇る黒い煙。轟々と燃え盛る炎が圧倒的な存在感を伴って迫ってくる。
視界が悪くてほとんど何も見えないけど、きっとこの奥にまだ逃げ遅れた人がいるんだろう。
先に避難した人たちから聞こえる悲鳴に混じって、誰かがそんなようなことを言っている。
――助けたい。
そう強く思った。だって、わたしの力なら、この炎の向こうまで行けるから。
例え知らない誰かでも目の前に助けられる命があるなら、それを助けるのは当然だよ。
すると、わたしの気持ちに答えるかのように、もう一人のわたしがリアーフィンを展開した。
人々の間にざわめきが走る。
もう一人のわたしは気にしたふうもなく一度大きく羽ばたくと火の中に飛び込んでいった。
灼熱の業火を突き破り、落ちてきた瓦礫を撥ね退けて、奥へと進むもう一人のわたし。
その度にバリアに光が走り、背中の羽根から光の粒が飛び散る。
けれど、その力強い羽ばたきとは裏腹に、もう一人のわたしは確実に消耗していったの。
そして、満身創痍になりながらも辿り着いたとき、そこに確かに人はいた。
まだ若い女の人とその娘らしい小さな女の子だった。
お母さんのほうは意識がないみたいだけど、女の子の泣き声はちゃんとここまで聞こえてる。
――良かった。助けられる。そう思ったときだった。
急に天井が崩れてきて、その二人の姿を煙の向こうに隠してしまったの。
慌てて手を伸ばすもう一人のわたし。だけど、そこには残酷な結果だけが待っていた。
消えかけたリアーフィンに象徴されたような力じゃ、降り注ぐ瓦礫を止めるなんて出来ない。
――せめてバリアの下に入れば……。
そう思って親子の側まで行こうとしたけど、足が縺れて上手く走れなかった。
――伸ばした手は、届かなかった。
これが、助けられないってこと。
限界まで力を使ったもう一人のわたしは、がっくりとその場に膝を着いて動かない。
その背中からパラパラと崩れるようにリアーフィンが消えていった。
こうなると、もう一人のわたしは最早ここから逃げ出すことも出来ないだろう。
ただ助けたい一新で行動して、その結果がこんなだなんて……。
視界が滲む。わたし、泣いてるんだ。
助けられなかっただけじゃない。
こうなったら、もう耕介お兄ちゃんや皆にも会えないんだって思うと涙が止まらなかった。
いつの間にか夢は終わって、気づけばわたしは自分の部屋のベッドの上だった。
全身に悪い夢を見たとき特有の嫌な汗をかいているのが分かる。
気持ち悪いし、風邪ひいちゃうって分かってるけど、でも、今は指一本動かすのも億劫だよ。
とりあえず、額に張り付いた前髪を退かして、そのままの格好でしばらくボーっとしてた。
わたしの脳裏を咲耶の言葉が過ぎる。
――自分を犠牲にしてなんて二度と考えちゃダメ。そんなことしたって、誰も救われないよ。
分かってるつもりだったけど、こうして実際に見せられると心が真っ白になっちゃった。
夢の中のわたしは無茶を承知で限界以上に力を使って、その結果生きて帰れなくなった。
わたしが目指そうとしている道は常にこういうことが起こる危険を孕んでいるんだ……。
自分が死ぬってこと。大切な人たちにもう会えなくなるってこと。
初めてそれを実感したとき、わたしはただただ泣くことしか出来なかった。
死ぬのが怖くて、皆に会えなくなるのが悲しくて、それでも何も出来ない現実がそこにある。
それを知ってもまだわたしはこの道を行くことが出来るの?
*
知佳が夢から覚めた頃、それと入れ替わるかのように咲耶は意識を失って倒れていた。
知佳が見ていた悪夢、それは咲耶が彼女の持つ力で作り出したものだったのだ。
だが、他人の夢を操るというのは容易なことではなかった。
例え、相手が眠っていても外部からの干渉に対する拒絶反応は起こるからだ。
これに対して幻影を安定させるため、咲耶は一晩中知佳の夢に力を送り続けたのだった。
――お疲れ様です。
声が聞こえる。
…………。
明らかに怒っているような調子のその声に、意識を失っているはずの咲耶の眉が動いた。
――ダメですよ。気絶してるふりなんかしてもわたしには分かるんですから。
咲耶の意識に真紅が広がる。
声の主の姿は見えないが、それがしっかりと自分を捕まえていることだけは分かった。
まったく、あなたって人は。これじゃ、彼女のことをとやかく言えませんよ。
多分に呆れの色を含んだその声に、咲耶は少しムッとした。
安全に死の恐怖を体感してもらうには、この方法が一番だったのよ。
それであなたが倒れていたんじゃ、世話ないです。
うっ……。
控え目に反論するも、すぐさまばっさりと切り返されてしまい、咲耶は小さく呻いた。
どうしたんです?普段のあなたなら、こんな強硬な方法を使ったりはしないはずなのに。
尋ねる声に不安の色が滲む。
わたしだって、出来ればこんな乱暴なやり方はしたくなかった。
もしかしたらトラウマになるかもしれないし、数日魘され続けるかもしれない。
それを承知の上で、咲耶はあえて今回の手段を選んだのだ。
本当は難しくても時間を掛けてゆっくりと説得するべきなのだろう。
きちんと根拠を示し、喧嘩になってでも彼女を納得させる。
そのために自分が嫌われようとも構わない。
だが、それだけの時間があるかどうか今の咲耶には分からなかった。
椎名のコンサートを襲ったギアシェイドの集団は明らかに統制された動きを見せていた。
あれから1ヶ月近くが過ぎているが、魔物たちに表立った動きは見られない。
だが、だからといって、安心は出来なかった。
先日彼が遭遇し、自分が倒したエネルギー生命体は強行偵察に優れた種類のものだったのだ。
――何かが起きようとしている。咲耶の能力者としての直感がそう継げていた。
仮に大規模な襲撃があったとして、誰かが危険に曝されれば、知佳は助けようとするだろう。
悪夢が現実になってから後悔しても遅いのだ。
だからこそ、咲耶は今回多少強引でも知佳に決断を迫ることにしたのだった。
咲耶の考えを聞いて納得したのか、声の主はそれ以上彼女を責めはしなかった。
でも、これでまたあなたときちんとした形で会える日が遠退いてしまいました。
少し残念そうにそう言う声に、咲耶は申し訳なさそうに手を合わせる。
ごめん。でも、今回のことはわたしも譲れなかったから。
わがままを許して欲しい。そう言う主に、声の主は仕方なさそうな気配を伝えてくる。
気持ちは分からなくもありませんから。でも、なるべく急いでくださいね。
うん。分かってるよ。わたしも早くまたあなたに会いたいから……。
理解を示してくれる友人にそう言って感謝の意を表すと、咲耶は今度こそ意識を手放した。
……本当に相変わらずお節介なんですから。でも、そこが良いんですけどね。
眠りに落ちていく自らの主を眺めつつ、真紅の少女は優しい笑みを湛えてそう言った。
しかし、彼女が催促するまでもなく、そう遠くないうちに再会の刻は訪れるだろう。
――願わくば、それが戦場以外の場所であらんことを……。
*
――1時間後。
咲耶はボイラーの駆動音で目を覚ました。
誰かが風呂を沸かしている。
そう思うと、お風呂好きの彼女は居ても立ってもいられなくなった。
着替えとバスタオル、お風呂セットを持って部屋を飛び出す。
この時間なら、いるのは薫かティナだろう。
恭也はよく二人に先を譲っているので今日も後の可能性が高い。
仮にいたとしても、前にも一度一緒に入っているので問題はないはずだ。
恋人同士なんだもん。少しくらい、そういうことがあっても良いよね。
何やら妄想して頬を赤らめながらにやけている咲耶。
そこに昨晩知佳を諭そうとしていたときの面影は微塵もない。
何だかんだと言っても基本的には彼女も17歳の少女なのである。
意気揚々と脱衣所の戸を開ける咲耶。だが、そこにいた人物を見て彼女は固まってしまった。
――咲耶が起きる少し前。
何とか気力を回復した知佳は、とりあえず汗を流すために風呂に入ることにした。
もう大分乾いてしまっているのだが、だからといってそのままというのも気持ちが悪い。
何よりこの落ち込んだ気分をリフレッシュするにはお風呂で流してしまうのが効果的だ。
脱衣所の戸を開けて中に入ると誰もいなかった。
この時間ならいつもは鍛錬組の誰かが使っているはずなのだが、珍しいこともあるものだ。
今の知佳は誰かに遭いたい気分ではなかったので、この偶然は有難い。
これ幸いとばかりに、適当な場所に着替え等を置いて服を脱ぎ出す知佳。
だが、彼女の幸運もそう長くは続かなかった。
パジャマのズボンを下ろし、下着を脱ごうとしたところで不意に背後で戸が開く音がした。
振り返った知佳の視線の先にあったのは、戸を開けた格好のままで固まっている咲耶の姿。
お互いに今一番遭いたくなかったであろう相手との遭遇に、しばし二人の間で時が止まる。
「……えっと、とりあえず閉めてもらえないかな」
困ったようにそう言われ、咲耶は慌てて中に入ると戸を閉めた。
その隙に知佳は脱ぎ掛けていた下着から足を抜いて全裸になる。
下着を引っ掛けたまま片足立ちというのはある意味、普通に裸を見られるよりも恥ずかしい。
赤くなった顔を隠すように俯くと、知佳はバスタオルを巻いて先に風呂場へと入っていった。
――悪いことしちゃったな。
何だか申し訳ない気持ちになりながら、咲耶も服を脱いで後に続く。
ここで入らずに出て行くという選択肢は彼女にはないようである。
咲耶が中に入ると、知佳は浴槽の隅のほうで顔の半分近くまで湯に浸かっていた。
掛け湯をして自分も浴槽に入ると、咲耶は知佳の側に寄っていった。
「……ごめんね」
浴槽の縁に凭れている知佳に背後から抱きついて、耳元にそっと囁く咲耶。
さっきのことを言っているのか。それともあんな悪夢を見せたことに対する謝罪なのか。
咲耶は両方のつもりだったが、少なくとも知佳は前者と受け取るだろう。
いい加減ばれているような気がしないでもないが、一応彼女からは何も言ってないのだから。
「別に謝らなくても良いよ。さっきのはその、事故みたいなものだし」
「じゃあ、昨日のこと。わたし、ちょっと強く言い過ぎたから」
「それも良いよ。だって、咲耶はわたしのこと本気で心配してくれてたんでしょ」
そう言って身体を起こすと、知佳は振り返って咲耶に向き直る。
「わたし、何も分かってなかった。咲耶の言った通りだったよ」
そう言いつつ夢で見た光景を思い出したのか知佳の身体が小さく震える。
それに心を痛めた咲耶は思わず知佳の身体を強く抱きしめていた。
分かっていた。
とはいえ、実際に怯えている姿を目の当たりにすると罪悪感で胸が潰れそうになる。
腕の中の彼女はこんなにも小さいのだ。
本物の恐怖を受け止めるには全然足りない。
だというのに、自分はなんて残酷な仕打ちをしてしまったのだろう。
泣き出したい衝動を必死に堪えて、咲耶はそっと知佳から腕を放した。
加害者である自分にそんなことをする資格なんて無いから。
「どうしたの?」
そんな咲耶を見て、知佳が心配そうに聞いてくる。
だが、咲耶は心の中で荒れ狂う感情を押し殺すのに必死ですぐには答えられなかった。
苦痛に表情を歪める彼女を見て、慌てて駆け寄ろうとした知佳を手で制する。
最後には自らの力で感情を粉砕することで、ようやく落ち着くことが出来た。
「……ごめんね、心配かけて。もう大丈夫だから」
乱れた呼吸を整えながらそう言う咲耶に、知佳は真剣な表情で確認する。
「本当に?本当にもう大丈夫なんだね」
「う、うん……」
「本当?嘘だったらわたし、怒るからね」
普段の自分を棚に上げて何度もそう聞いてくる知佳。
その様子があまりに真剣だったので、咲耶は嬉しくてつい笑みを零してしまった。
「ありがとう。でも、本当にもう平気だから」
そう言って微笑む咲耶に、知佳もようやく信じたのか安堵の息を漏らす。
そして、ふと自分が無茶をしたときは他の人たちがこんな気持ちになるのかと思った。
昨夜の咲耶の必死さもそう思うと理解出来るし、それが一層嬉しくも思えた。
「……わたし、ティナの治療受けるよ」
彼女の背中をスポンジで擦りながら、知佳の口からは自然とその言葉が出ていた。
自分がどれだけ愛されているのか改めて分かった気がする。
わたしが無茶をすることで心から泣いたり怒ったりしてくれる人がここにはいるんだよね。
それがどれほど幸福なことか、分からない知佳ではなかった。
その人たちを安心させるためにも、自分は幸せにならないといけないのだ。
「そう……」
あまりに何気なく出た決意の言葉に、咲耶はただ短くそう答える。
そこには大きな安堵があって、それを感じた知佳は知らず口元に笑みを浮かべる。
それに気づいた咲耶が振り向こうとするが、後ろから知佳に抱きすくめられてしまった。
「ちょっ、知佳、何を……」
何事もなかったかのようにスポンジを動かす知佳に、咲耶が慌てて抗議の声を上げる。
「ダメだよ。ちゃんと前も洗わないと」
「そ、それは、自分で洗うから」
「前にそう言ったわたしの身体を無理やり洗ったのは誰だったかな?」
「うっ」
「というわけで、今日はわたしの番ね」
嬉々として咲耶の身体を洗う知佳。咲耶は観念したのか、されるがままだ。
そこに最初のような気まずさはなく、二人はしばし楽しい時間を過ごすのだった。
*
あとがき
龍一「今回は完全に知佳と咲耶だけのお話でした」
知佳「とりあえず、わたしは咲耶と仲直り出来て一安心かな」
龍一「さて、次回で第2章も終わりなわけだが」
知佳「え、まだ何かあるの?」
龍一「さて、どうだろうな」
知佳「そういえば、ちらほらと未消化の伏線があるような」
龍一「謎が謎を呼び、気がつけば最初の謎が謎のまま埋もれているという笑えない事態に」
知佳「もしそうだったら本当に笑えないね」
龍一「さすがにそんなことはないと思いたいな」
知佳「ちょっと、大丈夫だよね?」
龍一「さ、さて、次回はいよいよ第2章終幕。宴会明けの朝の風景です」
知佳「地獄絵図だね」
龍一「他人事じゃないぞ。酒気渦巻く戦場へと単身赴くことになるのは知佳なんだからな」
知佳「嘘!?」
龍一「さて、テンションが上がっているうちに13の執筆に取り掛からないとな」
知佳「ねぇ、嘘だよね。嘘って言ってよ」
龍一「それでは皆様、ここまで読んでくださってありがとうございました」
知佳「次回、無事に会えることを祈ってます」
龍一「それではまた」
二人「ではでは」
*
いよいよ第二章も終盤へ。
美姫 「その前に迫られた選択へと答えを出した知佳」
二人の少女の友情物語だった訳ですな〜(しみじみ)
美姫 「美しいわね」
さてさて、次回はどうなるのかな〜。
美姫 「次回も楽しみに待っていますね〜」
ではでは。